「プチ断食生活」

「プチ断食生活」

ご存じのように、2月下旬の鼻血事件以来、半日断食生活に入り、80日近くになりました。体重も85キロから78キロに一ケ月間で落ちて、それ以後も76~78キロを維持しています。昨年は一時、91キロにまで体重がふえたことがあったので、それから見るとかなり痩せました。ズボンがぶかぶかですね。

80日の間で、3月半ばに1度、48時間ほどの本断食をしましたが、なんとか時間がとれそうなので、一昨日の昼以降、法務の傍ら、2度目の本断食に入っています。今朝は自坊の脳天堂の月例護摩。9時から行じて、午前中は新車加持祈祷などの法務をこなし、今日の午後、50時間が満ちるのをメドに断食明けをします。

本当は本断食というと3日間の断食がメドなので、ちょっと足りないプチ断食です。本断食は1度すると、3ヶ月以内にもう一度、そして半年以内に3度目の断食をすると、宿便退治の効果があがると聞いています。

今朝の体重は76キロちょうど。身長177センチの私の、理想健康体重に近づきました。かつての20代前半の体重です。

でも、腹減ったなあ…(^_^;)

*なお断食明けのレシピについては、FBの過去ログにあります。
 ご参照ください・・・
 ↓
https://www.facebook.com/search/top/?q=%E6%96%AD%E9%A3%9F&epa=SEARCH_BOX

 

 

 

 

 

令和奉祝記念 修験道あるがままに」の第3弾/シリーズ③ 本日発刊!

令和奉祝記念、っていうほど、たいそうなものではないですが、「修験道あるがままに」の第3弾/シリーズ③が本日、刊行されました。

令和最初の出版です。いわば、新元号奉祝記念出版となります。電子版ですけど(^_^;)

電子化の4月以来、1ヶ月に2つずつのペースで、刊行を目指しています。奇しくも、平成から令和またぎの出版となりました!!

シリーズは5分割してますので、残りはあと2つです。

すでに告知の通り、原作「吉野薫風抄」のリニューアル版です。ただ、正直、書き下ろし以上に編纂には大苦労して心を込めて編集しています。

今回のシリーズ③はテーマが「花の吉野と金峯山修験」。お楽しみください。書き下ろしの、新稿「吉野大峯が世界遺産になる~シリーズ③に寄せて」も追録しています。

シリーズ③も、①、②同様にベストセラー1位を瞬間、ゲット出来ますように、是非、シェア、拡散ご紹介のほど、お願いいたします🙇

 

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令和最初の講演会・・・

令和元年がはじまりました。よろしくお願いいたします。
私にとって令和最初の講演会は東京での慶應MCC定例講演会『夕学五十講』への出講です。

よろしければ、関東のみなさん、慶應『夕学五十講』においでください。まだ席に余裕はあるそうです。

詳細は以下。
■日時:2019/5/9(木)18:30-20:30(18:10開場)※質疑応答30分あり
■表題は「修験道の世界~身体を使って心を修める~」
■要旨「ITやロボットと共生する時代だからこそ、人間が本来持っている自然から学ぶ力について、修験道を通して考える機会をみなさんと共有できればと思っています」
■講師案内 田中 利典(金峯山寺長臈、種智院大学客員教授)
           https://kae.me/2FXTCGP
■受講料 5,400円(税込)
■場所:東京駅前の丸ビル7階 丸ビルホール ※JR東京駅から5分

○講演については『夕学五十講』ウェブサイトをご参照ください。
 https://www.sekigaku.net/

 *なお、写真は講演のパワポ表紙です。

 

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「生と死・・・修験道に学ぶ」(終)

「生と死…修験道に学ぶ」(終)

過去3回にわたりアップした第42回日本自殺予防学会での、講演録の最終校です。

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□まとめとして

この学会では「あるべきように生きるー地域の繋がりの中で自殺を防ぐー」という素晴らしいテーマが掲げされています。

ただしその繋がりは、地域の繋がりという、いわゆる欧米的なコミュニティ社会だけを指すのではなく、もっと広げた、そこに生きてきた人、先祖、過去、歴史、そして未来も含め、文化、風土、自然など全部込みの繋がりであるべきなのではないかと考えます。欧米的なコミュニティ=人間社会だけの地域の繋がりとか、今だけの地域の繋がりではなくて、過去からの繋がり、未来への繋がりも含めたすべての繋がりの中で考えるということが、私は大事なのではないかと思うのです。

何度か、擬死再生ということを申し上げました。擬死再生も実の意味は繋がりにあります。一度死んで生まれ変わるという、死んで終わるのではなくて、一度死んで生まれ変わるところに人間が生きていく生の実感、死の実感がある。そういうことを儀礼として、修行として教えているのが修験の教えであると申しましたが、その真意は繋がる命を見つめるということに尽きるのであります。「死に習う」という教えもまたしかりであります。


最後にもう一度まとめてみました。今回の自殺予防というテーマに関して、修験道から提言をさせて頂く要点を3つ述べておきます。

ひとつは命の実感、生きる実感を持つこと、持たせることというのが大変大事なのではないか。修験の行というのはまさに命の実感の行であります。私どもはいろんな方を受け入れて修行しております。鬱病の方とか、統合失調症の方とか、あるいは見るからに心が病んでいるような方もおいでになります。

そんなみなさんも、断崖絶壁の、自分の身に危険がある場所では必死になって行じておられます。人生に投げやりな人も、自分の命が危ないというその場所になると、必死になって行じます。自殺願望の人さえ、危ない目にあいそうになると、一生懸命自分の命を守ろうと行じます。「死にたかったんちゃうんか」と思うような人でも、その場に行くと一生懸命に岩をよじ登ります。

あるいは修行を終えて、自分の命、自分の生きる実感に出会った時に、生きる意欲を新たに生む方がいます。だからと言って、そんな方ばかり来られると修行になりませんので、あまり喧伝されるのは不具合なのですが‥。そういうこともあったのだという風に今の話は聞いておいて頂ければと思います。

ま、人間というのは厄介なものです。なぜ人間が厄介かというと、動物は生きることに精一杯です。人間は、動物ほど生きることに精一杯ではないから、頭の中で、自分の死を考えたり、自分の将来を考えたり、自分の過去を悔いたりするわけです。犬や猫はそんな暇(いとま)がなく、ライオンやキリンは弱肉強食の世界でそういう考えさえ持つ余裕もなく、みなが必死に生きているわけで、彼らは死という概念をもっているかどうかも分からない。死を知るどころか、生に精一杯である。でも、人間は生に目覚め、死にも目覚めてしまったわけであります。

昨日、私の家の近くの踏切で、88歳の老婆が鉄道の上で座っていて轢かれて亡くなりました。この人が自殺だったのか、ボケていたのかはわかりません。痛ましい事故でした。でもこれからは、そんな悲惨な出来事が社会にどんどん広がっていくのだろうと思います。そんな中で、少なくとも若い人達にとっては、命の実感、生きる実感を持つということが大変大事なのではないか、ということをお伝え出来ればと思います。

2番目。繋がりの中の命の実感。今の自分、今だけの時間、この今という瞬間だけを取り上げるのではなくて、繋がりの中の命を自覚する。自分が死ぬことによって自分を通じで未来に続くであろう命まで殺してしまうわけであります。自分が死ぬことで自分の繋がりの中のたくさんの人を悲しませることになる。孤立しない命を生きるという中で、自分の命の繋がりを考えていく事が極めて大事なのではないかと思います。

人間は寂しがり屋ですから、孤立をしすぎると死にたくなってしまいます。孤立しない、繋がりに本質があるということに気づくこと、気づかせることが大事なのではないかと思います。冒頭で紹介しました友人達の死も、いまの私の生に繋がっていると私は思っています。

3番目。最初の修験道の説明で修験道はグローカルな宗教というお話をしました(*本稿では省いています)。グローバル化された欧米の価値観でものをみるだけではなく、やはり日本的な接し方、一神教の価値観にはない、自然の中で生かされている、そういう価値観が必要なのではないかという話をしましたが、この学会におかれましても、きっと元になるものは欧米的な手法がメインだと思います。

しかし、日本的な和の精神であるとか、宗教観であるとか、さらに繋がりの中で生きるとか、そういうような風土の中で育ってきた人に対する、日本的なグローカルな予防の対処法、予防の有り様があるのではないかと思っています。

修験道がグローカルの宗教であるのと同じように、日本で行われるあらゆる事は、グローカルなものを極めていくことが、日本にとってのあらたな意味を成しえると私は確信しており、それを最後の提言とさせていただきたいと思います。(了)

*********

最後まで読んで頂いてありがとうございました。長くてすいません。これでも修験道の説明の所ははしょりました。ご意見をいただければと幸いです。


また、もし全文を読みたい方にはPDFでお送り致しますので、直接、メールをいただければと存じます。
 
 *写真は講演をさせていただいた学会当日のリーフレットです。「生と死…修験道に学ぶ」(終)

 

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「生と死・・・修験道に学ぶ」③

「生と死…修験道に学ぶ」③

昨日一昨日とアップした日本自殺予防学会講演録の続きです。

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3番目。「人間の本質は繋がりにある」ということ。山の修行で学んだこと感じたことはたくさんありますが、その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行の11回目を迎えたときに、私は強烈な体験をしました。その日は朝からすごい雨が降っていました。もう体中ぐしょぐしょです。行中は1日に20箇所ぐらい「靡」(なびき)という場所で勤行するのですが、そのときは明星ヶ岳の遥拝所というところで勤行をしていました。ずっと雨が落ちていました。わずかな時間、勤行する間に、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲や、あらゆるものが、まさに自分と繋がっている、ということを実感したのです。

これはもう突然でした。たぶんその日はすでに8時間ぐらい歩いていて、くたくたでした。行に入って3日目だと思いますが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、ふと、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中が感じたのです。そしてすべてが繋がっていることを感じたその時に、私の死に対する考えが変わったのでした。

さきに紹介したように、私は、死は常に地球を外側から見ている自分がいて、全てから疎外されて、自分だけ死んでそれでも地球はいままで通りに運行をしている、そう思うとすごい孤独感というか、恐怖感にさいなまれ、それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのですけれど、繋がっているということが実感できた時に、私の死に対する恐怖は極めて小さくなって行ったのです。この繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのです。

大自然の中で修行していると全部のものに繋がっている、自分が、私が、というそういう我執のようなものが消えてしまって「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来たのです。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを山の修行の中で学んだわけであります。

それは「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表されると思います。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は繋がり合う中にこそある、ということです。「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがあるのです。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。

つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行で私は気づかせて頂きました。つまり孤独な生の克服というのは繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思うのです。

自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が人間の心の中にはありますが、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを、極めることが実は大事なのではないか。これは大きなキーワードになると思います。唯一絶対の神との繋がりというような欧米的なものとは違う、多神教を基層とする日本的な独特の世界観と言っていいかもしれません。

□日本人の自殺率は高い

さて、この自殺予防学会での講演のお話を頂いて、何を話そうかと思っているときに、私はたまたま北陸の加賀に行き、相田みつをさんの記念展に遭遇しました。その相田さんの記念展で、この学会のテーマとリンクして私の中で入ってきた言葉がありました。相田さんは素晴らしい言葉をたくさんお残しになっていますが、この学会でお話をすることに私は結構プレッシャーを感じていたので、よけい私の心に響いたのかもしれません。

それは「あのね、人間はね、自分の意思でこの世に生まれてきたわけじゃねえんだな。だからね、自分の意思で勝手に死んではいけねえんだよ。」という言葉でした。その通りだな、と思います。でも、その通りだなと私は思いますが、世の中には思わない人はきっとたくさんいるのだろうな、ということも思いました。

私の友人で正木晃さんという宗教学者がおられますが、正木さんから聞いたお話なので私が調べたわけではないことをお断りして、紹介をいたします。

世界における自殺率というものがあるそうなのですが、日本人は、キリスト教徒よりも圧倒的に自殺する人が多いと聞きました。なぜ日本人が多く、キリスト教徒の自殺は少ないのか。キリスト教も最近はずいぶん様子が変わってきているとも聞きますけれども、基本的にキリスト教徒は日本人と比べると自殺率が低い。なぜなら、キリスト教徒は、自分の命は神様から、いわゆるヤハウェの神様から頂いたものであるので、自分で命を絶つということは神に逆らうことであるという倫理観があり、それによってキリスト教徒は自殺率が低いのだそうです。

それに対して、日本人はと言うと、相田さんがお書きになっているように自分の命は自分で勝手に生まれてきたのではなくて、頂いた命なのだというーこれは仏教の考えもあろうかと思いますし、そういう視点を持ちなさいということでありますが、実はキリスト教徒のような厳格なものが倫理観としてないのが日本ではなかろうか。

いや、自殺は日本人にとって、本当に悪いことなのでしょうか?江戸時代、自殺は美学でした。サムライたちは自分の命に代えて名誉を守ったり、主人に対する忠誠を誓いました。社会はそれを良しとした時代がついこの間まであったわけであります。いや仏教では未だに自殺が続いております。中国による弾圧によってチベットではもう200名近い僧侶の方が焼身自殺で命を失っておられる。仏教では法華経などに説かれる焼身供養という考え方がありますが(『法華経』薬王菩薩本事品)、自分の身を焼いて仏に供養する行いがある。そういう考え方の中で、チベットでは中国に対する抵抗のひとつとして、焼身自殺が未だに続けられている。こう考えると、決して自殺が悪いと言えない社会が実はあるのではないか。

じゃあ、どうするのだということでありますが、そんな中で私が言えることがあるとするなら、繋がりの中で生きている、ということをもう一度見つめ直すところから始めましょうと思うわけです。
(以下次回へ)

***********

 写真は本文中で紹介したあいだみつをさんの字句です。
 次回が最終です。

 

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「生と死・・・修験道に学ぶ」③

「生と死…修験道に学ぶ」③

昨日一昨日とアップした日本自殺予防学会講演録の続きです。

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3番目。「人間の本質は繋がりにある」ということ。山の修行で学んだこと感じたことはたくさんありますが、その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行の11回目を迎えたときに、私は強烈な体験をしました。その日は朝からすごい雨が降っていました。もう体中ぐしょぐしょです。行中は1日に20箇所ぐらい「靡」(なびき)という場所で勤行するのですが、そのときは明星ヶ岳の遥拝所というところで勤行をしていました。ずっと雨が落ちていました。わずかな時間、勤行する間に、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲や、あらゆるものが、まさに自分と繋がっている、ということを実感したのです。

これはもう突然でした。たぶんその日はすでに8時間ぐらい歩いていて、くたくたでした。行に入って3日目だと思いますが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、ふと、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中が感じたのです。そしてすべてが繋がっていることを感じたその時に、私の死に対する考えが変わったのでした。

さきに紹介したように、私は、死は常に地球を外側から見ている自分がいて、全てから疎外されて、自分だけ死んでそれでも地球はいままで通りに運行をしている、そう思うとすごい孤独感というか、恐怖感にさいなまれ、それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのですけれど、繋がっているということが実感できた時に、私の死に対する恐怖は極めて小さくなって行ったのです。この繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのです。

大自然の中で修行していると全部のものに繋がっている、自分が、私が、というそういう我執のようなものが消えてしまって「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来たのです。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを山の修行の中で学んだわけであります。

それは「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表されると思います。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は繋がり合う中にこそある、ということです。「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがあるのです。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。

つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行で私は気づかせて頂きました。つまり孤独な生の克服というのは繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思うのです。

自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が人間の心の中にはありますが、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを、極めることが実は大事なのではないか。これは大きなキーワードになると思います。唯一絶対の神との繋がりというような欧米的なものとは違う、多神教を基層とする日本的な独特の世界観と言っていいかもしれません。

□日本人の自殺率は高い

さて、この自殺予防学会での講演のお話を頂いて、何を話そうかと思っているときに、私はたまたま北陸の加賀に行き、相田みつをさんの記念展に遭遇しました。その相田さんの記念展で、この学会のテーマとリンクして私の中で入ってきた言葉がありました。相田さんは素晴らしい言葉をたくさんお残しになっていますが、この学会でお話をすることに私は結構プレッシャーを感じていたので、よけい私の心に響いたのかもしれません。

それは「あのね、人間はね、自分の意思でこの世に生まれてきたわけじゃねえんだな。だからね、自分の意思で勝手に死んではいけねえんだよ。」という言葉でした。その通りだな、と思います。でも、その通りだなと私は思いますが、世の中には思わない人はきっとたくさんいるのだろうな、ということも思いました。

私の友人で正木晃さんという宗教学者がおられますが、正木さんから聞いたお話なので私が調べたわけではないことをお断りして、紹介をいたします。

世界における自殺率というものがあるそうなのですが、日本人は、キリスト教徒よりも圧倒的に自殺する人が多いと聞きました。なぜ日本人が多く、キリスト教徒の自殺は少ないのか。キリスト教も最近はずいぶん様子が変わってきているとも聞きますけれども、基本的にキリスト教徒は日本人と比べると自殺率が低い。なぜなら、キリスト教徒は、自分の命は神様から、いわゆるヤハウェの神様から頂いたものであるので、自分で命を絶つということは神に逆らうことであるという倫理観があり、それによってキリスト教徒は自殺率が低いのだそうです。

それに対して、日本人はと言うと、相田さんがお書きになっているように自分の命は自分で勝手に生まれてきたのではなくて、頂いた命なのだというーこれは仏教の考えもあろうかと思いますし、そういう視点を持ちなさいということでありますが、実はキリスト教徒のような厳格なものが倫理観としてないのが日本ではなかろうか。

いや、自殺は日本人にとって、本当に悪いことなのでしょうか?江戸時代、自殺は美学でした。サムライたちは自分の命に代えて名誉を守ったり、主人に対する忠誠を誓いました。社会はそれを良しとした時代がついこの間まであったわけであります。いや仏教では未だに自殺が続いております。中国による弾圧によってチベットではもう200名近い僧侶の方が焼身自殺で命を失っておられる。仏教では法華経などに説かれる焼身供養という考え方がありますが(『法華経』薬王菩薩本事品)、自分の身を焼いて仏に供養する行いがある。そういう考え方の中で、チベットでは中国に対する抵抗のひとつとして、焼身自殺が未だに続けられている。こう考えると、決して自殺が悪いと言えない社会が実はあるのではないか。

じゃあ、どうするのだということでありますが、そんな中で私が言えることがあるとするなら、繋がりの中で生きている、ということをもう一度見つめ直すところから始めましょうと思うわけです。
(以下次回へ)

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 写真は本文中で紹介したあいだみつをさんの字句です。
 次回が最終です。

 

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「生と死・・・修験道に学ぶ」②

「生と死…修験道に学ぶ」②
昨日アップした日本自殺予防学会講演録の続き②です。

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□修験道に学ぶ

修験道が今も続けてきたことの中に、今回の学会のテーマと関連する学び、教えがあるということで、それをこれから3つの視点から紹介いたします。

1つ目です。我々の山修行は「擬死再生の修行」ということを申します。一度死を体験して生まれ変わる。山の行、とくに大峯奥駈修行などでは1日12時間ぐらい歩きます。本当にくたくたになります。それを8日間ぐらい歩き続ける。まさに死を覚悟するような修行の日々を送る中で、一度死んで生まれ変わる実感を持つのが修験の行なのです。

この行に白装束で入るというのも、いわゆる「死に装束」を象っています。行の中で、一度死ぬような思いをするのです。あるいは行場には、胎内くぐりという、狭いクレパスのようなところから潜って出てくるという場所もあります。死ぬような修行をした後、母の胎内から生まれ変わって出てくると言う、まさに擬死再生を体感する儀礼まで用意されているのです。これが修験修行の意味なのですが、考えて見ると人間というのはもともと数年で全ての組織が生まれ変わると言われております。 

(お医者様たちの前で披瀝するのは憚られますが‥)細胞単位で言うと、皮膚は28日、胃腸は40日、血液は127日、骨は200日。肝臓腎臓は200日で生まれ変わるそうです。厳密に言えば全部ではなくて、心臓とか組織が生まれ変わらないものもあるので、全てが生まれ変わるわけではないのですが、ほぼ、何年か前の自分と今とは、組織上では違っているというのが、まあ科学的にいわれるところです。

しかしながら、それは自分の体で生に実感できるものでありません。今年の右足は一昨年の右足と生まれ変わって良いなと、いうようなことはないわけで、逆に老化するのを実感するわけです。ところが、山の擬死再生‥山で一度死んで生まれ変わるというのは、再生の実感があります。

例えば50人から100人ほどを山に連れて入りますが、だいたいおいでになった時は参加のみなさんの顔がぼうっとしています。あるいは、ちょっと病んでいるような人もいるわけです。それが山に入れて3日とか1週間修行して、終えて降りてくると、みんながたいへん良い顔になっているのです。目つき顔つきが変わって、生まれ変わったなという、見た目にわかるのです。

本人もそれまでの自分が、山での苦しい苦しい修行を経て新たに生まれ変わったいう実感があるのです。それは、生きているという実感でもあります。ここが大事なのです。生きている事というのは、生きている間はずっと動いていますから、よくわからない。物事は動いている時にはあまり実態は分からない。止まらないと、動いている時のことが理解できないものです。だから生きている間は動いていますから、生きていることが実は自分ではよくわからないのです。

どうしたらいいかというと、死ぬと止まるから、生きていることが分かる。ところが死んでからわかったのでは実は遅い。「生」の鏡は「死」であると言いますが、動いている間は分からない、止まらないと分からない。でも止まってからわかったのでは死んでいるわけで遅いですから、普段から「生」の実感を持つということが極めて大事なのですが、なかなか生の、あるいは命の実感っていうのはわかりにくいものです。

そんな中で山の擬死再生の修行というのは、生きながらにして自分の死を覚悟したり、あるいは自分の生に気付いたり、そういう装置、そう言ってしまうと少し語弊がありますが、山修行にはそういう力があると、私は思っております。そういう教えが修験道の修行の中にはあるのです。生きる苦しさや、生まれ変わる苦しさを体験することと言えるかもしれません。

2番目。「死に習う」という修験の教えがございます。どういうことかというと、毎日の生活の中で常に自分の死を意識する。さきほどの「動いている間はなかなか止まった状態のことがわからない」という話をしましたが、だからこそ自分が生きてる今、自分の死を意識する、死を意識して生きるというのを、「死に習う」という言葉で教えています。

山の修行では擬死再生という、死を意識し、生を意識するのですが、それは山の中だけではなくて、普段の生活の中でも、自分の生、自分の死を意識しましょう、ということです。修験ではさらに「山の行より里の行」という教えがあります。山で得た修行の力、これは素晴らしいけれども、それを里で活かすのがもっと大事なのだと教えています。

もっと言うと山で得た修行の力は大変素晴らしいけれども、実は毎日の生活の中の修行が肝心なのだということです。「死に習う」というのも、山の中で、擬死再生ー死を意識するような経験をするけれども、それよりさらに毎日の生活の中で自分の死を意識して生きることが大事なのだと教えているのです。そういう意味では、現代というのは生きる「生」への意識、あるいは「死」への意識が大きく隔絶した社会かもしれません。

一つは、大自然の中で修行しますと、大自然の厳しい環境の中から、自分らが生きている、生かされているということを体感し、自分の生とか死についても実感するものがあるのですが、現代の我々の生活というのは、そういった自然の摂理の中で生きるという関係性がややもすると阻害されているように感じます。具体的に言いますと、生と死の事については、例えば、ウチの弟は、私の家で生まれました。私が9歳の時に彼は「おぎゃー」といって生まれたのです。お産婆さんの手伝いで自宅で母は出産しました。赤ちゃんは、昔は皆、家で生まれたのです。そして家で死にました。私が生まれた時には祖父も祖母も亡くなっていたのですが、隣のおばあちゃんは隣の自宅で死にました。生も死も普段生きている中で目の当たりにする機会が少し前までは、皆あったのです。

今の子供達、うちの息子や娘は、死や生を病院でしか経験していません。うっかりすると、病院にも駆けつけなかったりするわけですから、生や死がリアルなものとして映らない時代を生きていると言っていいでしょう。生は死は自然の摂理ですが、そういう生や死自体から隔絶している社会の中で生きていると、死に習う、生を意識するというのはなかなか難しいことだと思います。生かされている命との向き合い、と書きましたが、こういう社会では、自分の生、自分の死についてさえ実感が欠けるわけで、どうしても命の軽視、生への尊厳を失うのではないかと思います。山伏の教えで「死に習う」というのは、そういう毎日の中に自分の死を意識して、一日をしっかりと生きましょうという導きでもあるわけです。

(以下次回へ)

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*写真は擬死再生の修行・・・山上ヶ岳表の行場「西の覗き」

「生と死・・・修験道に学ぶ」①

「生と死…修験道に学ぶ」①
 第42回日本自殺予防学会特別講演
「あるべきように生きるー地域の繋がりの中で自殺を防ぐー」 

*********

昨年10月に行った第42回日本自殺予防学会「あるべきように生きるー地域の繋がりの中で自殺を防ぐー」での特別講演が掲載された一般社団法人日本自殺予防学会の機関誌が送られてきました。

自殺予防学会というたいへんアカデミックな学術大会で、しかもいささかナイーブな問題を扱うだけに、修験道の話など、どうかなとも思いましたが、なにしろJAXAで宇宙飛行士と山伏の話さえしたくらいですから、今回も断らずにお受けしました(^_^;)

全文掲載はいささか長いので、少しはしょって、重要なところだけ、何回かにわけて掲載します。よろしければお読み下さい。

********* 

□私にとっての死
                       
私にとって子どもの頃から「死」は怖いものでした。自分の「死」をイメージすると、必ず、地球を外側の宇宙から見ている映像が思い浮かびました。つまり自分が死ぬことによって、地球や世の中の生活は続いているのに自分だけが疎外されるという孤独感を強烈に抱いていたのでした。

その怖い死が身近なものとして感じる出来事は、19歳の時と、その19年後の38歳の時に起きました。2度とも、親友を亡くしたことでした。

一人は大学時代に知り合ったKという友人で、知り合って1年足らずの頃、彼は自殺しました。彼とは大学に入って入部した歴史学研究会で出会いました。いまからおもえば共産党系のクラブで、夏休みを過ぎるころになると部員は街頭デモなどに動員されるようになり、「なんか違うなあ」と言うことで、新入生の私達数名は部を辞めました。K君も一緒に辞めました。辞めてからも付き合いは続いたのですが、2回生の春、私もなんどか呼んでもらった下宿先の部屋で、自分の将来を儚んで、彼は自らの命を絶ったのでした。実は私も大学に入る前に自殺願望を持ったことがあるので、このとき、なぜ力になれなかったのかと悔やみました。

二人目は中学時代からの大親友で、突然の事故死でした。お互いの結婚式にも呼び合った深い関わりの友人でした。その彼が、夏休みに会社の同僚と海水浴に行き、波にのまれて溺死したのでした。泣きながら、彼のお葬式に向かったことを昨日のことのように覚えています。人間というのは本当にあっけなく死ぬものだなということを、この二人の親友が教えてくれました。

私が生まれた時にはすでに祖父も祖母も亡くなっていたし、親しい親戚もなかったので、身近な人の死を目の当たりにしたのは2人の死が初めてだったのです。「死」は「生」の裏返しであるとは世間でよく言われる言葉ですが、私にとって二人の突然の死を考えることは、その後の私自身の生と向き合うことでもありました。また私が自分の生と向き合うことで二人の友人の死がいまなお、私の中で生き続けているともいえます。(以下次回へ)

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「修験道あるがままに」シリーズ② 刊行しました。

  「修験道あるがままに」シリーズ② が本日、刊行されました。

 

1ヶ月に2つずつのペースで、刊行を目指しています。あと3つです。

原作「吉野薫風抄」のリニューアル版ですが、正直、書き下ろし以上に苦労して編纂してます。

みなさん、シリーズ②も、是非、シェア、拡散ご紹介のほど、お願いいたします🙇

https://www.amazon.co.jp/dp/B07QS16C5K

 

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「講演のことなど・・・」

「講演のことなど・・・」

今日は奈良県経済倶楽部で講演をさせていただいた。近鉄奈良駅前の、一等地にある経済倶楽部会館の大会議室にて、約60名のみなさんにお話をし、いささか忙しい話だったと反省をしたが、それでも持参した著作は完売だった。ありがたいご縁である。

だいたい1ヶ月に1~2回、年間20回前後、もう20年近く、そういう活動をさせて頂いている。15年くらい前、紀伊山地三霊場の世界遺産登録前後はその3倍くらいのお声がけをいただいたが、ここ数年は少し落ち着いている。でもいろんな方面からお誘い頂き、年20回は、ずっーと続いているわけで、寺内以外のさまざまな分野や場所でお話をさせて頂いているのは本当に希有であり、ありがたいことである。

今月はもう1回、誇り塾の定期講座で週末に東京へ出講する。来月は奈良で1回、そして東京の「慶應MCC定例講演会『夕学五十講』での講演がある。

よろしければ、関東のみなさん、慶應MCC定例講演会『夕学五十講』においでください。
まだ150名程度の申し込みらしく、席に余裕はあるそうです。

詳細は以下。
■日時:2019/5/9(木)18:30-20:30(18:10開場)※質疑応答30分あり
■表題は「修験道の世界~身体を使って心を修める~」
■要旨「ITやロボットと共生する時代だからこそ、人間が本来持っている自然から学ぶ力について、修験道を通して考える機会をみなさんと共有できればと思っています」
■講師案内 田中 利典(金峯山寺長臈、種智院大学客員教授)
           https://kae.me/2FXTCGP
■受講料 5,400円(税込)
■場所:東京駅前の丸ビル7階 丸ビルホール ※JR東京駅から5分

○講演については『夕学五十講』ウェブサイトをご参照ください。
 https://www.sekigaku.net/

 *なお、写真は講演のパワポ表紙です。Dsc_1319_1

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