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蔵王法・・・

今日の午後から参籠します。

金剛蔵王権現供養法21ヶ座修法のためです。
久しぶりの密行なので、さて、よい修行になるやら。

自行に終われせず、十善戒を守って、わずかなりとも、利他行にもなればと念じています。

そんなわけで音信不通にしばしなります。。

女性の山伏修行

今日は金峯山寺主催の大峯体験修行を行い、29名の参加者とともに大峯道を行じてきました。
大先達を務めた私も含めて29名のうち、女性が20名。女性中心の山伏修行でした。あ、もちろん一般募集のふつうの女性ばかりですが…。

山伏修行というと男性中心で、追記に女性も参加できますっていう類が多いのですが、今回のコンセプトは男性も参加出来ますという女性中心の行。。でも男性以上に女性のがんばりは素晴らしくよい修行が出来ました。

天候にも恵まれ穏やかな清々しい気候の下の、とても気持ちの良い山行でした。

明日から「蔵王権現供養法」という修法に21ヶ座一週間にわたり籠もります。その前行として今回の山行は私にとってもよい修行となりました・・・。

今日は大五輪塔供養会

Dscf0015 今日は大五輪塔の供養会でした。

鎌倉先生に設計頂いた供養塔(写真)です。今年で4年目を迎えました。。

良い天気でいい法要が営めました。いい天気過ぎて眠かったなぁ…。

今日は大変でした

H188_006 今朝は4時起きで吉野に戻ってきました。

ところが事務所はなぜかみんなお休み。一人だけが出勤しているという緊急事態。またそんな日に限って、いろいろあって・・・。

実は今日の産経新聞全国版に10月執行の結縁千人潅頂会の話題が記事になったようで、朝から問い合わせと申し込みが相次ぎました。普段は電話に出ることのない私ですが、1ヶ月分くらい、電話に出たかも…。

今日一日でなんと40名近い方の申し込みがありました。ふだんは1名あるかないかくらいですので、新聞の力は大したものです。

今日は半日オフ

今日は2回目のカキコです。

今朝は自坊の護摩の日。朝起きて水を7ハイかぶってお清めをして護摩を修法しました。なかなか気持ちのよい護摩でした。

そのあと4人ほど信者様のご相談のお相手をして、午後はオフ。夕方、とても綺麗な夕焼けの下で、一時間ほど裸足の散歩をしました。

とてもよい時間が流れていました。

夜、一本原稿が書き上がりました。よい時間を過ごすと原稿がすっと書けたりします。

正木先生とアユルベーダ

昨日は正木晃先生の講演を、特別研修会の中でお願いして、行って貰いました。約2時間半、ながいですねぇ…と先生に言われましたが、あっというまに、お話しが終わりました。あいかわらず冴えている講演でした。受講者120名もみなさん、感激しておられました。

終わって、大阪の友人が開いているアユルベーダのお店にご案内して、施術を受けて貰いました。私も久しぶりに受けました。 スリランカで行われているアユルベーダですが、スリランカにアカデミーを持っていて、昨年から大阪にお店を開きました。昨年はスリランカに私も行って来ました。とても素敵な所でした。また行きたいと思っています。 いま、大阪のお店にはスリランカから2人セラピストの女性か来ています。

正木先生にはスリランカ仏教とアユルベーダの関わりを日本に紹介するご相談をお願いしています。

チベット紀行 最終回

Photo_18 Photo_19 624_ ようやく今回で脱稿です。ご感想をお待ちしております。

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□2006.6.24

06:00,モーニングコール。07:00,朝食。朝からASがいよいよ調子が悪そうである。「白居寺で群衆にお加持をしたので、へんなものをもらったんじゃないか」と少々ちゃかしてみたが、反応が鈍い。かなりしんどいようだ。今回の参加者の内、私の関係者ばかりが体調を崩している。08:00,ゴンカル空港に向け出発。09:30、空港到着、いよいよこれでラサ・チベットとの別れである。名残惜しい。今日までお世話になったガイドのテンジンさんとドライバーさんともここでお別れである。ホント、お世話になりました。シガツェへ向かうバスの中で聞いたテンジンさんのハーモニカ演奏、嬉しかったです。懐かしい日本歌謡が秘境チベットの高山にとけ込んでいくあのひとときは忘れられない想い出になるでしょう。チベットの未来に栄光あれ!そんな思いを込めてテンジンさんたちと別れの握手を交わしたのだった。

思えば北京・成都を経て、18日のチベット入りして以来、心配した高山病にも陥らず、私は早めの高山順応を果たし、絶好調である。お陰で断酒もチベットダイエットも大失敗に終わったのであるが、元気に巡拝を果たすことが出来たことは有り難い一語に尽きる。ともかく私の「セブンデーズインチベット」はこの日で終わった。「チベット仏教とチベット人民に栄光あれ!」と今一度つぶやいて、私は成都へのエアバスに搭乗したのであった。11:00、いろんな思いと思い出を乗せたまま、私たちの搭乗便はゴンカル空港を離陸。目指すは成都である。そして明日には北京を経由して、ふるさと日本に帰ることになる…。

・・・・・吉野山人の「セブンデーズインチベット」はここで終了である。ここから25日の帰国までの行程はいわばおまけ。ま、思わせぶりに書いたASの容態のこともあるし、このあとのことも少しふれておきたい。私たちは成都で一泊する。チベット入りの前にも一泊した成都であるが、今回は時間もあり、成都の代表的観光名所・杜甫草堂や三国志の英雄・劉備玄徳廟、諸葛孔明陵(武公祠)などを参観した。兼ねて三国史・諸葛孔明大ファンを自認する私にとって、最後のお楽しみということだったが、あまりに殺風景で、いかにも観光地然とした武公祠には大いにがっかりさせられたことを報告しておく。ASはこの日の昼・夜も食事をぜんぜん取らず、断食を続けていたが、夜中に成都のホテルで急性腸閉塞をおこし、緊急入院する。彼が慢性の閉塞持ちだったことを私も忘れていて、大騒ぎとなった。翌25日は日本帰国の日であったが、医者の許可がなかなかおりず、開腹手術の一歩手前まで行き、帰国に赤信号が点灯したのであった。しかし看護士のHNさんや貫田さん、伊藤さんの懸命の看護もあって、25日午前中になんとか退院させ、団員達と一緒に帰ることが出来たのであった。正木先生はじめ、ホント多くの方々に多大の迷惑をおかけして、恥じ入るしかない旅の締めくくりとなった。

しかし、御本尊の大きなお計らいであろう。旅行中に襲ったAO事件やAS事件など様々な障害を乗り越えて、25日の午後8時過ぎには、全員が無事、成田空港に降り立ったのであった。深く深く感謝申し上げるものである。本当に有り難うございました。

「旅の終わりに~人間が生きるということ」

私は旅行に出るといつも思うことがある。旅先で出会う多くの人々をみていると、「人間はなにかをして生きているんだなあ」と漠然と思うのである。人間はなにかをして生きている…至極当然のことなのだが、日常の生活を離れて、非日常の外国旅行へ行くと、そういう思いがいつも私に迫ってくるのである。今回のチベット行きでもそうだった。秘境といわれる国だけに、今までよりよけい強くそういう思いを抱くことになった。

商売をしている人、畑を耕している人、食事の世話をしている人、巡礼をしている人、昼間から寝そべってる人、物乞いをしている人…千差万別に多くの人々に出会ったのである。
考えれば、「あんなことを達成した、こんなことも成し遂げた」といったところで、所詮私も、家庭と仕事を行き来しながら、なにかをして生きているだけの存在である。誰もが生まれた以上は死ぬまで、なにかをして、生きるだけのことなのである。

その生きる過程で成し遂げたことの価値など、大いなる宇宙の営みから見たら芥子粒にも満たないものである。それでも私たちはああだこうだと右往左往しているのだ。ホントに愚かな話である。

釈尊は世間虚仮と看破された。是真仏法とも説かれておられる。チベットの大地で這いずり廻りながら、仏教の教えのみを信じて生きている人々にたくさん出会って、私は仏教者としてもう一度、人が生きるとはなんなのかという問いかけを続けていたのであった。柔和な仏像とおどろおどろしい曼荼羅画の狭間で、生きることの複雑さや猥雑さを感じながら…。

□エピローグ

旅行を終えて、2ヶ月近くもかかってようやく書きあげることになった本編は、私の中では満足出来る内容とはとうてい言えないものである。もっと深い感動や、目の当たりにしたチベット仏教の息づかい、素晴らしい文物などについて、その百分の一も書き切れていないジレンマを感じている。チベット仏教の現状ももっと細やかに報告するつもりだったし、心に止まった風景や人々の生活も描ききれなかった。しかしながら、たとえその百分の一のものでも、こうやって書きとどめておかないともっともっと私の中で風化消滅していくに違いない。今は最後までめげずにかき上げたことだけでも由としたい気持ちである。

末尾ながら、そんな文章につき合わせた皆様には誠に申し訳ない思いでいっぱいである。最後まで読んで頂いて有り難うございました。正直、読んで頂いていると思う気持ちが、かき上げる原動力になりました。厚く御礼を申し上げます。

★おまけ
今回同様、大先達正木晃先生、総奉行貫田宗男コンビの第2弾ツアーが企画されています。来年3月21日から31日まで、ブータン王国を巡り、聖地ブムタンやラクツァン僧院を訪問、またブータン最大の仮面祭として名高いパロ・ツェチェ祭りも体験するという旅行です。是非、私も行きたいのですが、なにしろ年度末。宗議会の改選や、いろいろ宗務が繁多なときですから、今のところはどうなるかわかりません。但しブータンは事前に旅行予約がいるため、締切の時期が早く、一応、10月末締切となっています。詳しいリーフレットがありますので、メールにてお訪ね下さい。
是非一緒に行きましょう!っていいたいのですがねえ。まだ今のところ私自身は不確定なのです。ともかくお知らせだけさせていただきます。

チベット紀行 9

□2006.6.23

07:00,起床。08:00,朝食。09:05,バスで出発。09:15,ノルブランカ到着。ここノルブランカはラサ市街の西の郊外にある観光名所。ノルブランカとはチベット語で「宝珠の林園」の意。ダライ・ラマ7世のときに造営され、のちに歴代のダライ・ラマの夏の宮殿となった。総面積36万平方メートルという広大な敷地には、灌木が生い茂る美しい庭園に幾つかの棟が点在している。そのうち、タクトゥミンギュル宮はダライ・ラマ14世が住んでいた建物で、謁見室、私室、瞑想室などがあり興味深かった。1959年、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命するが、そのとき、ここノルブリンカから脱出したことは有名な逸話。10:45,ノルブランカを後に、チベット博物館へ。ラサはすでに4日目の観光である。当初の計画のラサ観光は大方は終わっているので、主だったところはもうあまりない。故に博物館もそう興味はわかなかった。とりわけ中国史観で、チベットの歴史が紹介される携帯解説器具の館内案内には違和感を覚えた。日本語版の案内があったことは驚きだったが…。博物館の土産物屋ではまたまたたくさん買ってしまった。見ると買うのだ。だめだなあ。12:00,博物館を出発。市内の百貨店でお茶の土産を買いたい人がいるというのでしばし寄り道。私?当然買いました。バスから降りなければ良かった。日本帰国後のカード請求が恐ろしいなぁ。

12:40,ホテル帰着。昼食を取る。美味しい中華も、日本から持参したインスタントのみそ汁もさすがにもうそろそろ厭きてきた。旅行も1週間を越えるといろいろ不満が出てくる。でもAOの入院事件といい、結構いろんな事件があった割には、団員全体は和やかである。みなさん、えらいなあ!14:25,またまた八角街のタンカ画店へ。また買い足してしまった。16:30,「良子足道」へ。三度めのご来店である。ともかく2時間半で1800円は全くやすい。今回は私と伊藤さんのほか、HNさん、HSさんの4人。
19:30,私たちの帰りが遅いので、団員全員がバスで迎えに来てくれた。食事の時間に間に合わないからという。申し訳ない。19:50,テンジンさんが「今夜は松茸料理ですよ」と、お昼間から予告されていた薬膳料理のお店に行く。松茸だけではなく、いろんなキノコがお鍋に出てきて、美味しかった。チベット料理や中華料理に厭きていた胃にはとても優しい薬膳鍋であった。食べ過ぎた。どうやら当初狙っていたチベットダイエットは失敗に終わりそうである。ラサ最後の晩餐。大変美味しゅうございました。

ふと気づくと、あのうるさいASが食事に来ていなかった。そういえば昨夜は一緒にお酒を飲んだけれど、朝から食があまり進んでいない様子だった。夕方以降、彼とは別行動でマッサージ屋さんに行き、食事にはバスの迎えが来たので、同室の彼はバスに乗っているモノと思っていたのだが、体調が悪く、食事は不参加だった。このことがこのあと第二の大事件に繋がるとは私自身思いもよらぬことであった。

21:40、ホテル帰着。ASは寝ていた。「食欲がわかないんです」という。そんな彼を部屋に置いたまま、ホテルのラウンジへ。伊藤さん以下いつものメンバーで、ラサ最後の夜をひととき楽しんだのであった。23:30、寝る。ASはいつもの元気がない。
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チベット紀行 8

Photo_12 Photo_13 Photo_14 □2006.6.22

06:00,モーニングコール。07:00,朝食。AOは昨日の容態が嘘のように元気になっていた。「死んだら鳥葬だぞ」と冗談を言っていたが、死ななくてよかった。有り難い。08:05、バスで今日の参観地へ出発。最初はナルタン寺である。シガツェの南西20キロに位置する寂れた寒村に寺はあった。創建は1153年というからチベット寺院のなかではかなりの古刹である。「ナルタン版大蔵経」で知られている。最初の「大蔵経」は14世紀に版刻されたが現存せず、今に残るのは18世紀に復刻されたものだという。ただその多くは文革の災禍で失い、元の28.734板のうち現存するのは8000板程度だという。ここでも文革の爪痕をまざまざと見せつけられた。それから、やたら境内に犬が多くいた寺だった。

9:10,ナルタン寺出発。タルシンポ寺を目指すのであるが、途中、鳥葬場を遠く望む場所でバスを止める。AOももしあのまま肺水腫で倒れていたら、ここで鳥葬となっていたかもしれない。ところで鳥葬っていう習慣はチベットではまだまだ当たり前の習俗なのだそうだが、日本人にとってはあまり馴染みがない。私も鳥葬っていうと、屍をそのまま鳥が集まる場所に放置して処理させるのかと思っていたが、実は全然違っていて、遺体はこまかく切り刻んで、鳥に与えるのだそうだ。屍のままだと鳥が食べないのだ。登山家の貫田さんが、ヒマラヤ各地を登頂して、なんども地元のシェルパたちと同行した中で経験されたことらしい。とても日本人の感性では耐えられるものではない、と話されていた。養豚をしている畜産家のISが、「師匠、解体するんだったら手伝いますよ」と冗談をいうので、ぞっとした。

9:50,タルシンポ寺到着。タシルンポはチベット語で「吉祥須弥山」の意。ゲルク派の大寺院で、創建は1477年。ツォンカパの弟子であるゲンドゥンドゥプによって建てられた。このゲンドゥンゴゥプは後にダライ・ラマ1世となった人である。パンチェン・ラマ4世のときからこの寺の座主はパンチェン・ラマ(阿弥陀如来)の化身が継承することとなり、以降、パンチェン・ラマの宗教的、政治的活動の本拠地となった。パンチェン・ラマとダライ・ラマの関係を紐解くとなかなか難しいが、いずれにしろ、チベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ、高い称号である。10世の急死後、転生者の探索が始まり、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府はゲンドゥン・チューキ・ニマという6歳の男児を転生者であると認定したが、中国政府はこの転生者探しを承認せず、独自に転生者を探索し、挙げ句にゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を連行して、代わりに6歳のギェンツェン・ノルブ少年を中国政府認定の新パンチェン・ラマとして即位させた。代々パンチェン・ラマはダライ・ラマの転生者を認定する役割を持つだけに、事は一宗教の高僧の転生の話というだけには留まらず、チベット亡命政府と中国政府との政治問題も含んでいる。そのややこしい中国認定のパンチェン・ラマ11世の居城…寺と言うより居城という方が相応しい偉容を誇る寺であった…がタルシンポ寺であった。中国政府の援助も大きいようで、今まで訪ねたどの寺よりも境内は美しく、金色や青色の屋根、赤い壁、白い塀のお堂が重なり合ってそびえ、その伽藍群の眺望は荘厳であった。しかし観光客の数に比べて、チベット人巡礼者の数は際だって少なく、まるで日本の観光寺院に来ているような雰囲気だった感は否めない。歴代のパンチェン・ラマの霊廟が並ぶそれぞれの堂社は極めて立派なお寺であるのに、実におもしろみのない寺だったといえば理解出来るだろうか。10:50,タルシンポ寺出発。

11:00,ホテル帰着。食事を済ませ、荷作りをして、ラサにこれから戻ることになる。当初の日程ではヤクドク峠を越えてラサに戻ることになっていたが、大型車両の通行止めが解除にならないため、予定を変更した。加えてOAをはじめ、高山反応に苦しむ人もいることから、他の峠越えの道を避けて、もと来た道を戻ることとなったのである。12:45、ホテルを出発。約330キロをひた走る。17:20、ラサのヒマラヤ賓館に到着。道中、珍しく雨が降り、5000㍍級の山頂付近には雪が舞っているようすが見えた。峠越えの道を行っていたら、吹雪に見舞われ、とんでもないことになっていたかも知れない。

19:00,ホテル内で食事。20:50,3日前に行ったマッサージ店「良子足道」へ行く。今回は貫田さんやHNさんほか総勢8名。世話役の伊藤さんはもうお店では上客である。23;00、終了。ホテルに帰ってバーへ行く。酒好きな足道組の6人らで少しいただく。呑んでばっかりだ。23:00、就寝。…夜中、4時前に起きる。今日は日本vsブラジル戦である。眠たい目をこすりながら、一生懸命応援した。1-4の敗戦。こんなことなら寝てれば良かったなあ。しかし諦めていたワールドカップ戦をとうとうチベットで全部見た。これはこれで予想外の出来事であった。

「再び高山病について」

もう20年近く前、富士山に登ったことがある。たしか7合目か8合目の山小屋で一泊して翌朝登頂した。かすかな記憶だが、蟻の行列のような登山客が続く中、前を行く人の背中ばかりを見て登ったが、道端には簡易の酸素ボンベで吸飲しながら、はあはあと喘いでいる多くの人がいた。高山病に苦しむ人たちである。しかしながら、私はあのとき、さして高山での苦しみを味わったという覚えがない。

今回チベット高原に行くについて、大先達の正木先生からも、ツアー主催のウエイトレックからも再三高山病の怖さと注意事項を指摘されていた。人によっては死亡した例もあるという。私自身は富士山での記憶から、どこかで自信を持ちつつ、どこかではここ10数年の不摂生を顧みて、心配な気持ちを抱き、旅行に望むこととなった。

ウエイトレックの貫田さんは日本では知る人ぞ知る登山の達人。彼と、チベット11回訪問というチベットの達人正木先生とのダブルタッグで指導願い、高山病対策は万全で望んだ。特に貫田さん持参の血液中の酸素濃度をはかる小さなインジケーター(正式名称は動脈血中酸素飽和濃度測定計)は体調管理に物凄く力を発揮していた。そのお陰もあって、幸い、ホントに幸いにして私はチベット滞在中、高山反応らしい反応もなく、ラサ一日目に少し頭がボーとした程度と、階段の上り下りに息切れを起こしたくらいだった。しかし弟子のAOくんが肺水腫手前に陥り、あの達人の貫田さんを慌てさせるという事態になり、また高山病の因果関係は定かでないが、(このあと…)ASくんの腸閉塞という思わぬ事態にも襲われた。他の参加者の内、高齢の方々の多くも頭痛や食欲不振に悩まされ、更にはハイテンションのまま、なかなかもとに戻らないという高山病の症状を経験したのであった。

ともあれAOのことを思うにつけ、高山病の怖さを初めて知ったのであった。と、共になんの高山反応もなく元気に過ごせる頑強な身体を与えてくれた両親に、今更ながら感謝の心を持ったのであった。

チベット紀行 7

Photo_9 Photo_10 Photo_11 約束通り、今日も続きをアップします。
今日のところは大部です。巡拝中一番感動したギャンツェの紹介ですので。

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□2006.6.21

7:30,起床。昨夜のブランデーがきいたのか、わずか3ハイ程度呑んだだけなのに、ボトル半分くらい空けたような目覚めである。少し二日酔いか。7:40,生活奉行の伊藤氏が少し青ざめた顔で来室。私の弟子、AOくんの容態が悪いとのこと。急遽、病院につれていく手配だという。彼のところへいくと顔色がすこぶる悪い。ただ本人は比較的元気でたんたんとしていた。不具合な身体を楽しんでいるようですらあった。その辺が普通の人とは違うところで、一言で言えば変な弟子である。しかし体内酸素の量が45の数値。通常90近い数値でないといけないのだから、これは極めて危険な状態で、このまま放置すれば1日2日で肺水腫を起こし、死亡するという。えーっていう感じである。高山病とはかくも恐ろしいものだと初めて実感する。どうもAOはラサ到着以降、ダイアモックスを服用していなかったらしい。夜中に頻繁に小用をもよおし、寝れないのが嫌だったから呑まなかったという。8:00、朝食。総奉行の貫田さんはAOの緊急入院の手配でバタバタしている。彼を病院につれていくため、ギャンツェ訪問の目玉である白居寺(パルコン・チューデ)は正木先生ひとりの案内となり、貫田さんとテンジンさんがAOに付き添ってくれるという。みなさんにとんだ迷惑をかけることになり、師僧としては恥じ入るばかりだ。本人は平然としてはいたが、病状は深刻で心配である。それにこんなところで死者が出たら大変なことになる。みなさんにお任せするしかない。

09:30,AOのことは心配ながら、予定通り、白居寺に向け出発。ホテルから約10分の距離である。白居寺は1418年の創建。当初はサキャ派の寺院であった。その後、シャル派、ゲルク派が相次いで入り、各派共存の寺になったという。この寺で有名なのがクンブム。俗に八角塔と呼ばれる白い仏塔は1427年に建立された。十三層からなり、その高さは34メートル、基壇の一辺は52メートルに及ぶ。わが蔵王堂より更に大きい。チベット最大の仏塔だ。正式名称のクンブムとは百万の意味で、十三層の建物の壁には百万の仏像が描かれているという。正木先生から「チベット仏教最高峰の仏画群です」と説明を受けたが、本当に素晴らしい壁画群であった。さて、白居寺に着いた私たちがまず感動したのは境内一杯にあふれる巡礼者たちだった。本堂前で五体倒地をする人、五体倒地をしながら境内を巡礼している人。ラサのジュカンでもたくさんの五体倒地者を見たが、ここではその数が数倍だ。そしてチベット第一の都市ラサを上回る巡礼者の熱気なのだ。いや、ギャンツェという田舎だからこそ、中国ナイズされる以前の純朴なチベットが、ラサより遙かにここには息づいているという印象だったのである。

本堂の参観前に白居寺執事長ノブサン・テンペー師と事務室で面談。この辺の特別扱いは正木先生同行ならではのことでみなが有り難い思いをする。執事長に日本から持参したお土産の朱扇などをお渡しする。室内にいた聾唖の少年が親しげに寄り添ってくる。口を加持してほしいというので、朱扇で仰いであげたらたいそう喜んでくれた。彼は両親を亡くし、この寺で世話になっているらしい。更にお加持に使った私の朱扇が欲しいというので、彼に貰って貰う。でも使い方わかるのかしらん。

10:00,執事長のご案内で本堂参観。彼の計らいで、巡礼者が額づく御本尊御宝前で声明と般若心経の勤行を行う。チベット滞在中は訪問した多くの寺院で勤行を行ったが、この時の勤行ほど、唱えながら感動したことはなかった。なにか遠く日本から深い導きを得て、ここギャンツェで、この勤行の瞬間を迎えているっていう、まるで天啓のような感覚を覚え、三礼・如来唄の声明を唱えさせていただいたのである。勤行後、僧籍の私とAZ、IS、MT氏それに正木先生の5人だけが、特別に御本尊への直接の礼拝を許された。巡礼者たちが羨望のまなざしを向けていた。

10:30,いよいよクンブム大塔へ向かう。冒頭に正木先生の解説にもあったように「チベット密教中、最も優れた仏教美術の壁画群」が残るという期待の場所である。ところが大塔前で、私とASが巡礼者たちに取り囲まれてしまった。実は同行のTMくんとSKくんが、「あの二人は日本のお上人さまだ」と巡礼者たちに吹聴したらしく、次々とお加持を求める群衆が集まってきたのである。私とASが法衣姿で参観していたことも原因である。そのお加持をする姿も見て、更に次々と他の人も列を作り出した。うわー、どうしよう、えらいことになっちゃったなあ。…と、ふと横を見ると、ASはご満悦で加持している。お上人さま然としているから可笑しい。「ややこしいやっちゃなあ…」と思いつつ、このままでは参観どころではなくなってしまうに違いない。ちょっとちょっと、待って下さいと、群衆に取り囲まれ、乞われるまま二百人以上はお加持をしただろうか?何度も何度もお加持を願う人もいる。油で固まった髪の毛ごしにひとりひとりお数珠でなでてあげるのだが、いよいよ際限がなくなってきた。「AS、私は先に塔に入るよ」っと、集まった巡礼者とASを残して、正木先生たちの後を追ったのだった。ともかく這々の体で逃げ出したのである。申し訳ないが、お上人でもない私ではあれ以上は無理である。TMくんとSKくん、あれは困るよ、ホント。

で、なんとかクンブムに入る。ここは一階から右回りに仏画や仏像を拝みながら登るのだそうで、その道程は悟りへの過程になるように造られている、と聞く。第一塔第一室から参観をはじめる。執事長がずっと付き添っていてくれるが、通訳のテンジンさんも貫田さんも病院行きで、話が通じない。正木先生の解説を聞きつつ、巡拝したのである。しかし聞きしにまさる素晴らしい仏像、仏画群であった。いちいちが素晴らしいので時間をかけていると最後まで行き着かなくなってしまう。「この塔で最も重要なのは最上階ですから、そちらに行きましょう」と正木先生が宣言して、2層目の中途から、一気に第10層階へ移動する。上に上がるほど悟りへの過程を昇ることになるということだが、それは仏教の発展過程をなぞることでもあり、最上階には後期密教のカーラチャクラや秘密集会、無上集会の曼荼羅群が待っていたのである。チベット密教のイメージというと、秘密集会や無上集会に代表される性に対する大肯定が先入観としてあり、男女合体の仏画が織りなす、甘美で悦楽の世界観を想像していた。ところが実際にチベットに行ってみて、そういう世界に触れることはどの寺を廻っても、どの僧侶からもあまりなかった。壁画群も少しはそういう後期密教的なものを参観したが、ああいう世界が全面に広がるような景色には出会っていなかっただけに、このクンブムでみた夥しいかぎりの多くの合体仏、秘密マンダラ群は、私の思い描いたチベット密教の最奥にようやく巡り会えた気がしたのである。素朴で真摯な巡礼者たちといい、夥しいマンダラ画や仏たちといい、これこそチベット仏教だ、というパルコン・チューデ感激のひとときだった。またこれだけのものがよく文革で破壊されなかったものだと、あらためてこの地の聖地性に思いを致した。蔵王権現の法城たるわが金峯山寺も明治期の修験道廃止の荒波を乗り越えて、その伽藍と法灯を守り続けてきたことを知るだけに、ここ白居寺の意義深さに多くの共感を抱いたのであった。このギャンツェの街、そして白居寺もろとも、是非、世界遺産に登録してもらいたいとも思った。保護保全のためにである。ただし、観光資源として見られるくらいなら、そっとこのままの佇まいを残した方がよいのかもしれないが…。

再び事務室に戻り、執事長と談話する。同行者それぞれにCDなどの参拝記念の品を頂戴した。聾唖の少年が待っていた。再度九字を切ってお加持する。きらきらと輝いていた純真な瞳が心に残った。後ろ髪を引かれる思いで、白居寺を辞したが、彼は今も元気でいるのだろうか。

AOの容態があまりかんばしくないようだと貫田さんが報告に戻ってきた。こうなるとギャンツェという田舎街(…といっても、ラサ、シガツェに次ぐチベット第三の町なのではあるのだが…)では医療の面で不安があるし、なにしろ海抜4040㍍の高地なのだから、少しでも低いところに降りた方がいい。当初、ギャンツェには2泊の予定をしていたが、仕方がない。ともかく今日の内にシガツェに戻ることとなった。ギャンツェは私も大変気に入っていただけに残念であった。

13:20、ホテル帰着。食事を済ませ、荷造りをする。15:30,ギャンツェ・ゾンへ向かう。ゾンとは城である。20世紀初頭、ヤングハズバンド率いるイギリス軍がチベットに侵攻した際、ラサへの進路にギャンツェが当ったために、壮絶な戦いが行われたがその戦場がゾンである。約10分でバスはゾンに着いた。ガイドブックによるとゾンへは下から徒歩でいくと書いてあり、4000㍍級の高所だから、その登りは大変きついと聞いていた。しかし幸いなことにバスは頂上手前まで行ってくれるという。大変助かった。頂上まで登ると、午前中に参観した白居寺が眼下に広がっていた。また古い町並みをそのまま残したギャンツェの市街も一望の下に見ることができた。素晴らしい展望であった。

16:30,バスはAOの入院先へ向かう。その後幸い容態は回復基調にあり、シガツェへは一緒にバスで行けることになった。ほっとする。なんだか野戦病院に毛の生えたような心許ない病院を訪ね、退院手続きを済ませて、再びホテルへ。確かにAOも朝と比べて随分元気そうにしている。点滴などがかなりきいたようである。多くの人に迷惑を掛けたが、大事にいたらずに有り難かった。AO、感謝しろよ。17:10,荷物を積んだ後、全員を乗せたバスは一路シガツェを目指した。

18:50,シガツェに到着。シガツェはチベット第二の都市。ゲルク派の二大活仏の一人であるパンチェン・ラマの本拠地であるタシルンポ寺はここにある。ラサからは、西へ330キロに位置し、かつては、インドのシッキムやネパールとの交易の中継基地として栄えたが、現在は、インドとの国境問題の紛争などがあり交易は途絶え、往時ほどの姿はない。宿泊先となるシガツェホテルで食事を済ませる。弟子のISと二人でシガツェの街をしばし散策する。ギャンツェのような素朴さはなく、ラサと同じ、小中国化したけばいネオンばかりが目について、早々に退散した。AOの回復を祈るばかりである。22:30,就寝。

「チベット高原について」

もう随分前に、私はシルクロードの各地を訪ねた。新彊ウイグル自治区のウルムチ・トルファン・敦煌など…ゴビタンに広がる漠々たる褐色の大地がそこにはあった。大ざっぱに言うと、チベット高原は崑崙山脈をはさんで、新彊ウイグル自治区の南側に位置する。にわか勉強仕入れた知識であるが、ある種、シルクロード各地の延長線上というイメージがあった、

ところがラサからバスで約7時間ほど要して訪れたギャンツェの街は標高4000㍍を越えるというのに大麦と菜の花の穀倉地帯が平地一面に広がる肥沃の地であった。少なからず驚きを覚えたのである。もちろん低地の肥沃地とは比べものにならない収穫性の低い穀物には違いないが、ギャンツェ平野を取り囲む5000㍍級の山々がどれも峻厳な岩山ばかりであるだけに、緑と黄色に彩られた大地はあたかも天国の情景にすら感じられる人に優しい風景であった。シルクロードのゴビタンは「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣もなし」という不毛の荒涼たる大地のみが延々と続いていたが、チベット高原には人の営みと自然の恩恵がつましく広がっていたのである。

自然との共生は、人間のつましさの上に成り立つ世界なのかもしれない。

それにしたも空気の希薄なこの高原地帯にチベット人は世界に希有なる仏教文化と人の営みを展開させてきたのである。それは私にとって驚愕の情景であった。

チベット紀行 6

遅々として進まなかった旅行記ですが、ようやく、書き終えつつあります。今日からは毎日続けて最後までとぎれずに、アップ出来ると思います。…たぶん。。

どうぞよろしく。。

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「チベット仏教の印象」

インドで生まれた仏教は8世紀後半、母国では廃れる。そのインド仏教が行き着いた後期密教はそのままの形でチベットに伝わり、今日まで生きている。

実はインド仏教は開祖の釈尊以来、大きく発展と変容を生むのであるが、中国や日本に伝わったものは中期密教までで、最後の精華というべき後期密教はほとんど伝播していない。そういう意味でもチベット仏教の存在意義は大きい。それとともに、もう一つ、仏教による政教一致がチベットほど徹底されていた国は希有であり、そこにも620 Photo_7 Photo_8 大きな意味を見出す。

もちろん中国のチベット侵攻によってダライ・ラマ14世がインドに亡命し、以来、チベット仏教は苦難の道を歩き続けるが、八角街の巡礼者や多くの寺院で出会ったチベット人たちを見るにつけ、民のすみずみにまで行き渡った仏教信仰の生活は未だ厳然として生きているんだと実感させられたのであった。

ただもう少し言えば、近年世界的に注目を浴びるチベット仏教は『死者の書』やタントラリズムで代表されるような、異次元的で、また甘美な性的行為の肯定を連想させる超現実的な印象を与えている。ところが実際にチベットで接したチベット僧、それから民衆の信仰はというと、そういったタントラリズムを感じさせるものは希薄で、昨年訪れたスリランカ仏教とも共通する真摯な仏教信仰の姿であった。

唯一、この後、ギャンツェの街で訪れるパルコン・チューデ(白居寺)のクンムブ(百万塔)に残された夥しい金剛界や無上瑜伽タントラ系のマンダラ群に、チベット密教の最奥を見たように思う。

それにしてもなんと夥しいマンダラや仏たちだろう。パルコン・チューデに限らず、訪れた全ての寺院で、夥しいとしかいいようのない膨大なマンダラと仏たちに遭遇した。そこにはチベット民衆の生きることの証と、来世への大いなる願いが込められているのであろう。

同じ仏教国とはいえ、風景と気候、歴史の違いが生み出した日本との相違を強く感じたのだった。

□2006.6.20

06:00,モーニングコール。07:00,食事。8:05、バスにて出発。今日は一旦ラサを離れ、更にチベットの内陸部になるシガツェ、ギャンツェを目指す。当初の予定では、まずシガツェで1泊して参観し、ギャンツェで2泊。そしてシガツェに戻り、ラサへの帰路はカンパラ峠経由で、途中、トルコ石の湖として有名なヤムドク湖などの観光を企画していた。ところが肝心のカンパラ峠が道路工事のため大型車両の通行止めが続いていて使用出来ないとのこと。そこで行き帰りに同じ道を走るのも面白みがないので、シガツェーラサ間を5000㍍級の峠越えで行こうということになり、急遽、今日の内に、シガツェを経由して、ギャンツェまで行ってしまおうということになった。なにしろ、中国政府の資金投入によって爆裂的に道路などのインフラ整備が進んでいるとはいえ、秘境チベットのことである。この程度の予定変更は常識とのこと。ともかく、バスは一路、ギャンツェを目指して走り続けている。10:15、トゥ村という土地の通りかかったとき、道路の脇でお香の塊を作っているという場所に立ちより、見学。小型の簡易な水車を使って、無人で香木を削り、香を煉瓦にする作業をしていた。

道中、バスはチベット高原の深い渓谷を縫って走り続ける。秘境のことゆえ、そうとうの悪路を予想していたが、あにはからんや、今まで私の訪れたインドやシルクロート諸国、スリランカ各地と比べて格段に道路整備が進んでいて、舗装道路が延々と続いている。近年完成した道だという。異様とも思える中国のチベット進出の力の入れようをあらためて感じる。道路は素晴らしいが、しかし周りの風景は秘境チベットというべき荒涼とした山々が広がっている。11:40、バスを降りて2度目の小休止。切り立った深い谷の中央部を大きな川が流れているがその対岸にチベット古来の民俗宗教・ボン教の本山らしき伽藍群を望む。再びバスは走り続けている。

長い車中、テンジンさんが得意のハーモニカで、日本の歌を演奏してくれる。なかなかの芸達者である。13:10、シガツェ市内に到着。ラサからはるか330キロを来たことになる。こぢんまりとした町中の食堂で昼食。ラサほどではないが、チベット第二の都市というだけあって、かなりの都市である。今日はこの町は素通りで、引き続きバスに乗車してシガツェを目指す。

14:25 シガツェーギャンツェ間に位置するシャル寺を訪問。今日初めてにして唯一の参観地である。当寺は規模は小さいながら、サキャ派の名刹という。僧ジェツウンディンジャオジュンネによって1087年に創建された。…どうも私はチベット仏教に出てくる僧侶たちの名前が覚えにくい。何度聞いてもすぐ忘れてしまう。カタカナが苦手である。…14世紀にチベットに招請されたブトン・リンチェンドゥブは顕教と密教の両立を求め、生涯を厳しい戒律を守る出家者として送り、この寺を中心にチベット仏教の新しい展開をはかった。そのため彼の考え方を継承する人々をシャル派と呼ぶことがあるという。「シャル版」と呼ばれるチベット大蔵経を編集し、後世に大きな影響を与えているとガイドブックにあるが、実際にこの寺の境内に立つと、その名刹としての面影はほとんど感じられない。文革による荒廃ぶりが凄まじいのだ。シャル寺は美しい仏画群を蔵することでも知られるそうだが、正木先生が絶賛する壁画群も哀しいほど粗末な扱いを受けていて、痛ましい限りであった。国宝級と思われる画像たちはほとんど保護らしい保護もされずに打ち置かれているという感じ。管理する僧たちの資質も思わず首をかしげてしまう状況なのであった。「あのお坊さん達、この壁画の価値をわかっているんでしょうかね」と正木先生に尋ねたが、先生も黙って微笑されるだけだった。それもこれも文革が残した傷跡と言って間違いないだろう。

16:45、シャル寺出発。18:00,ようやくギャンツェに到着。ギャンツェホテルに入る。まる一日のバス移動であったが、やはりかなり疲れた。特にこのギャンツェは海抜4040㍍。高山順応はうまく行っているとはいえ、さすがに空気の薄さを体感する。ちょっとした階段の上り下りに、息が上がるのである。ゴンカル空港に着いた時と同じようになるべく動作を緩慢にして、心臓に負担をかけないようにする。20:00,少し遅めの食事となる。ギャンツェの料理は期待しないで下さいと聞いていたが、聞いていたとおり、今まででは一番口に合いにくかったかもしれない。

21:00,食事終了。伊藤さんの部屋で、正木先生を交え、明日以降の日程を検討する。ラサ到着以来、4日目を迎え、そろそろ体調を崩す人が出てきている。特にOR氏や最高齢者のMT氏など数人の様子が心配であり、あまり無理な行程は控えないといけない状況のようである。特に5000㍍級の峠越えは体調不良の人には大変負担が大きくなるから、無理しない方がよいのではないかということになった。ともかく明日の様子で判断しましょうということで話がまとまる。21:50、バーへ。結局毎日呑んでいる。ま、体調がよい証拠でもある。でも海抜4040㍍のブランデーはさすがに効いた。23:50、就寝。


「中国の文化大革命とチベット国」

1951年、中国はチベットに侵攻し、7世紀の吐蕃王国建国以来、規模の大小はあるにせよ堅持しつづけたチベット国の自治権は認められず、併合される。そしてその後、漢人たちのチベット移入はあたかも大波が小舟を飲み込むが如く、怒濤のように押し寄せていったのである。

その道程の初期に、凄まじい文化大革命の破壊活動がチベット全土を襲った。中国本土においてさえ、あらゆる歴史・文化と文物を否定しつづけた文革の嵐である。まして異国の文化や歴史など、一顧だにされることなく、容赦のない打ち壊しが行われたのである。とりわけチベット人民の精神的支柱であった多くの仏教寺院は大法難ともいえる破壊の的とされたのであった。

ここ10数年、ようやく文革の災禍を顧みて、仏教寺院の復興に手がつけられつつあるとはいえ、デブン寺やガンデン寺を筆頭に、シガツェのシャル寺など、訪れた寺院のほとんどが未だにその凄まじい破壊の爪痕を残していた。しかしそれは単に建物や境内地の破壊だけの問題ではない。ダライ・ラマ14世をはじめ、パンチェン・ラマ11世など文革の難を避けて、高僧たちの多くが故国を捨て、亡命せざるを得ない状況を生んで、チベット仏教の法灯は風前の灯火と化したのである。

今回の訪問では幸いセラ寺のチャンバイワンジェー長老やガンデン寺のニェンタク博士など今もチベット本土で中国政府の理不尽な弾圧にも負けることなく、仏道修行を続ける高僧たちとの邂逅を得たが、しかし多くの寺院で出会った若い僧侶たちの面容には、文革の大いなる爪痕を感じさせる悲哀があった。なにしろ厳格な戒律主義のセラ寺の本堂で、公衆の面前を前にトランプに興ずるような青年僧侶さえ、目撃したのである。修行者としての、威厳や尊厳を感じない僧達が、どの寺にもたくさん巣くっていたのであった。せめてもの救いがあるとするなら、八角街やこのあと訪問する白居寺など、多くの寺院で出会ったチベット人の巡礼者たちの真摯な信仰心だろう。

中国はいよいよチベット侵攻を進めている。漢人の溢れかえったラサの街…。街頭には漢人好みのけばいネオンが氾濫し、その片隅で肩身を狭くして暮らすチベット人達。

この国とこの国の人民を憂いてやまない。

原稿三枚・・・

原稿三枚…いや原稿三昧の日を送っています。

といっても文筆家ではないので、法務や雑務の合間にですがね。

今日やっと仏教タイムスという業界紙のコラム原稿の今週分と来週分をかき上げました。実は先々週から仏教タイムスの毎週木曜日発行版で、拙稿のチベット旅行感想文が連載されています。表題は「山伏のチベット見聞録」です。8回掲載の予定
で今週が3回目。購読されている方がいらっしゃれば、よろしければ、ご笑読下さいませ。といっても宗教関連の業界誌ですから、一般の人は図書館にでも行かないと読めませんよね。あ、図書館にもおいてないかも。

チベット記のコミュで書いてきたモノを整理して、コラムにしたものですので、コミュの方で十分ですが…。

そのチベット記ですが、半分のところで止まっています。仏タイの連載も始まってますので、早く仕上げてしまいたいのですが、一度置くとなかなか進みません。今週から特別研修会やいろんな行事がありますし、来週末には山修行があるし、その翌日からは1週間、蔵王権現供養法修法で参籠行に入る予定です。ホント早めに書かないとえらいことになります。今日明日が勝負です。暇げにブログなんか書いてる場合じゃないのですけどねえ・・・。

そんな中、もう1年半ほど前に取材を受けたインタビュー記事の校正が届き、急いで手直しをさせられています。思ったよりかなり大部なもので、しかも3分の1くらいは書き直さないといけない内容で結構これも大変。でもなかなか面白いインタビューになっています。打ち出し原稿ですから、手書きで直すのは、手直し箇所が多いとかなりやっかいですね。

今秋に編集をしようと3月頃に約束をした正木先生との共著本もそろそろ手がけないと間に合わない時期になってきました。春秋社から出た『はじめての修験道』の第2弾で、団塊の世代に捧げる修験道本を目指しています。・・・でもそんな暇、あるのかしら。

そのほか、もう私の手は離れていますが、この10月に小学館から刊行予定の写真集『天界の道』の随筆や、法蔵館から刊行予定の『リレー講座・現代社会と宗教』など、この秋は著述したものがどういうわけか、続け様に世間に出るようです。

また8月に追加対談した家田荘子さんとの対談本の編集も迫ってきています。これは来年春の刊行を予定しています。

いづれにしても、是非多くの方々にご笑覧願いたいと思っています。

我が家はウルトラマンブーム…

Img_3128_2 日記もちょっとお休みしてますが、先日、2才になる一番下の子どもを連れて貝塚市にある円谷ジャングルという、ウルトラマンのアトラクション・アミューズメントショップへ行って来ました。

つい先日までアンパンマンだったのに、7月に入ってから急にウルトラマンブームが彼の中ではじまりました。高1の長男が昔ウルトラマンおたくだったので、関連のビデオやフィギアが山ほどあり、お金があまりかからないブーム到来でありがたいですが。

お陰で一日中、朝から晩までウルトラマンビデオばかりをみせられています。

で、そんな彼を喜ばそうと貝塚に行きました。

周りにいっぱいウルトラマンの人形やアトラクションがあり、なまのウルトラマンがショーをやったり、写真を一緒に撮ってくれたりして、パニクってました。

今月末に締まるのはホント残念です。

11月に八尾市に新しく開店するということですが、ショーはなくなってしまうとのこと。

せっかくマイブームなのに可哀想です。

もちろん16日から全国公開されるウルトラマンメビウスの映画も前売り券を買っています。

ウルトラマンは私たちの世代がはじまり。リアルタイムにウルトラマンやウルトラセブンを応援したのですが、こんなに長く続くヒーローになろうとは思いませんでしたね。

しかもウルトラマンはいっぱいいて、いろんな名前があって、私らにはもうさっぱりわからなくなっています。

モノが豊富になった象徴のような、ウルトラマン達の大量登場です。昔は3分しか活動出来ないウルトラマンの登場にどきどきしたものですが。。

久々に忙しかった

昨日は事務所でひさびさに忙しい一日でした。

朝から月例の打合会議があり、午前中には奈良県県立大学での、特殊講義「観光交流講座」の講師依頼を受け、担当者が帰った後、早速、講義要項の作成をしました。

10月中旬に発行を予定している永坂先生の吉野・大峯の写真集『天界の道』の写真掲載ラフが届き、担当者会議で検討し、この天界の道に掲載される拙文も、その草稿を慌ただしく書き上げました。

また昨年11月に行いました立命館大学でのリレー講義「宗教と現代社会ー日本編」の講義録が取りまとめられて、法蔵館からこの11月に発刊されることになり、掲載して頂く私の講義分の原稿が届いたので、確認訂正をし、ついでに金峯山時報のWCRP世界大会出向の追加記事も書き、昨日は一日中、会議と執筆に、右往左往しました。 一時、世界遺産で走り回る頃はそういうこともあったのですが、最近はあまりなかっただけに、珍しい一日でした。

毎々、ミクシイで遊んでいるばかりではありませんから・・。

そんなわけでチベット紀行はまだ全然進みません。

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