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チベット紀行 7

Photo_9 Photo_10 Photo_11 約束通り、今日も続きをアップします。
今日のところは大部です。巡拝中一番感動したギャンツェの紹介ですので。

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□2006.6.21

7:30,起床。昨夜のブランデーがきいたのか、わずか3ハイ程度呑んだだけなのに、ボトル半分くらい空けたような目覚めである。少し二日酔いか。7:40,生活奉行の伊藤氏が少し青ざめた顔で来室。私の弟子、AOくんの容態が悪いとのこと。急遽、病院につれていく手配だという。彼のところへいくと顔色がすこぶる悪い。ただ本人は比較的元気でたんたんとしていた。不具合な身体を楽しんでいるようですらあった。その辺が普通の人とは違うところで、一言で言えば変な弟子である。しかし体内酸素の量が45の数値。通常90近い数値でないといけないのだから、これは極めて危険な状態で、このまま放置すれば1日2日で肺水腫を起こし、死亡するという。えーっていう感じである。高山病とはかくも恐ろしいものだと初めて実感する。どうもAOはラサ到着以降、ダイアモックスを服用していなかったらしい。夜中に頻繁に小用をもよおし、寝れないのが嫌だったから呑まなかったという。8:00、朝食。総奉行の貫田さんはAOの緊急入院の手配でバタバタしている。彼を病院につれていくため、ギャンツェ訪問の目玉である白居寺(パルコン・チューデ)は正木先生ひとりの案内となり、貫田さんとテンジンさんがAOに付き添ってくれるという。みなさんにとんだ迷惑をかけることになり、師僧としては恥じ入るばかりだ。本人は平然としてはいたが、病状は深刻で心配である。それにこんなところで死者が出たら大変なことになる。みなさんにお任せするしかない。

09:30,AOのことは心配ながら、予定通り、白居寺に向け出発。ホテルから約10分の距離である。白居寺は1418年の創建。当初はサキャ派の寺院であった。その後、シャル派、ゲルク派が相次いで入り、各派共存の寺になったという。この寺で有名なのがクンブム。俗に八角塔と呼ばれる白い仏塔は1427年に建立された。十三層からなり、その高さは34メートル、基壇の一辺は52メートルに及ぶ。わが蔵王堂より更に大きい。チベット最大の仏塔だ。正式名称のクンブムとは百万の意味で、十三層の建物の壁には百万の仏像が描かれているという。正木先生から「チベット仏教最高峰の仏画群です」と説明を受けたが、本当に素晴らしい壁画群であった。さて、白居寺に着いた私たちがまず感動したのは境内一杯にあふれる巡礼者たちだった。本堂前で五体倒地をする人、五体倒地をしながら境内を巡礼している人。ラサのジュカンでもたくさんの五体倒地者を見たが、ここではその数が数倍だ。そしてチベット第一の都市ラサを上回る巡礼者の熱気なのだ。いや、ギャンツェという田舎だからこそ、中国ナイズされる以前の純朴なチベットが、ラサより遙かにここには息づいているという印象だったのである。

本堂の参観前に白居寺執事長ノブサン・テンペー師と事務室で面談。この辺の特別扱いは正木先生同行ならではのことでみなが有り難い思いをする。執事長に日本から持参したお土産の朱扇などをお渡しする。室内にいた聾唖の少年が親しげに寄り添ってくる。口を加持してほしいというので、朱扇で仰いであげたらたいそう喜んでくれた。彼は両親を亡くし、この寺で世話になっているらしい。更にお加持に使った私の朱扇が欲しいというので、彼に貰って貰う。でも使い方わかるのかしらん。

10:00,執事長のご案内で本堂参観。彼の計らいで、巡礼者が額づく御本尊御宝前で声明と般若心経の勤行を行う。チベット滞在中は訪問した多くの寺院で勤行を行ったが、この時の勤行ほど、唱えながら感動したことはなかった。なにか遠く日本から深い導きを得て、ここギャンツェで、この勤行の瞬間を迎えているっていう、まるで天啓のような感覚を覚え、三礼・如来唄の声明を唱えさせていただいたのである。勤行後、僧籍の私とAZ、IS、MT氏それに正木先生の5人だけが、特別に御本尊への直接の礼拝を許された。巡礼者たちが羨望のまなざしを向けていた。

10:30,いよいよクンブム大塔へ向かう。冒頭に正木先生の解説にもあったように「チベット密教中、最も優れた仏教美術の壁画群」が残るという期待の場所である。ところが大塔前で、私とASが巡礼者たちに取り囲まれてしまった。実は同行のTMくんとSKくんが、「あの二人は日本のお上人さまだ」と巡礼者たちに吹聴したらしく、次々とお加持を求める群衆が集まってきたのである。私とASが法衣姿で参観していたことも原因である。そのお加持をする姿も見て、更に次々と他の人も列を作り出した。うわー、どうしよう、えらいことになっちゃったなあ。…と、ふと横を見ると、ASはご満悦で加持している。お上人さま然としているから可笑しい。「ややこしいやっちゃなあ…」と思いつつ、このままでは参観どころではなくなってしまうに違いない。ちょっとちょっと、待って下さいと、群衆に取り囲まれ、乞われるまま二百人以上はお加持をしただろうか?何度も何度もお加持を願う人もいる。油で固まった髪の毛ごしにひとりひとりお数珠でなでてあげるのだが、いよいよ際限がなくなってきた。「AS、私は先に塔に入るよ」っと、集まった巡礼者とASを残して、正木先生たちの後を追ったのだった。ともかく這々の体で逃げ出したのである。申し訳ないが、お上人でもない私ではあれ以上は無理である。TMくんとSKくん、あれは困るよ、ホント。

で、なんとかクンブムに入る。ここは一階から右回りに仏画や仏像を拝みながら登るのだそうで、その道程は悟りへの過程になるように造られている、と聞く。第一塔第一室から参観をはじめる。執事長がずっと付き添っていてくれるが、通訳のテンジンさんも貫田さんも病院行きで、話が通じない。正木先生の解説を聞きつつ、巡拝したのである。しかし聞きしにまさる素晴らしい仏像、仏画群であった。いちいちが素晴らしいので時間をかけていると最後まで行き着かなくなってしまう。「この塔で最も重要なのは最上階ですから、そちらに行きましょう」と正木先生が宣言して、2層目の中途から、一気に第10層階へ移動する。上に上がるほど悟りへの過程を昇ることになるということだが、それは仏教の発展過程をなぞることでもあり、最上階には後期密教のカーラチャクラや秘密集会、無上集会の曼荼羅群が待っていたのである。チベット密教のイメージというと、秘密集会や無上集会に代表される性に対する大肯定が先入観としてあり、男女合体の仏画が織りなす、甘美で悦楽の世界観を想像していた。ところが実際にチベットに行ってみて、そういう世界に触れることはどの寺を廻っても、どの僧侶からもあまりなかった。壁画群も少しはそういう後期密教的なものを参観したが、ああいう世界が全面に広がるような景色には出会っていなかっただけに、このクンブムでみた夥しいかぎりの多くの合体仏、秘密マンダラ群は、私の思い描いたチベット密教の最奥にようやく巡り会えた気がしたのである。素朴で真摯な巡礼者たちといい、夥しいマンダラ画や仏たちといい、これこそチベット仏教だ、というパルコン・チューデ感激のひとときだった。またこれだけのものがよく文革で破壊されなかったものだと、あらためてこの地の聖地性に思いを致した。蔵王権現の法城たるわが金峯山寺も明治期の修験道廃止の荒波を乗り越えて、その伽藍と法灯を守り続けてきたことを知るだけに、ここ白居寺の意義深さに多くの共感を抱いたのであった。このギャンツェの街、そして白居寺もろとも、是非、世界遺産に登録してもらいたいとも思った。保護保全のためにである。ただし、観光資源として見られるくらいなら、そっとこのままの佇まいを残した方がよいのかもしれないが…。

再び事務室に戻り、執事長と談話する。同行者それぞれにCDなどの参拝記念の品を頂戴した。聾唖の少年が待っていた。再度九字を切ってお加持する。きらきらと輝いていた純真な瞳が心に残った。後ろ髪を引かれる思いで、白居寺を辞したが、彼は今も元気でいるのだろうか。

AOの容態があまりかんばしくないようだと貫田さんが報告に戻ってきた。こうなるとギャンツェという田舎街(…といっても、ラサ、シガツェに次ぐチベット第三の町なのではあるのだが…)では医療の面で不安があるし、なにしろ海抜4040㍍の高地なのだから、少しでも低いところに降りた方がいい。当初、ギャンツェには2泊の予定をしていたが、仕方がない。ともかく今日の内にシガツェに戻ることとなった。ギャンツェは私も大変気に入っていただけに残念であった。

13:20、ホテル帰着。食事を済ませ、荷造りをする。15:30,ギャンツェ・ゾンへ向かう。ゾンとは城である。20世紀初頭、ヤングハズバンド率いるイギリス軍がチベットに侵攻した際、ラサへの進路にギャンツェが当ったために、壮絶な戦いが行われたがその戦場がゾンである。約10分でバスはゾンに着いた。ガイドブックによるとゾンへは下から徒歩でいくと書いてあり、4000㍍級の高所だから、その登りは大変きついと聞いていた。しかし幸いなことにバスは頂上手前まで行ってくれるという。大変助かった。頂上まで登ると、午前中に参観した白居寺が眼下に広がっていた。また古い町並みをそのまま残したギャンツェの市街も一望の下に見ることができた。素晴らしい展望であった。

16:30,バスはAOの入院先へ向かう。その後幸い容態は回復基調にあり、シガツェへは一緒にバスで行けることになった。ほっとする。なんだか野戦病院に毛の生えたような心許ない病院を訪ね、退院手続きを済ませて、再びホテルへ。確かにAOも朝と比べて随分元気そうにしている。点滴などがかなりきいたようである。多くの人に迷惑を掛けたが、大事にいたらずに有り難かった。AO、感謝しろよ。17:10,荷物を積んだ後、全員を乗せたバスは一路シガツェを目指した。

18:50,シガツェに到着。シガツェはチベット第二の都市。ゲルク派の二大活仏の一人であるパンチェン・ラマの本拠地であるタシルンポ寺はここにある。ラサからは、西へ330キロに位置し、かつては、インドのシッキムやネパールとの交易の中継基地として栄えたが、現在は、インドとの国境問題の紛争などがあり交易は途絶え、往時ほどの姿はない。宿泊先となるシガツェホテルで食事を済ませる。弟子のISと二人でシガツェの街をしばし散策する。ギャンツェのような素朴さはなく、ラサと同じ、小中国化したけばいネオンばかりが目について、早々に退散した。AOの回復を祈るばかりである。22:30,就寝。

「チベット高原について」

もう随分前に、私はシルクロードの各地を訪ねた。新彊ウイグル自治区のウルムチ・トルファン・敦煌など…ゴビタンに広がる漠々たる褐色の大地がそこにはあった。大ざっぱに言うと、チベット高原は崑崙山脈をはさんで、新彊ウイグル自治区の南側に位置する。にわか勉強仕入れた知識であるが、ある種、シルクロード各地の延長線上というイメージがあった、

ところがラサからバスで約7時間ほど要して訪れたギャンツェの街は標高4000㍍を越えるというのに大麦と菜の花の穀倉地帯が平地一面に広がる肥沃の地であった。少なからず驚きを覚えたのである。もちろん低地の肥沃地とは比べものにならない収穫性の低い穀物には違いないが、ギャンツェ平野を取り囲む5000㍍級の山々がどれも峻厳な岩山ばかりであるだけに、緑と黄色に彩られた大地はあたかも天国の情景にすら感じられる人に優しい風景であった。シルクロードのゴビタンは「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣もなし」という不毛の荒涼たる大地のみが延々と続いていたが、チベット高原には人の営みと自然の恩恵がつましく広がっていたのである。

自然との共生は、人間のつましさの上に成り立つ世界なのかもしれない。

それにしたも空気の希薄なこの高原地帯にチベット人は世界に希有なる仏教文化と人の営みを展開させてきたのである。それは私にとって驚愕の情景であった。

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コメント

初めまして

チベットでは、1958年の大躍進と文化大革命の時に壁画も相当破壊された由。よいものが御覧になれましたね。
ブランデーを召し上がるのは、体力に自信がないとできないことですね。

さて、修験の勉強をしてみようといろいろ拝見しているうちに、こちらにたどり着きました。

おもしろそうな記事が多そうなので、以後時々拝見させていただきます。


とりあえずTBさせていただきましたのでよろしくお願い申し上げます。
ではでは

久々のコメント有り難うございます。
こちらこそ、よろしく。。

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