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チベット紀行 8

Photo_12 Photo_13 Photo_14 □2006.6.22

06:00,モーニングコール。07:00,朝食。AOは昨日の容態が嘘のように元気になっていた。「死んだら鳥葬だぞ」と冗談を言っていたが、死ななくてよかった。有り難い。08:05、バスで今日の参観地へ出発。最初はナルタン寺である。シガツェの南西20キロに位置する寂れた寒村に寺はあった。創建は1153年というからチベット寺院のなかではかなりの古刹である。「ナルタン版大蔵経」で知られている。最初の「大蔵経」は14世紀に版刻されたが現存せず、今に残るのは18世紀に復刻されたものだという。ただその多くは文革の災禍で失い、元の28.734板のうち現存するのは8000板程度だという。ここでも文革の爪痕をまざまざと見せつけられた。それから、やたら境内に犬が多くいた寺だった。

9:10,ナルタン寺出発。タルシンポ寺を目指すのであるが、途中、鳥葬場を遠く望む場所でバスを止める。AOももしあのまま肺水腫で倒れていたら、ここで鳥葬となっていたかもしれない。ところで鳥葬っていう習慣はチベットではまだまだ当たり前の習俗なのだそうだが、日本人にとってはあまり馴染みがない。私も鳥葬っていうと、屍をそのまま鳥が集まる場所に放置して処理させるのかと思っていたが、実は全然違っていて、遺体はこまかく切り刻んで、鳥に与えるのだそうだ。屍のままだと鳥が食べないのだ。登山家の貫田さんが、ヒマラヤ各地を登頂して、なんども地元のシェルパたちと同行した中で経験されたことらしい。とても日本人の感性では耐えられるものではない、と話されていた。養豚をしている畜産家のISが、「師匠、解体するんだったら手伝いますよ」と冗談をいうので、ぞっとした。

9:50,タルシンポ寺到着。タシルンポはチベット語で「吉祥須弥山」の意。ゲルク派の大寺院で、創建は1477年。ツォンカパの弟子であるゲンドゥンドゥプによって建てられた。このゲンドゥンゴゥプは後にダライ・ラマ1世となった人である。パンチェン・ラマ4世のときからこの寺の座主はパンチェン・ラマ(阿弥陀如来)の化身が継承することとなり、以降、パンチェン・ラマの宗教的、政治的活動の本拠地となった。パンチェン・ラマとダライ・ラマの関係を紐解くとなかなか難しいが、いずれにしろ、チベット仏教ではダライ・ラマに次ぐ、高い称号である。10世の急死後、転生者の探索が始まり、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府はゲンドゥン・チューキ・ニマという6歳の男児を転生者であると認定したが、中国政府はこの転生者探しを承認せず、独自に転生者を探索し、挙げ句にゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を連行して、代わりに6歳のギェンツェン・ノルブ少年を中国政府認定の新パンチェン・ラマとして即位させた。代々パンチェン・ラマはダライ・ラマの転生者を認定する役割を持つだけに、事は一宗教の高僧の転生の話というだけには留まらず、チベット亡命政府と中国政府との政治問題も含んでいる。そのややこしい中国認定のパンチェン・ラマ11世の居城…寺と言うより居城という方が相応しい偉容を誇る寺であった…がタルシンポ寺であった。中国政府の援助も大きいようで、今まで訪ねたどの寺よりも境内は美しく、金色や青色の屋根、赤い壁、白い塀のお堂が重なり合ってそびえ、その伽藍群の眺望は荘厳であった。しかし観光客の数に比べて、チベット人巡礼者の数は際だって少なく、まるで日本の観光寺院に来ているような雰囲気だった感は否めない。歴代のパンチェン・ラマの霊廟が並ぶそれぞれの堂社は極めて立派なお寺であるのに、実におもしろみのない寺だったといえば理解出来るだろうか。10:50,タルシンポ寺出発。

11:00,ホテル帰着。食事を済ませ、荷作りをして、ラサにこれから戻ることになる。当初の日程ではヤクドク峠を越えてラサに戻ることになっていたが、大型車両の通行止めが解除にならないため、予定を変更した。加えてOAをはじめ、高山反応に苦しむ人もいることから、他の峠越えの道を避けて、もと来た道を戻ることとなったのである。12:45、ホテルを出発。約330キロをひた走る。17:20、ラサのヒマラヤ賓館に到着。道中、珍しく雨が降り、5000㍍級の山頂付近には雪が舞っているようすが見えた。峠越えの道を行っていたら、吹雪に見舞われ、とんでもないことになっていたかも知れない。

19:00,ホテル内で食事。20:50,3日前に行ったマッサージ店「良子足道」へ行く。今回は貫田さんやHNさんほか総勢8名。世話役の伊藤さんはもうお店では上客である。23;00、終了。ホテルに帰ってバーへ行く。酒好きな足道組の6人らで少しいただく。呑んでばっかりだ。23:00、就寝。…夜中、4時前に起きる。今日は日本vsブラジル戦である。眠たい目をこすりながら、一生懸命応援した。1-4の敗戦。こんなことなら寝てれば良かったなあ。しかし諦めていたワールドカップ戦をとうとうチベットで全部見た。これはこれで予想外の出来事であった。

「再び高山病について」

もう20年近く前、富士山に登ったことがある。たしか7合目か8合目の山小屋で一泊して翌朝登頂した。かすかな記憶だが、蟻の行列のような登山客が続く中、前を行く人の背中ばかりを見て登ったが、道端には簡易の酸素ボンベで吸飲しながら、はあはあと喘いでいる多くの人がいた。高山病に苦しむ人たちである。しかしながら、私はあのとき、さして高山での苦しみを味わったという覚えがない。

今回チベット高原に行くについて、大先達の正木先生からも、ツアー主催のウエイトレックからも再三高山病の怖さと注意事項を指摘されていた。人によっては死亡した例もあるという。私自身は富士山での記憶から、どこかで自信を持ちつつ、どこかではここ10数年の不摂生を顧みて、心配な気持ちを抱き、旅行に望むこととなった。

ウエイトレックの貫田さんは日本では知る人ぞ知る登山の達人。彼と、チベット11回訪問というチベットの達人正木先生とのダブルタッグで指導願い、高山病対策は万全で望んだ。特に貫田さん持参の血液中の酸素濃度をはかる小さなインジケーター(正式名称は動脈血中酸素飽和濃度測定計)は体調管理に物凄く力を発揮していた。そのお陰もあって、幸い、ホントに幸いにして私はチベット滞在中、高山反応らしい反応もなく、ラサ一日目に少し頭がボーとした程度と、階段の上り下りに息切れを起こしたくらいだった。しかし弟子のAOくんが肺水腫手前に陥り、あの達人の貫田さんを慌てさせるという事態になり、また高山病の因果関係は定かでないが、(このあと…)ASくんの腸閉塞という思わぬ事態にも襲われた。他の参加者の内、高齢の方々の多くも頭痛や食欲不振に悩まされ、更にはハイテンションのまま、なかなかもとに戻らないという高山病の症状を経験したのであった。

ともあれAOのことを思うにつけ、高山病の怖さを初めて知ったのであった。と、共になんの高山反応もなく元気に過ごせる頑強な身体を与えてくれた両親に、今更ながら感謝の心を持ったのであった。

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