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チベット旅行記=短いバージョン

 昨年6月、私は盟友の宗教学者正木晃氏らに同行して秘境の国チベットの仏教寺院を巡った。その旅行記は以前ブログでアップした。そしてその紀行文をもとに、昨年8月には2ヶ月にわたって仏教界の業界紙である「仏教タイムス」10190 Photo_9 Photo_10 で連載したが、以下はその短いバージョンのチベット見聞録である。

「主なきポタラ宮」
  チベットといってまず最初に思い浮かぶのは世界遺産「ポタラ宮殿」であろう。私の憧れの地でもある。私たちは空路北京からラサ市に入り、真っ先にこの地を訪れた。
 ラサ市の西の端に位置するポタラ宮は歴代ダライ・ラマ法王の元居城である。この国の古建築を代表する宮殿式建築群は、どこまでも青く、高く澄んだ空を背にして、思い描いたとおり、ラサの市内を睥睨してそびえ立っていた。
 「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意味で、観音菩薩とは、その化身たるダライ・ラマのこと。チベット仏教独特の転生活仏の信仰である。13階建ての巨大な宮殿は政治施設の白宮と宗教施設の紅宮に分かれ、紅宮が白宮に支えられるように、中央部分の8階以上の高層を占めている。
 1959年、主であるべきダライ・ラマ14世は、中国の、チベット併合ともいえる侵攻政策による弾圧を避けインドに亡命し、以後、インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立して、国の外からチベットの独立運動を展開されているのはつとに知られるところ。
 ただ、漢人たちのチベット流入を含め、中国政府が行っているこの国への介入を思うとき、ダライ・ラマ法王が法王として、二度とこの地にお戻りになることはないだろうなあと…漫然と思ったのであった。   

「主なきポタラ宮②」
 ダライ・ラマ法王のインド亡命以来、主なき城となったポタラ宮殿は、今は中国政府によって博物館とされてしまった。
 実際に目の当たりにしたのは、巡礼者たちを押しのけ、物見遊山の観光客に踏みにじられる観音菩薩の聖地・ポタラ宮だった。
 チベットは中華人民共和国の成立と共に、チベットの歴史と文化の二つながら、大中国に飲み込まれ、文化大革命によって、大きな大きな打撃を受け、ついにはチベット人民の独立すら奪われてしまった。そしてその精神的支柱のチベット仏教は極度に疲弊したのである。その象徴が主なきポタラ宮殿であり、博物館と化した聖庁なのだ。
 私は吉野修験に属する山伏であるが、翻ってわが修験道を考えるとき、このチベット仏教が歩んだ運命にある種の親近感を覚える。
 明治期、わが国は欧米化政策の一環として神仏分離を施策し、日本古来の宗教心の象徴である権現信仰の禁止と、修験道という宗教の廃止を断行する。この災禍によって権現信仰の法城であるわが吉野山・金峯山寺は、一時期廃寺とされるが、のちに復帰し、日本全土の修験寺院が廃絶される中、奇跡的にその法脈を保った。それは偏に当時の人々の信仰心に支えられた抵抗運動の賜物であった。
 ポタラ宮殿の存続は博物館としての継承では意味がない。宮殿内に祀られる歴代ダライ・ラマ法王の嘆きやいかばかりであろうか…。だからこそ、チベット人民の信仰心の継続に、いずれ迎える新たなよき時代を拓く鍵がある、そんな思いを持ったのである。
 宮殿内の豪華な陳列物に饗応する中国人観光客に罪はないが、その信仰なき、無節操な態度に忍びがたい不快感を覚えたのは私だけではないだろう。                     
 
「文化大革命とチベット国」
 周知の如く、第二次大戦後、中国の侵攻によって、チベットは大中国に併合される。そして漢人たちによるチベット移入はあたかも大波が小舟を飲み込むが如く、怒濤のように押し寄せていった。その道程の初期には、凄まじい文化大革命の破壊活動がチベット全土を襲う。中国本土でさえ、自国のあらゆる歴史・文化と文物を否定した文革の嵐である。まして異国のものなど、一顧だにされることなく、容赦ない打ち壊しが行われた。とりわけチベット人民の精神的支柱であった数多くの仏教寺院は大法難ともいえる破壊の標的とされたのである。
 近年、ようやく文革の災禍を顧みて、仏教寺院の復興に手がつけられつつある。とはいえ、デブン寺やガンデン寺、シガツェのシャル寺など、訪れた寺院のほとんどが未だにその往時の偉容を取り戻すことなく、凄まじい破壊の爪痕を残していた。それは単に建物の破壊だけではない。ダライ・ラマ14世をはじめ、文革の難を避け、高僧たちの多くが故国を捨て、亡命せざるを得ない状況を生み、チベット仏教という信仰自体が風前の灯火と化したのである。
 今回の訪問では幸いセラ寺のチャンバイワンジェー長老など今もチベット本土で中国政府の理不尽な弾圧にも負けることなく、活躍されている高僧たちとの邂逅を得ることができ、深い深い感銘を受けた。しかし多くの寺院で出会った覇気のない若い僧侶たちの面容には、ポタラ宮同様に、文革の大いなる爪痕を感じさせる悲哀もあった。その中でせめてもの救いと思えたのは、参観中、至る所で目撃した真摯な巡礼者たちの祈りの姿だった。
 中国はいよいよチベット侵攻を進めている。鉄道の開通も目の前である。更に多くの漢人たちが移入してくるに違いない。私はこの国とこの国の人民を憂い、しばし立ちつくしていた。

「チベット仏教と夥しい仏」
 インドで生まれた仏教は8世紀後半、母国では廃れる。そのインド仏教が行き着いた後期密教はそのままの形でチベットに流伝した。インド仏教は開祖の釈尊以来、発展と変容を生むが、中国や日本に伝わったものは実は中期密教までの段階のもので、最後の精華というべき後期密教はほとんど伝播していない。その意味でもチベット仏教の存在意義は大きい。
 加えて、仏教による政教一致がチベットほど徹底されていた国は希有であり、そこにも大きな意味を見出す。
 もちろん中国侵攻以降、チベット仏教は苦難の道を余儀なくされるが、行く先々で五体倒地の巡礼を続ける多くの人々を見るにつけ、民のすみずみにまで行き渡った仏教信仰は未だ厳然として生きていることを実感した。
 ただもう少し言えば、近年世界的に注目を浴びるチベット仏教は『死者の書』やタントラリズムなど、異次元的で、そして甘美な世界を印象づけている。しかし実際に私が接したチベットの高僧や民衆の信仰はというと、そういう感じは極めて希薄であった。
 唯一、ギャンツェで参観した白居寺大塔に残された夥しい金剛界や無上瑜伽タントラ系のマンダラ群に、チベット密教の最奥を見たように思う。
 それにしてもなんと夥しい数のマンダラや仏たちだろう。白居寺に限らず、訪れた全ての寺院で、夥しいとしかいいようのない膨大な量のマンダラと仏たちに遭遇した。そこにはチベット民衆の生きた証と、来世への大いなる願いが込められていた。
 同じ仏教国とはいえ、気候と風土、歴史の違いが生み出した日本との相違を強く感じたのだった。

「白居寺の感動」①
 今回のチベット巡礼で一番感動したのはギャンツェの街で訪れたパルコン・チューデ(白居寺)だった。白居寺は15世紀初頭の創建で、当初はサキャ派の寺院だったが、その後、シャル派、ゲルク派が相次いで入り、各派共存の寺として存続している。この寺で有名なのがクンブム。俗に八角塔と呼ばれる白い仏塔は十三層からなり、その高さは34メートル、基壇の一辺は52メートルに及ぶチベット最大の仏塔だ。クンブムとは百万の意味で、十三層の建物の壁には百万の仏像が描かれているという。同行の正木先生から「チベット仏教最高峰の仏画群です」と説明を受けたが、本当に素晴らしい壁画群であった。
 その白居寺でまずはじめに感動したのは境内一杯にあふれる巡礼者たちだった。本堂前で五体倒地をする人、五体倒地をしながら境内を巡礼している人。ラサのジュカンでもたくさんの五体倒地者を見たが、ここではその数が数倍だ。そしてチベット第一の都市ラサを上回る巡礼者の熱気なのだ。いや、ギャンツェという田舎街だからこそ、中国ナイズされる以前の純朴なチベットが、ラサより遙かにここには息づいているという印象だったのである。
 本堂に参観し、巡礼者が額づく御本尊御宝前で錫杖を振りながら声明と般若心経の勤行を行う。チベット滞在中は訪問した各寺院で団員一同が一緒になってお勤めをさせていただいたが、この時の勤行ほど、唱えながら感激したことはなかった。遠く日本からなにか深い導きを得て、ここギャンツェで、この勤行の瞬間を迎えているっていう、天啓のような感動を覚えたのだった。

「白居寺の感動」②
 本堂参観に続いていよいよクンブム大塔へ向かう。「チベット密教中、最も優れた壁画群」が残る期待の場所である。
 ところが大塔前で、私と同行の一人が巡礼者たちに取り囲まれてしまった。「あの二人は日本のお上人さまだ」と噂が立ち、次々とお加持を求める群衆が集まってきたのである。私たちが法衣姿で参観していたことが原因であろう。そのお加持をする姿を見て、次々と他の人も列を作り出した。うわー、えらいことになったなあと思いつつ、群衆に乞われるまま二百人以上はお加持をしただろうか。何度も何度もお加持を願う人もいる。油でこてこてに固まった髪の毛ごしにひとりひとりお数珠でさすってあげるのだが、いよいよ際限がなくなってきた。逃げようと、同行者を引っ張って、ついに這々の体で逃げ出したのであった。お上人様でもない私たちにはあれが限界だった。
 なんとかクンブムに入る。ここは一階から右回りに仏画や仏像を拝みながら登るのだが、その道程は悟りへの過程になるように造られている。聞きしにまさる素晴らしい仏像、仏画群だ。上に上がるほど悟りへの過程を昇るというのは、仏教の発展過程をなぞることでもあり、最上階には待ちわびた後期密教の無上瑜伽タントラ群が待っていたのである。この夥しいかぎりの合体仏、秘密マンダラ群を見たとき、私の思い描いたチベット密教の最奥にようやくたどり着いた気がしたのである。
 素朴で真摯な巡礼者たちに取り囲まれ、そして夥しいマンダラ画や仏たちに包み込まれ、これこそチベット仏教だ、というパルコン・チューデ感激のひとときであった。

  「チベット高原について」
 もう二十年ほど前になるだろうか、私はシルクロードの各地を訪れたことがある。新彊ウイグル自治区のウルムチ・トルファン・敦煌など…ゴビタンに広がる漠々たる褐色の大地がそこにはあった。大ざっぱに言うと、チベット高原は崑崙山脈をはさんで、その新彊ウイグル自治区の南側に位置する。にわか勉強で仕入れた知識であるが、ある種、チベットもシルクロード各地の延長線上だというイメージを持っていた。
 ところがラサからバスで約7時間ほど要して訪れたギャンツェの街は標高4000㍍を越えるというのに、大麦と菜の花の穀倉地帯が平地一面に広がる肥沃の地であった。もちろん日本などの低地の肥沃地とは比べものにならない収穫性の低い穀物群ではあるが、ギャンツェ平野を取り囲む5000㍍級の山々が、どれも無骨にして無愛想な峻厳な岩山ばかりであるだけに、緑と黄色に彩られた大地はあたかも天国の情景にすら感じられる目に優しい佇まいであった。
 シルクロードのゴビタンには「空に飛ぶ鳥なく、地に走る獣もなし」と法顕三蔵が嘆いた不毛の大地が延々と続いていた。しかしチベット高原には人の営みと自然の恩恵がつましく広がっていたのである。そんな大地に立ち、自然との共生とは、人間のつましさの上に成り立つ世界なのかもしれない…などと思ったりした。
 それにしても空気の希薄なこの高原地帯にチベット人は並々なる努力を以て、日々を生きるためのささやかな農耕生活と、世界に希有なる仏教文化を展開させてきたのである。それは私にとって驚愕の情景であった。

「高山病について」
 もう20年近く前、富士山に登ったことがある。たしか7合目か8合目の山小屋で一泊し翌朝登頂した。朧気な記憶だが、蟻の行列のような登山者が続く中、前を行く人の背中ばかりを見て登ったが、道端には簡易の酸素ボンベで吸飲しながら、はあはあと喘いでいる多くの人がいた。高山病に苦しむ人たちである。しかし私はあのとき、さして高山での苦しみを味わったという覚えがない。
 今回チベット高原に行くについて、再三にわたり、事前に、高山病の怖さと注意事項を指摘されていた。人によっては死亡した例もあるという。私自身は富士山での記憶から、どこかで自信を持ちつつ、どこかではここ10数年の不摂生を顧みて、不安な気持ちを抱いていた。
 今回の旅の添乗員を務めていただいた貫田宗男氏は日本では知る人ぞ知る登山家。またチベット訪問11回という正木先生はチベットの達人。そのお二人のダブルタッグで指導願ったのだから、おかげさまで高山病対策は万全の旅行だった。特に貫田さん持参の血液中の酸素濃度をはかる小さなインジケーター(正式名称は動脈血中酸素飽和濃度測定計)は団員の体調管理に物凄い威力を発揮していた。そのお陰もあって、幸い、ホントに幸いにして私はチベット滞在中、高山反応らしき反応もなく、ラサ1日目に少し頭がボーとした程度だった。
 しかし同行者で肺水腫寸前に陥り、あの達人の貫田さんを慌てさせるという事態もおき、万全を期したにもかかわらず、波瀾万丈の10日間となった。
 やはり平均高度3700㍍を侮ってはいけない。チベットは低地民族の日本人にはとても怖い国なのだ。

「旅の終わりに…」
 旅に出ると私はいつも思う。旅先で多くの人々に出会うたびに「人間はなにかをして生きているんだなあ」と漠然と思うのである。人間はなにかをして生きている…至極当然のことなのだが、日常の生活を離れて、非日常の外国旅行へ行くと、そういう思いをいつも抱くのである。今回は秘境といわれる国だけに、今まで以上により強くそう思ったのだった。
 商売をしている人、畑を耕している人、食事の世話をしている人、巡礼をしている人、昼間から寝そべってる人、物乞いをしている人…千差万別に多くの人々がいた。
 考えれば「あんなことを達成した、こんなことも成し遂げた」といったところで、所詮私も、家庭と仕事を行き来しながら、なにかをして生きているだけの存在である。誰もが生まれた以上は死ぬまで、なにかをして、生きるのである。その生きる過程で成し遂げたことの価値など、大いなる宇宙の営みから見たら芥子粒にも満たないものである。それでも私たちはああだこうだと右往左往しているのだ。考えてみれば愚かな話である。
 仏教では「世間虚仮」という。「是真仏法」とも説く。チベットの大地にひれ伏し、仏教の教えのみを信じて生きているような人々にたくさん出会って、私は仏教者としてもう一度、人が生きるとはなんなのかという問いかけを続けていたのであった。柔和な仏像とおどろおどろしいマンダラ画の狭間で、生きることの複雑さや猥雑さを感じながら…。
 こうして私はチベット旅行を終えたのだった。

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