OMAの心
毎月機関誌に書いているコラム「蔵王清風」があるが、今月のコラムから。
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以前、日記でも少し書いたが、昨年あたりから講演会活動などを通じて、新たな提言を試みている。それは「OMA」の勧め運動である。OMAとは私が勝手に考えた標語なので、まだまだ一般化していないが、しばらくこれで頑張ってみたいと思っている。
OMAとは、Oは「おかげさまの心」。Mは「もったいないの心」。Aは「有り難いの心」を表す。三十年ほど前はまだまだ残っていた「お天道さまが見てござる」、「ご先祖さんにもうしわけない」といった日本人の倫理道徳の基層の部分を担った価値観が急速に失われた現代社会。逆にそういうものが生活の中に残っていた時代には、このOMAの心もまた、みんなが当たり前ように持っていたはずであろう。
親が子を殺し、子が親を殺す、いわゆる尊属殺人が日常化し、自殺者が年間三万三千人にのぼるというこの国。どこかしら壊れているとしか思えないような現代社会だからこそ、このOMAの心の一つ一つを取り戻すことが今こそ大事なんだと思っている。
私たちはひとりで勝手に生きているのではない。天地の恵みに生かされ、周りの人々の慈しみの中で生かされ、生きさせていただいているのである。天地の恵みに、父母親族友人知人の縁に感謝せずにはいられないであろう。おかげさまにて生きているのである。天地のおかげさま、みなさんのおかげさまって、いつも心で思っている人は不幸であるはずがない。
天地の恵みがもったいないのである。人々の慈しみがもったいないのである。煩悩にまみれ、貪瞋痴の三毒に犯され、猥雑な欲望に振り回されて生きている私であるにもかかわらず、天地からも人様からも、おかげさまをいただいている。恵みと慈しみをいただき続けている。本当に、私などには過ぎた、もったいないことなのである。
天地が有り難いのである。人様が有り難いのである。もう有り難くて有り難くて仕方がないのである。自分がこうして生きていること自体が不可思議なことでさえあり、有り難いことなのである。当たり前に生きている人など誰もいない。不可思議で仕方がないようなところで、みんな生きているのである。
私たちはいつの間にか神仏なき時代を迎えてしまってた感があるが、OMAの心を取り戻すとき、神仏のお力もまた実感できるに違いない、是非多くの人々にこのOMAの心の実践を伝えさせていただきたいと思っている。
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きれい事に聞こえるかもしれないが、ちょっとでもそういう気持ちを持つことは大変大事だと実感している。
ここでいう「OMA」は決して大間マグロ漁業組合の略ではありませんので。
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