奥駈は人生そのもの・・。
7月12日から修行に入っていた東南院の大峯奥駈修行が無事満行し、今日の昼過ぎに吉野山に帰ってきた。8泊9日の大修行である。帰山した行者の多くがすがすがしい顔をしていた。
私もこの6月に奥駈修行を終えている。で、その時の感想文的雑文を書いたが、遅ればせながらアップします。どうぞ。。
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「奥駈は人生そのもの…」
今年も奥駈修行に参加した。大きな事故もなく、また六月の梅雨時にもかかわらず、覚悟した雨にもほとんど遭うことのない恵まれた奥駈となった。
私は毎年この奥駈行では、峯中の拝所での勤行中に、何度か、まるで白い光に包まれるような体験をする。たぶんこの世に思いを残さず死を迎えることがあるとするなら、きっとこんな感じなのではないかというような、そういう光の中の心地よい気分である。ここ四年、毎回のように経験をしているが、今年も七曜ヶ岳遙拝所の勤行の際、そんな気分を経験した。
こういう気持ちよい体験だけではなく、奥駈では、いつもなにかしら、大きな気づきを生んでいただいている。今年もそれがあった。それは、「私がいかに多くの周りからの力や慈悲や恩恵に包まれて生きさせていただいているか…」、という思いに心が至ったことである。もちろん日頃からそれなりにいろいろなありがたさや、御本尊を始め、家族、友人、知人などの恩恵には感謝しているつもりではあるが、奥駈中に観ずる感覚はまた趣が深く、心に沁みるものがあった。ただそれらの感覚は私個人のモノであって、他の参加者と共有するわけではないだろう。しかし、それにしても奥駈の世界で学ぶことは実に多いのである。
奥駈中の法話でいつもお話ししているが、修験道の修行とは大変親切なところがある。それは大きな志をもって臨んだ人も、たとへなにも持たなくて臨んだ人も、それぞれそれなりに体験的ななにかを感じさせ、覚醒を与えてくれる、ということである。頭で作り上げた世界ではなく、肉体を通じて、身体の痛みや疲労感を突き抜けた先に、なにかを掴かませていただくことが出来る世界が修験道の山修行なのだ。この辺は理屈ではなく、体験する以外にわかりようがないが、修行を経験した人には首肯できる話なのではないだろうか…。
まあ、参加者はだれもそんな小難しいことを考えたり期待したりして歩いているわけではなく、ただひたすら足を一歩一歩前に進めることだけに埋没する数日間、というのが奥駈修行の本当のところであろうが、この素晴らしき世界は山伏修行ならではの、ものなのかもしれない。一般の人でも縁を得て参加する人は毎年多いが、折角本宗の縁を得ながら、まだ経験されていない人々もいる。もったいないことだなあと、私はその人たちのことを思っている。
私の座右の銘のひとつ…。「人生を奥駈にたとえるのではなく、奥駈そのものが人生なんだ」と。今年も無事満行出来て有り難かったです。
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