« しゃべりすぎ?? | トップページ | 仕事、山積中 »

逝く人は善知識なり

5月に岳父が急死した。朝、いつものように起きてきて、急に倒れたらしい。救急車を呼んだが、すでに心臓は停止をしていて、手の施しようがなかったという。近くの病院に担ぎ込まれたが、私が駆けつけたときはすでに警察の検死が行われていた。あっけない別れであった。

とるものもとりあえず、隣町から駆けつけた義兄は呆然としていた。あまりにも急なことだったからである。義兄のそばに佇んで、掛ける言葉もない状況だった。

しかしそれからが大変だった。警察の検死が終わると、いきなり岳父の葬儀の心配をしなければならない。ついさっきまで元気に生きていた人なのに、なくなったと同時に岳父の身体は遺体となり、半時間後には集中治療室から霊安室に移動となった。慌てて、葬儀社を決め、遺体の引き取りの算段をし、身内に連絡して、通夜と葬儀の場所と時間を相談する。それが間髪を入れない忙しさの中での、出来事なのである。茫然自失の義兄を促し、判断を下さなければ前に進めないが、とはいえ、そう簡単なことではない。悲しみにくれている暇のない、慌ただしい数時間があっという間に過ぎたのであった。なんとはかないものか。つくづくと人の命の頼りなさと切なさを実感したのであった。

実は岳父の死の少し前には自坊の大切な世話方さんの奥さんが亡くなった。身体の不調を訴え、入院して半月ほどのことだったそうだ。入院のことなど、聞いていなかっただけに、寝耳に水の訃報だった。突然に連れ合いを亡くした世話方さんだったが、それでも淡々として通夜、葬儀を勤めておられる姿が印象的であった。

このお二人のお弔いで、私は通夜の席上、読経をさせていただいた。両方とも檀家寺のご住職がお帰りになった後でお唱えしたのであるが、突然亡くなった故人に対し、生前中はなんの恩返しもできなかったお詫びの気持ちでいっぱいだった。岳父は私のことを出会うたびに褒めてくれていた。世話方さんの奥さんは飛びきり優しい人だった。そんなさまざまな思い出や、生前の仕草、声や、笑顔や、いろんなものが浮かんでは消えたのであった。

大学の恩師に「逝く人はみな善知識なり」という教えを受けたことがある。親しい人を亡くすことは哀しいし、家内にしろ、義母にしろ、また世話方さんにしろ、その故人の死が突然であればあるほど、悲しみも深い。だからこそ、「逝く人はみな善知識なり」なのだろう。悲しみの中に、故人を慕う思いの中に、残されたものへの教えが込められていると、仏さまは申されている。それをひとりひとりが受け取ることが、何よりの故人への供養になるのではないだろうか。そんなことを思いながら、お弔いをさせて頂いたのであった。そして私はただ、その生前の恩に謝して、合掌するのみである。

« しゃべりすぎ?? | トップページ | 仕事、山積中 »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« しゃべりすぎ?? | トップページ | 仕事、山積中 »

本・著作

最近のトラックバック

Twitter

  • Follow me
  • Twitter
    TwitterPowered by 119
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ