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吉野の歌人・前登志夫先生歌碑建立

081126_08180002 081126_08170002 081126_08230001 昨日は午後から吉野の歌人・故前登志夫先生の歌碑建立除幕式及び遺稿歌集の刊行配布を行った。

吉野のサクラをこよなく愛し、また自分自身が吉野の山林に定住して、山川草木の深い慟哭を聴き続けて来たことでしられる歌人前登志夫先生は、当山との関わりも深く、私自身も交流があった。

とりわけ昭和45年から当山の機関誌に歌を寄せていただき、私が金峯山寺に入寺した昭和56年からは毎年新年号に新春短歌を寄稿いただいていた。入寺以来、機関誌編集に携わった私は毎年年末になると山深い下市町広橋の自宅に伺い、原稿を頂戴したものであった。

その先生の最後の寄稿となった今年新年号の最後の歌が「一基だに われの歌碑なき吉野山 雪ふみくだる いさぎよかりき」であった。この歌をいただいたとき、えーー、先生の歌碑はたくさん建っているのに吉野山にはなかったのだとはじめて気づき、ま、督促していただいたようなものだと悟って、早速建立話を寺内ですすめるところとなった。

先生の意向もお聞きして「さくら咲く ゆふべの空のみづいろの くらくなるまで人をおもへり」という自筆の歌を刻むことを指示いただいたが、生前中の建立はかなわず、昨日ようやく建立をみて、4月に亡くなった先生の遺影にささげたのであった。

実は歌碑建立をきめてから、2月に先生とたまたま近鉄電車の中で遭遇した。先生の最後の講義となった朝日カルチャーセンターへ出講されるときであったが、歌碑の話しを申し上げると、大変喜んでいただいたことが思い出される。

亡くなった当日も奥さまから私宛に伝言があり「くれぐれも歌碑の件、田中様によろしくお伝えしてくださいと主人が申しておりました」とのことで、まさに遺言のようなことである。

歌碑は金峯山寺境内の南朝皇居跡公園の一角に建った。錦秋のあざやかな紅葉の中、先生念願の歌碑が除幕できたのである。

またこれは私の一存だったのだが、昭和45年以来、当山の機関誌に寄稿いただいた全99首の歌を一冊に編集して、歌碑建立記念に出版させていただいた。機関誌の中だけでは埋没してしまうだけだが、歌集を編むことで先生の足跡が後世に残るのならと思っている。

酒席での武勇伝が多くのこる先生であったが、お元気なうちに一度くらいはご一緒に痛飲できればとちょっと残念さが残る。日本芸術院賞受賞の祝賀会でご一緒したのが最後の酒席であった。世界遺産登録に奔走したことをいたくほめていただいたことが有り難かった。

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コメント

小爺も数年前に 前登志夫先生と 偶然なきっかけで出会いました。
話題は 紀州の殿様が参勤交代で使った東吉野の伊勢街道のことでした。
街道筋にあたる高見山を望む木津峠に 前 先生の歌碑があります。
( 朴の花/たかだかと咲く/まひるまを/みなかみにさびし/高見の山は )
歌碑には「樹下山人」の号が、お名前に添えて書かれていました。
前先生は、自らを「古代の中央の勢力によって吉野の山に押し込められた山人の裔(すえ)だから」と仰るくらい吉野の地をこよなく愛しておられました。
「広橋の梅林を見にいらっしゃい」と お誘いを受けお別れしましたが、それも実現せず今年4月に訃報に接した次第です。
昨夏、通年テーマ「吉野」で奈良県立情報図書館で開催されたセミナーに、法螺貝に先導されて講演されたのが「吉野山人」さん(7月)、その次の(9月)講師が「樹下山人」さんだったことが、心に残ります。

なにわ老歩人さん。

コメント有り難うございます。

そうですね、図書情報館で先生の露払いをしたのですねえ。

吉野山人っていうのは本当は先生が先に名乗っておられたのかもしれません。私はパソコン通信を始めた16年くらい前からこれをつかってましたが・・・。

生前に先生にご許可をもらえばよかったと今更ながら悔やまれます。

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