今月の早出しである。機関誌は明日の発送なので、事前に蔵王清風に寄稿した一文を掲載する。
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「蔵王一仏信仰」
この6月17日に吉野山での「青年僧の会」総会での記念講演をお願いしている哲学者 の内山節さんとは三年ほど前から知己を得て、親しくしていただいている。そんな関係で講演会も来ていただくことになったのだが、その内山さんと話しているときに、欧米の一神教と日本の多神教との比較の話になり、私の持論を興味深く聞いていただいたことがある。私は欧米の一神教がいうところの多神教と、日本の多神教とは少し意味合いが違うと思っている。日本人の多神教観は単なる八百万の神という認識ではなく、一即多の多神教だと思っている。
つまりこういうことだ。八百万の神々は天照大神に帰一し、その天照大神が八百万の神に展開している。別のものではなく、同じものの表れとみるのだ。まあ神道的にはかなりな無理があるが、密教的にいうともっとわかりやすいだろう。曼荼羅世界の神々・仏たちは全て大日如来に帰一し、大日如来を開けると曼荼羅世界に遍満する諸尊に展開するのである。一、即ち、多なのだ。
これに対して、欧米世界の多神教観はそうではない。一神教が生まれる前の段階の、アニミズムや原始形態の信仰が多神教世界で、その多神教が淘汰されて一神教が生まれたのだとする。一神教以前の、未熟な宗教形態として、多神教を切って捨てるのである。日本との違いは大きい。
さてなぜ学者でもない私が「一即多」の宗教観を披瀝したのかというと、それが私の信仰観に基づくからである。その辺が哲学者と信仰者の違いで、内山先生もそこに大きな興味を持たれたようである。
私はもう十数度、大峯奥駈修行を遂行したが、あの大峯連山はまさに神仏在す曼荼羅世界である。大峯峯中、釈迦岳の手前、両峯分けの拝所を持って、北側が金剛界曼荼羅、南側が胎蔵界曼荼羅とするが、大峯連山には金剛界胎蔵界の曼荼羅諸尊が遍満していて、その中を行じさせていただくのが奥駈修行なのだ。そしてここが肝心なのだが、その曼荼羅世界の諸尊諸菩薩は全てご本尊金剛蔵王権現に帰一している。蔵王権現の別名を「金剛胎蔵王如来」と呼ぶのはその由縁で、曼荼羅世界の全てを統べる大霊格が蔵王権現なのである。その蔵王権現の身体の中で跋渉苦行するのが我々の大峯修行なのである。
私はこれまで、あれもよい、これもよいとする「ごった煮」的なのが日本的宗教信条だと言ってきた。もちろんそれは今でも正しいと思っているが、あくまでのそれは評論として日本の文化観である。しかし実は信仰者としての信条は決してそれではいけないと思っている。蔵王一仏に帰依できてこそ、吉野修験、金峯山修験の本物の信仰者なのである。最近蔵王権現様の前に座るたびに「拝み方が足りん!」と叱られているような気持ちになるが、それは蔵王一仏の本尊観がまだまだ脆弱だという不徳の現れにちがいない。あいかわらず耳障りのよいことばかりを言っているように聞こえるかも知れないが、未熟なるが故に、蔵王一仏を生涯の指針として、これからも行じさせていただければと願うばかりである。
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