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千人潅頂会の感想と一緒に。

こんなのを見つけました
千人潅頂会に来ていただいた人です。金峯山寺周辺の案内がとてもよくできています。ちょっと長いけど。時間のある方はどうぞ・・・。

「役行者」を語る連続講座

役行者霊蹟札所会設立10周年記念として、伝説の超行者「役行者」を語る連続講座を朝日カルチャーセンター中之島教室で行います。

今年3月に東京まほろば館で行った講座と同じメンバーですが、バージョンアップして開催されますので、是非、受講下さい。

以下、講座の日程です。

2012/01/21 役行者と蔵王権現     田中 利典 
2012/02/04 大峯奥駈修行と75靡   高岡 保博 松尾寺住職 
2012/02/18 文覚上人と蔵王権現    小松 庸祐 法楽寺住職 
2012/03/03 役行者と護摩修行     近藤 真道 神峯山寺住職
2012/03/17 修験道のこころ      田村 照晃 醍醐寺伝法学院長
2012/03/31 役行者と母について    大塚 静遍 千光寺別当
2012/04/07 葛城と役行者       宮城 泰年 聖護院門主

不肖わたくしが第一回をつとめさせていただきます。

基本的には連続講座ですが、一回一回の受講も可能です。

お申し込み問い合わせは以下、朝日カルチャーセンター中之島教室のHPまで ↓

http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=144184&userflg=0

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祈りの廻廊第3弾・今回のテーマは「空海」

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11月20日(日)に、空海と奈良・吉野をテーマとした「祈りの回廊フォーラム」が奈良県文化会館で開催されるが、これに出演する。空海のことはほとんどしらないのですが、高野山開創の道プロジェクトの絡みで、今回の講座のコンセプトメイキングに関わったこともあって、パネリストになりました。本講座は参加無料で、FAXまたは往復はがきで申し込みください。

http://www.pref.nara.jp/secure/71047/houdou.pdf

http://www.pref.nara.jp/secure/71047/tirasi.pdf

以下、奈良県のHPから抜粋。

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「祈りの回廊」フォーラムの参加者を募集!

若き弘法大師(空海)が奈良で学び、吉野で山岳修行したことに触れながら、日本の精神文化に誇りを持つことの大切さや、心の豊かさ、価値観などについて考えるフォーラムを、下記のとおり開催するにあたり、参加者を募集します。

1.日時:平成23年11月20日(日) 14:30~17:00 (開場 14:00)
2.場所:奈良県文化会館国際ホール  奈良市登大路町6-2
3.主催:巡る奈良実行委員会、奈良県、奈良県ビジターズビューロー
4.内容:
○基調講演「空海を育てた奈良・吉野」
 (講 師) 高野山真言宗総本山金剛峯寺 村上 保壽 教学部長
○座談会
 (登壇者) 大 安 寺 河野良文 貫主   東 大 寺 平岡昇修 財務執事
       金峯山寺 田中利典 執行長  室 生 寺 網代裕康 副住職
5.申し込み方法
募集人数1300人(先着順)参加費無料
往復ハガキの返信面に宛名を記入のうえ、「祈りの回廊」フォーラム希望と、代表者の住所・氏名、参加者希望人数(3人まで可)を記入し、下記事務局まで。(FAXでの申し込みも可) 後日、参加券を郵送またはFAXにて送信します。

空海といえば高野山や東寺ということで、吉野で修行したことや、奈良のお寺とゆかりがあることは、あまり知られていない。2015年(平成27年)には「高野山開創1200年記念大法会」も開かれる。今回のフォーラムは「空海と奈良」を学ぶ絶好の機会である。ぜひお申し込みいただきたい。

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忙しくて告知が遅れましたが、まだ入れます。当日でも入れると思いますので・・・。よろしけば来て下さい。

東日本大震災一周年復興祈願大護摩供

来年3月11日は東日本大震災から一年を迎える。 Dscf0156

近畿各地を中心に活動をしている役行者霊蹟札所会と近畿三十六不動霊場会が合同して、来る3月11日に大阪の舞洲を会場に、慰霊と復興のための合同大護摩供を企画しているがその合同委員会が今日大阪で開催され、役員のひとりとして出席する。

来年の一周忌はきっと各地でいろんな慰霊祭が行われると思われるが、大阪での復興祭・慰霊祭のひとつの大きな柱になれれば…と考えている。

今日の会議で詳細が決まるが、「再生ニッポン!」を合い言葉に、宗教者のちからを結集させたいと思っている。

弔辞

自坊の世話方でものすごくお世話になった方が95歳で亡くなった。

実は大祭の前から悪いと聞いていたので、大祭が終わって、5日の夜にお見舞いに行った。もう意識はないような容態だったが、私が行くと、ぐっと手を握りかえしてくれて、眼もなんとか私を見ようとされているのがわかった。その翌日、亡くなったのである。

6日は吉野に朝から戻ったが、訃報を聞いて、8日に自坊に戻り、お通夜と今日の葬儀に列席した。

弔辞を読ませてほしいとお願いして、用意した。ただ葬儀の時間があまりないと聞いたので、3分30秒バージョンに短くして読んだ。本当は倍くらいの長さを書いたのだが、その原文を紹介します。原文だと8分くらいかかったと思う。

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弔辞

Tさんは素晴らしい方でした。
家庭にあっては愛妻○子さんとともにT家の繁栄と興隆を果たされ、外にあってはTS精工の創業や、地元の消防団長、自治会長、そして市会議員を歴任されるなど、世のため人のためにも大いに尽くされた、まさに人徳人望ともに備わった大人物でした。

とりわけ私にとって、Tさんは、Tのおっちゃん、…T爺で、幼い頃よりとても可愛がっていただきました。亡父とは一つ年下の幼なじみだったこともあって、父も生涯弟のように頼りとし、公私ともに大変お世話になりました。40年前に自坊林南院が建立されて以来は、大峯山の行者として、林南院にとってなくてはならない存在でもあり、世話方の親分としても本当によくしていただきました。

常に偉えそうぶらず慈愛に満ちたそんなTのおっちゃんを私は心より敬愛していました。

あやべ市民新聞の風声というコラムがありますが、そこにT爺のことを二度ばかり書いたことがあります。照れながらも、ものすごく喜んでおられた笑顔が今も忘れられません。

そのうちの一編を紹介し、今生のお別れのはなむけにさせて頂きたいと思います。それは今から13年前にT爺が自伝を出版された時に書いたエッセイです。

親父殿の友人が自叙伝を自費出版されたというので、一冊頂戴した。
「人に読んでもらうようなものじゃないんだけれど、自分の生涯の記録を残しておきたいと思ったもんだから…」と随分謙遜して恵贈頂いたのだが、この本、ものすごく、面白かったのである。気がつけば、原稿用紙にして五百五十枚を越える量の自叙伝を、一昼夜にして読破してしまっていた。
本書は戦後半世紀を過ぎて、太平洋戦争の風化が著しい平和ボケの現今の日本から見れば、おとぎの国の話のようですらある。ところが齢八十歳を越えてなお、矍鑠として活躍されるT翁の自叙伝を通して、郷里綾部の寒村に生まれた一青年が、京都での丁稚奉公を経、青雲の志を持って海軍に志願し、激動の時代に身をゆだねていくそのリアルな記述は、ついつい読み手を戦時下の日本の中へ引き込んでいき、等身大の現実味を持って、戦争時代を体験させてくれたのである。
戦争話というと昨今は慰安婦問題だの、南京事件だのと、マイナスなイメージのみが報道される感じがあるが、『遙かなる軌跡』(北斗書房刊)という全二八六ページに著された実体験の本書には、昭和初期に青春を生きた一人の農家出の日本人が、死を厭わず、祖国の礎となることを誇りとして、懸命に自己を輝かせる爽やかな生き様を教えてくれる。有名なミッドウエーやソロモン海戦など、歴史の上でしか知らなかった戦争記も、一下士官の目で臨場的に記されていて、単なる戦争の賛美ではない、人間物語として、読みごたえある内容であった。読了後、T翁の知己である自分が嬉しくさえなった・・・

以上ですが、戦後の素晴らしい生き様も含めて、T爺と知り合えたことはとても私にとって誇らしいことでした。見事に生き抜いたTさんの生涯の功績をたたえるとともに、頂戴したご恩に心より感謝して、弔辞と致します。Tのおっちゃん、本当にありがとうね。

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本当に福徳のある人でした。心からご冥福をお祈りします。

蔵王三鈷杵奉納。。

昨日、巨大な三鈷杵の開眼奉納式が、五條覚堯管長猊下の大導師の下、金剛峯寺から村上保壽執行や近藤本純高野山開創一千二百年大法会事務局長など四名が列席される中、マスコミ各社を集めて、蔵王堂宝前で執り行われた。

この三鈷杵は弘法大師・空海が若き日に吉野山付近から高野山に至ったルートを「弘法大師の道」としてよみがえらせるプロジェクトでの金峯山寺と金剛峯寺との交流を機に、サクラ材で制作した長さ約1メートルの法具「蔵王三鈷杵」を作成し、本山から金剛峯寺に奉納することになったものである。

プロジェクトは平成二十七年の高野山開創一千二百年に向け、吉野山から高野山を結ぶルートを巡礼道として整備する。両寺はこの企画を通じ交流を深めており、今回は開創法会を慶祝して執り行われた。

法要後の式典では、五條覚堯管長猊下から金剛峯寺の村上執行に奉納書と、開眼を終えた「蔵王三鈷杵」が手渡され、そのあと、田中利典宗務総長や近藤事務局長も同席して、マスコミ各社に対して記者会見が行われた。

この蔵王三鈷杵奉納が更なる両山の興隆に繋がることを念じます。

チベットでおこっていること

怒濤の日々で、自分のことばかりに心と体を費やしている間も世間ではいろんなことがおきています。

先月末からダライラマ法王が高野山に来山され、明日は東北へ行かれます。私も理事をさせていただいているスーパーサンガの会(略称SS)をつうじて、このところ、全くひどい常態になっている中国のチベット弾圧、そしてそれに抗議してすでに9人ものチベット僧侶の焼身自殺などの情報を知らせれていますが、心が痛みます。

先日はまったくなにも報道されない日本のマスコミに業を煮やして、SSの会が外国人記者クラブで抗議の会見をしました。ジャーナリストの青山繁春さんがアンカーで詳しく紹介をしてくれています。

是非ご覧下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=QNmVftlZnSw&feature=bf_next&list=ULQzG6gEGrQxM&lf=mfu_in_order

8'20"あたりから、チベットのお話です。

ようやく・・・ほんとにようやく

先月13日の母の死去以来の怒濤の日々が、ようやく、ほんとにようやく一段落です。

母の葬儀、伝法潅頂、千人潅頂、そして昨日の自坊の秋季大祭大護摩供…お陰様で、ほんと、みなさまのお陰様で無事乗り切ることが出来ました。いろいろと大変でしたが、大きな問題もなく、全てが順調に果たせたことは神仏のご加護と祝福であり、みなさまのお蔭様です。

…ホントに、みなさまのお蔭様が心から身にしみた20日間でした。

まあ、明日から暇!っていうわけでもなく、相変わらず、沢山の出来事や行事、フォーラム出演、講演会など、今月も目白押しですが、健康に気をつけて、徐々にガンバろうと思います。

ただ今日明日はさすがにしばしやすみです。。

喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて喜びに来る

13日の母の死去以来、怒濤のような日々が続きました。13/14日仮通夜、15日通夜、16日葬儀…終わって、18日からは伝法潅頂の準備に吉野へ。20日ー25日伝法潅頂…27日-30日千人潅頂。総指揮官としては吉野を不在に出来なかったので、葬儀もそこそこに吉野生活をしていました。

昨日、比叡山にお礼にあがり、ようやく母の元に返ってきました。

今日は三七日。これからおつとめをします。・・・ところで3日は自坊の大祭。今日からお弟子さんたちがお手伝いに来てくれるので、3日終わるまで怒濤の日々は続きます。

でも、ちょっと落ち着いたので、通夜の席でみなさんにお話しさせていただいた挨拶の内容を書きました。母を偲んでお読み下さい。

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「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて喜びに来る」

本日は母のためにお忙しい中ご参列を賜り、厚く御礼を申し上げます。通夜法話の席ですが、お導師さまにお許しをいただいて、挨拶と合わせて、母を偲ぶお話しをさせていただきたいと思います。

母は大正15年7月に奈良市京終(きょうばて)の地に生まれました。生家はすでにありませんが、平城京が営まれた時代、その一番端の土地という意味で京終といったそうで、今は市内に位置します。20代の後半に父得詮大僧正との縁を得て、ここ綾部の地に移り住まわせていただき、約60年になりました。

母はいろいろ苦労をした人生でした。いろいろお世話をかけた人生でした。いろいろみなさんに助けていただいた人生でした。そしてみごとに今生を生ききりました。

私は母の幼い頃のこと、そして若い頃のことは詳しく知りません。実際には父と一緒になり、私が生まれてからの母しか知らないのですが、満85年の人生を顧みると、最後は苦労のしがいのある、幸せな人生だったように思います。

得詮大僧正の座右の銘に「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて喜びに来る」というのがあります。父と母とは決して仲むつまじいという夫婦ではなかったのですが、「喜び集めて、喜びに来る…」というようなところが共通していたから、喧嘩しながらも、添い遂げることが出来たのではないかと思っています。

母はここ2,3年に体調を悪くし、入退院を繰り返しました。今年1月に緊急入院して、一時は危篤となりました。そのとき、あんなに行きたがった吉野にも、元気になって行こうと誘っても「もう…よい」と言いました。何かして欲しいことがあるかって聞いても、「にいちゃんには十分してもらったからもうよい…」と言いました。そんなふうに心が定まっている母に対し、あの頃の私は泣いてばかりいました。そして9ヶ月、母の長い闘病生活は続き、私にもようやく覚悟らしいものが出来てきていました。

亡くなる前日の12日の夜、ずいぶん弱った母を見て、「家のことも寺のことも、後のことは何も心配はいらないから…死んだ先のこともご本尊に安心してお任せすればよいから」と言い聞かせてやることが出来ました。言い聞かせすぎたのか、翌日朝、母は今生を終えたのでした。死に目には会えませんでしたが、遺体となって再会した母はキラキラと光に包まれていて、とても清らかに見えました。

辛い闘病生活だったと思いますが、最後はたくさんの人に送られて、賑わいが好きだった母らしく「喜びごとを喜んで」っていうに相応しい人生だったように思います。

母に対し、今まで頂戴したご交情に心より御礼を申し上げるとともに、残りました私どもに、母と変わらぬご交情をいただくことをお願いしまして、ご挨拶と致します。

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母の葬儀においで頂いた方はわかると思いますが、母の遺影はまさに「喜びごとを喜んで」っていう、すごい笑顔の写真です。通夜の夜、泣きそうになる度に母の遺影を見て「笑い過ぎやろ!」って思いました。

戒名「亮楽院容室妙佳法尼」

父は亮厳院でしたので、厳しい父に対して、楽観的な母らしく、亮楽院としました。父と一緒に苦労して新寺林南院を建立し、ともに維持発展に汗してきたので、林南院の山号・大容山から、容をとって、容室としました。妙佳は法名です。在家ながら伝法潅頂も終えており、本山より大僧都を贈られました。

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