GBC閉会式 ダライ・ラマ法王のメッセージ
●GBC閉会式 ダライ・ラマ法王のメッセージ 和訳
敬愛なる仏教徒の兄弟姉妹の皆様。
一人の仏教僧として、今この瞬間を、大変に感慨深く、とても幸せに感じています。
いつものことですが、最後のスピーカーには、もう話すことが残っていません。言うべき善いことは、すべて言い尽くされてしまいましたから。
私が、常日頃から思い感じていることですが、-----私はもちろん仏教僧なわけですが、しかし、それよりもっと深いレベルで、私は人間です。
現在、70億人近い人間がいます。私もその一人です。人間は、社会をつくって生きる動物です。一人一人の未来が、人類全体のありよう(humanity)にかかっています。ですから、私の関心は、人類について(人間について)真剣に考えなくてはならない、ということです。
第一に、私自身の経験に基づいて言えば、「一人の人間」というレベルにおいて、70億人の一人ひとり全員が、幸せを望んでおり、苦しみは望んでいません。そして、すべての一人ひとりに、その望みを実現する完全な権利があります。宗教、信仰の有無、宗派、階級、地位、学歴、貧富、王族か物乞いかは、関係ありません。みな同じ人間です。「一人の人間」というレベルでは、みな同じなのです。皆、同じ権利を持っているのです!
人類が直面する多くの問題は、(この一人の人間という根本のレベルより上の)第2のレベルで起きているのです。第2レベルでの違いから、問題が起きているのです。
根本のレベルで考えれば、同じ人類の兄弟姉妹です。(根本のレベルには、)人と喧嘩しなくてはならないようなビジネスはないんです。互いをだまさなくてはならないようなビジネスはないんです。人を見下すようなこともないんです。私たちは、同じなんです。
どこかで私たちは、明確に気がつかなくてはなりません。はっきりと気付かなくてはなりません。私たちは、同じだということを。
未来の、よりも幸福な人類というのは、すべての人の関心事です。そして全員の責任です。私たち仏教徒は、確か10億人近い仏教徒がいるそうですが、私たちにも人類に貢献する責任があります。仏陀釈迦牟尼が悟りを開かれた、まさにその動機も、生きとし生ける者のためだったと思います。彼の人生のすべて、彼の教えのすべては、生きとし生ける者のためだったのです。それは、仏教徒に限ったことでなく、すべての衆生のためでした。
ですから、そのレベルにおいて、私はいつも強く感じるのです。20世紀を振り返ってみると、20世紀は人類の歴史にとってとても重要な時代でした。多くのポジティブことがありました。しかし、その一方で、20世紀は流血の時代であり、暴力の時代でした。異なる宗教の元で、暴力や分裂がおこりました。20世紀は流血の時代であり、暴力の時代でした。
ある歴史家によると、2億人以上の人類が殺されたそうです。このようなとんでもない苦しみが、地上に何か良いことをもたらしたなら、そのようなとんでもない苦しみも正当化されるでしょう。しかし、そんなことはありませんでした。その苦しみの結果として地上に平和がもたらされ、幸せな世界が生まれたなら、正当化もされるでしょう。しかし、そんなことはありません。
21世紀初頭に入ってさえ、不健全なことがあちこちで起きています。これは、過去の間違いによって引き起こされたのです。過去の過ちの結果、こうした事態が起きているのです。
そして今、テクノロジーは必要であり、驚異的な進化を遂げました。しかし、そのテクノロジーすら、時には破壊をもたらします。科学やテクノロジー自体は素晴らしいことです。それを建設的な方向に利用できるかどうかは、究極的には、人間の心にかかっています。
テクノロジーをどう使うか、科学の知識をどう使うかは、人間の心なのです。
よい世界をつくろうという時に、より良い世界がお金や科学、テクノロジーによってもたらされると考えたら、それは間違いです。
もし、本当により良い世界、幸せな世界をつくりたいと思うなら、それは究極的に「心」次第です。(と言ってご自身の胸を指す)。そして、知性(ご自身の頭を指して)もですね。しかし、知性や教育については、確実だとは言えません。世界のトラブルメーカー達だって、頭脳においては、大変すぐれた知性もった、ものすごく頭の良い人たちです。しかし、彼らの心の動機は、怒り、恐れ、嫌悪、疑いであり、それがトラブルの引き金となっているのです。
ですから、21世紀を平和な世紀にするには、心の平和について考えなくてはなりません!
平和は、宣言をしたり、決議文を書いたり、スローガンを立てたり、そんなことではぜったいに実現できません! 平和は、心の内側の平和によってしか、実現することはできません!それが、平和を実現する唯一の方法なのです!
ですから、より幸せな世界をつくるためには、一人一人が自分の動機を確かめなくてはなりません。国際的な組織、たとえば国連だって、平和をもたらすことはできません。平和とは、一人一人の心の平和を通して達成されなくてはならないのです。個人と個人、一人と一人が結びついたものが、コミュニティーであり社会です。リーダーだとて、そうした社会から出てきているのです。もし社会が、倫理や道徳について考えないとしたら、もし社会がお金や力ばかりを追い求めているとしたら、その社会に属する人々も、お金や力ばかり考えてしまうことでしょう。こういう人々を責めることはできません。社会全体の考えなのですから。
思うのですが、多くの人々が、時に私自身でさえそうではないかと思うのですが、まるでリップサービスのように「神よ」「仏陀よ」と祈っておきながら、実生活では、そんなこと忘れてしまう。 「私は仏教徒です」「私は仏陀に祈っています」「ブッダンサラナンガッチャーミ」と言っていながら、実際の生活では、仏陀のことなんか頭になくって、お金、力、名誉・・・いったい何なんでしょう! 私たち宗教人も、時として偽善を覚えてしまっているのではないかと思います。祈ります!衆生のために祈ります!でも、実際には、他人の権利など構いもせず、何も行動をおこしません。搾取しています。(ステージ上の多宗教の偉い人たちに向かって)多くの他の宗教の信者も同じです。神に祈ります。神は創造主がつくったといいながら、被創造物である人間は、創造主である神のいうことに耳を貸しません。インド人の友達によく話すのですが、インド人は基本的に信仰心の深い人たちですから、シバ神に祈ったり、ガネーシャに祈ったり・・・あ、ガネーシャは主に財運の神様ですね(笑)・・。ともかく祈ります。どこの家でも神様が祀られていますよね。
でも、現実の社会では、汚職が蔓延しています。なんでそんなことができますか?どこの神様、どこの仏陀が汚職をしていいよ、なんて言いましたか!?私たちは、正直であるべきです。正しくあるべきです。いったいどこの神様が、できるだけ汚職しなさいなんて言いましたか?どこの神様が汚職しても大丈夫。私が加持してあげましょう、なんて言いましたか? 誰も言いません!そんなこと、誰も言っていません。(拍手)
もし、仏陀、キリスト、マホメッドなど、高次の存在を信じるというのなら、私たちは正直でなくてはなりません。信頼のおける人間でいなくてはなりません。そうすることで、私たち自身が、自分にもっと自信を持てるようになるのです。私には、何ひとつ隠し立てすることはない。自分が感じることを、なんでも言うことができる。すべて透明だ。こうあってこそ、他者から信頼されるのです。
ですから、あなた自身の利益を考えてみても、正直でいること、真実であることは非常に大切です。正直であり、真実であることによって、自分の内側から強さが湧き出てくるからです。「自信」という強さが。
(12:32)そう、良い言葉を並べて上手に話し、にこやか笑いながら、腹の中で別のことを考えている人たちもいますね。こういう人たちを、どうして信頼したり尊敬したりできるでしょう。私は仏教徒です。仏教徒の兄弟姉妹に申し上げたい。仏陀の教えは、もちろん2600年の時が経ってはいますが、現代においてもまったく問題なく通用します。多くの最高レベルの科学者たちが、心の働き(煩悩)についてもっと知りたい、もっと情報が欲しい、それに取り組みたい、煩悩(心を悩ます感情)に取り組む方法を知りたいと、大変な熱心さで(仏教を学んでいます)。
教えは素晴らしい。 しかし、私は本当に感じているのですが、教える側の僧侶(ラマ)やトゥルク(転生活仏)や教師の質が落ちてきている。そのサインが見受けられます。それを私はとても感じて、心配しています。もし、あなた自身が己れを律した生き方ができずに、どうやって人に教えを説けるというのでしょう。他人に正しい道を説くには、自分自身が正しい道を歩まなくてはなりません。
すでに、良いことについては(前のスピーカーたちが)すべて話してしまいましたから、私は、ネガティブな話しか残っていません。(会場 笑)
私たちは、とても真剣に考えなくてはなりません。私自身、仏教の僧侶です。私は、常に自分を見つめています。毎朝起きるとすぐに、仏陀のことを考えて、仏陀の教えを唱え、その教えに沿って1日を送れるよう、自分の頭と心を整えます。1日を、正直に、真実に、慈悲を持って、平和に、非暴力に生きられるようにします。
皆さんに、そうあってほしいと願うのは、「仏教だ」「ダルマだ」「仏教を宣伝しよう、広めよう」などと言う前に、まずは、自分自身の中に仏教を広めてほしいということです。(拍手)これは、とてもとても重要なポイントです。大切なポイントの一つ目です。
次に仏法。世界の主な宗教はどれもすべて、平和をもたらす可能性、より幸福な世界をもたらす可能性を同じだけ秘めています。そうした中で、仏教、ジャイナ教、一部の僧伽の伝統の独自性は、個人の重要性を強調する点にあります。それらは、個人によって(ものごとが)創造されるというのが、考え方の究極にあります。私たちは、因果の法則(縁起、原因と結果の法則)を信じています。良いことをすれば、良い結果が訪れる。悪いことをすれば、悪い結果が訪れる。因果の法則。もしあなたが、何か悪いことをしてしまったら、仏陀にも救うことはできません。仏陀は説きました、「私は、涅槃への道を示しました。しかし、涅槃に行けるかどうかは、あなた次第です」「私の加持力によって、あなたを涅槃へ送ることはできません」だから、あなた自身があなたの主(あるじ、マスター)なのです。
ですから、教えは非常に大事であり役に立ちます。すべてが、あなた自身の行動にかかっています。行為――それが良い行為であるか、悪い行為であるかは、動機によって決まります。仏法は、心の平和にとって、大変に重要なのです。
(ステージ上のテラバーダの指導者たちに向いて)
昨日、ビルマやラオスといった国々のリーダーとお会いしました。過去において、ヒナヤナ(小乗)、マハヤナ(大乗)、タントラヤナ(金剛乗)という呼び名のせいで、人々は、これら三つのヤナ(乗)が異なるものだという印象を抱いてしまいました。しかし、それは完全なる間違いです。 今朝もお話したように、テラバーダ(小乗)あるいはパーリの伝統は、仏法の基盤です。戒律の実践は、仏法の基盤です。仏陀ご自身の人生においても、髪を剃って僧侶になり、シーラ(戒律)を実践し、6年間の瞑想修行すなわちサマディ(禅定)とヴィパサナ(観)の修行をし、最後に悟りを開きました。3つの修行---シーラ、サマディ、ヴィパサナ。私たちも、仏陀の道に続かなくてはなりません。律の修行、ヴィナヤ(戒律)の修行なくして、どうしてシャマタ(止/1点集中の瞑想)やヴィパサナ(観/分析の瞑想)ができるでしょう。難しいでしょう?だから、パーリの伝統は仏教の基盤なのです。
その上に、般若経の修行があるのです。それは、サンスクリット語の伝統です。これは、ニルバーナ(涅槃)すなわち四聖諦の3番目の真理を強調します。涅槃とは何であるかをより深く説いています。ここでは、私たちの無明をすべて取り除くことができる可能性について説いています。心から無明(無知)を完全に取り除くことができた時に到達する境地、それが涅槃でありモクシャです。さらなる説明として、それが説かれます。
つまり、パーリの伝統の上に、サンスクリットの伝統があるのです。
1階はパーリの伝統、2階に般若経やアビダルマなどといった智慧についての教え、六波羅蜜、十波羅密といった教えがあります。そして、その上に、仏教の金剛乗すなわち観想やデイティー(瞑想の神々)があります。ヴィパサナ(観)やシャマタ(止)、菩提心の修行の上に、これらが来るのです。1階、2階なしに、これらを築くことはできません。仏教徒の兄弟姉妹は、そのことを良く理解するべきです。
もちろん、私はなんの権威もありません。私自身、仏教の学生に過ぎません。だから、時間のある時は、私はいつも勉強しています。読んで読んで読んでばかりいます。
チベット仏教について言えば、300巻の経典がインドの言語---パーリ語、サンスクリット語、一部はネパール語からチベット語に翻訳されました。私は、少しでも時間があればそれら300巻の経典を読み、考え、勉強しています。ですから、これら300巻の経典に触ったこともない人に比べれば、私の知識は多少は優れていると思います。こうした経典の勉強をした結果として、わたしは、この三つの修行が大変に重要で欠かすことができないと、心から確信しています。
我々仏教徒は、テラバーダ(小乗)、マハヤナ(大乗)、タントラヤナ(金剛乗)のいずれも、仏陀の誠実な信者(仏陀を誠実に追い従う者)であるべきだと思います。
単に、袈裟を着るだけではだめです。人形に袈裟を着せて、これは良い僧侶だとか悪い僧侶だとか言えないでしょう?袈裟を着るだけなら、そんなの簡単です!心を変えなくていけません!真に仏陀の信者(仏陀に従う者)になるために、真に仏教の僧侶となるためには、修行をしなくてはなりません。真剣に、自分を律しなくてはなりません。
時として、「仏陀が一生懸命働いてくださるから、私たちは贅沢をしよう」なんて態度を見かけますが、どうしてそんなことができましょうか!仏教徒であるならば、仏陀に追い従わなくてはなりません。 仏陀ご自身が6年にわたって大変な修行をなさったのです。私たちも従わなくてはなりません。
昨日、話に出ましたが、過去において、パーリの伝統とサンスクリットの伝統の間には、率直に言って、溝というか壁がありました。この壁は、誰の利益にもなりません。私たちは、一緒になって、交流するべきです。私たちは、あなた方の伝統から、あなた方の波羅提木叉から学ぶことがたくさんあります。あなた方も、私たちのサンスクリットの波羅提木叉から学ぶことがあるはずです。ですから、定期的な会合、単なるセレモニーではなく、真剣な会合、真剣な議論を交わす機会を持つべきです。
さて、最後に比丘尼の話です。
(ここでダライラマ法王、今度は舞台上のジェツン・マに向かって。注:ジェツン・マは、西洋人で初めてチベット尼僧になり、洞窟での修行や高度な学問試験のパスなどを経て聖なる女性ジェツンマの称号で呼ばれるようになった女性)
あなたの後半生のすべては、あなたの夢、比丘尼、比丘尼、比丘尼とばかり考えていましたね。はははは。(会場 笑)
あなたもご存じのとおり、私は、最初の最初から、いつも変わらず、比丘尼をサポートしたいと願っていました。比丘尼の復活を願っていました。(注:現在、釈尊から続く比丘尼の血脈、すなわち完全な戒律を授かった女性の系譜は、地上から途絶えてしまっている。)
しかし、私たちは、戒律の経典に従わなくてはなりません。たとえば、私が独裁者のような権力があるならば、「こうしろ」といってやることはできますが、そうはいきません。私たちは戒律の経典に従わなくてはなりません。○○○経典や、ダルマクンダ経典、テラバーダ経典に従わなくてはなりません。これは非常に重要な問題ですから、真剣に話し合わなくてはなりません。そうした決定は、私の力の及ばないことです。私に決められるのは、すべてのチベット尼僧院に大僧院と同じレベルの教育を提供することです。そして、すでに女性のゲシェ(博士)すなわちゲシェマも誕生しています。比丘尼については、引き続き話し合いを重ねなくてはなりません。今回も、あなたの手紙を、ラオスやビルマの仏教リーダーにお見せしました。私たちは、真剣な話し合いを続けます。きっと、何らかの合意に至ることができると思います。
以上
試訳/鈴木樹代子
引用元↓
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