徒然に・・・「死を想う」
最近、ちょっと自分の死について考えていたので、書いてみたくなった。
還暦も数年後に迎えるし、まあそろそろそういうことを考えてもよい歳だということなんだろう。
ところで、死を考えるといっても、まだ本当の意味で、切迫感はない。切迫感が無いからこそ、自分の死をある意味、自由に、そして楽しげに考えられるのかもしれない。そりゃもう目の前に死が迫っていると、自分の死を優雅に語ることなどきっと出来なくなって、必死でもがいているか、余裕が無くなっておたおたしているに違いないだろうから…。まだ死が少し遠くて、でも他人ごとではないくらいの身近さがある、今のうちに考えるのも悪くはないだろう。
私には家族もいるし、支えてくれる友人も多い…と思っている。でも、もし身体が衰えたら、たくさんの人に迷惑をかけることになるのはやはりいやだと思う。衰えて情けない姿を晒したくはない。
昨年、母が10ヶ月入院して、結局一度も退院させてやれずに亡くなったが、衰えていく母を見ながら、ほんとに辛いだろうなあと痛感した。亡くなる3ヶ月前ぐらいには、見舞いにいくと母が意識をもうろうとさせながら、「おかあちゃーん」ってうなされている姿を何度も見た。いずれ私も行く道…なのだろうが、それでも母はよく耐えて、最後は私や回りの人たちにお礼ばかりを言っていた。
私は母のようにはなれそうにない。また、妻や子どもに世話になるのも、なんだか辛い。かといって知らない人にお世話になるのも寂しいような…。突然死が理想といえば理想だが、どういう突然死がいいのかは皆目見当がつかない。たくさんの人に迷惑をかけるようなことも出来たら避けたい。
死について、友人が断食死がいいといっていたが、それも悪くないと思う。ただ少しずつ食事の量を減らし、五穀を立ち、断食死に至るというのはそうとうの覚悟と気力がないと無理なような気がする。断食はもう十年以上前から三日断食道場を寺内で開いていて何度もやったが、三日くらいの断食経験ではたぶん断食死は無理だろう。
じゃあ、どんな死に方がいい…って改めて思うが、やはりお任せしかないのかもしれない。以前にどこかで書いたが、大峯奥駈修行中に、死をイメージした経験ある。目を閉じると、頭上から白い大きな光が降りてきて、包み込まれるような気持ちになった。あぁ、こういう感じで死を迎えられたらよいなと思った。
白い高貴な光に包まれるような死に方をするのには生きている間にそれに相応しい生活や人生を送らなければならないと、そのときの体験で感じたが、そんな死に方は自らの毎日を顧みると出来そうにない。やはりみんなに迷惑をかけまくって、のたうち回るのが関の山なのかもしれない。
結局、あるがままに生きてあるがままに死ぬことになるのだろう。どんな死に方をしようと、それが自分らしい死に方なんだろう。できれば無様な姿を晒そうと、人にお世話になろうと、最後は高貴な光に包まれて死のそのときを迎えたいものだけど。
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