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しばらく吉野を留守にします。
自坊林南院の秋季大祭に専心するためです。父の代にはじまった秋のお祭ですが、先代の世話方やお弟子さんもほとんど高齢でいなくなり、お札書きからなにから自分で準備をしないことには間に合いません。
総本山はどんな大きな行事でも、当日だけいれば、みんながなんとかしてくれますが、自坊はそういうわけにはいきません。なにせ私しかぼんさんがいませんからね。
息子も学園祭で手伝えないといわれているくらいです。
で、今日から綾部に帰山します。
大祭は11月3日午前10時半から。
午後からは採灯大護摩供と火渡り式も行います。お時間があるかたは是非。
近代とは自我の増大だって、どこかで学者が書いているのをみたような気がする。確かにそうだよね。
ありあまる情報、欲求を駆り立てる高度な物質文明、立ち止まることを許さない管理社会・・・それでもなお懲りない自分を抱きしめている。
気づいていても、なかなかそう簡単には手放せない現実が、近代社会そのものなのかもしれない。
僕たちはどこへ行こうとしているのだろう。いや、ボクは今どこに立っているのだろう。
自我ばかりを増大させられてきて、結局、自分自身を見失う。
神亡き時代の自我は、悪魔でしかない。
・・・・ってまあ、書けば、たいそうな話になるのだが、本当のところは、ちょっと今の自分自身を持てあましているだけ。
「私と、チベットを支援する会」
~チベット問題を通じて中国を考える
私は青蔵鉄道(青海チベット鉄道)が開通する10日前に当たる2006年6月に、盟友の宗教学者正木晃氏らに同行してチベット国ラサ市のポタラ宮にいた。
ご存じのとおり、ラサ市の西の端に位置するポタラ宮は歴代ダライ・ラマ法王の元居城である。チベット国の古建築を代表する宮殿式建築群は、どこまでも高く、青く澄んだ空を背にして、思い描いたとおり、ラサの市内を睥睨してそびえ立っていた。
「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意味で、観音菩薩とは、その化身たるダライ・ラマのこと。チベット仏教独特の転生活仏の信仰である。13階建ての巨大な宮殿は政治施設の白宮と宗教施設の紅宮に分かれ、紅宮が白宮に支えられるように、中央部分の8階以上の高層を占めている。
ところで、その宮殿の主であるべきダライ・ラマ14世は、1959年に起きた、中国のチベット併合ともいえる侵攻政策による弾圧を避けインドに亡命され、以後、インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立して、国の外からチベットの独立運動を展開されているのはつとに知られるところ。ただ、漢人たちのチベット流入を含め、中国政府が行っているこの国への介入を思うとき、主たるダライ・ラマ法王が法王として、二度とこの地にお戻りになることはないだろうなあと…漫然と思ったのであった。
しかしそれ以上に、ラサ、シガチェ、ギャンツェとラサ以降一週間にわたり、チベット国内を回ってひしひしと感じたのは、こうして、国を亡くした民族の悲哀というか、悲惨さ、惨めさを目の当たりにしたことだった。この思いは強烈なものだった。
2008年、チベットでの独立暴動事件をきっかけに、熊本県玉名市の真言律宗誕生寺川原英照和尚が義憤に駆られ、チベット問題を僧侶として真剣に取り組むべく「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」を立ち上げられたとき、私もいち早くその仲間に入れていただくことになったが、それはすべて、2006年のチベットで感じた危機感からであった。
チベットの問題は多くの日本人も知るところであろう。しかし、所詮よその国のことだと多くの人は思っている。いわば他人事なのである。でもこれは大きな誤りである。そう私が断言出来るのは、2006年のチベットを知っているからである。
青蔵鉄道開設以降、きっとそれまで飛行機便しかなかった漢人のチベット流入は爆裂的に進んでいることだろう。だって青蔵鉄道開設以前のチベットでさえ、商店といい、宿泊所といい、観光地といい、主立った町の施設はほとんど漢人が占め、本来の主であるべきチベット人は片隅に追いやられるか、漢人にあごで使われるかの体であったのだ。町に掛かる看板は全て漢字表記が大きく書かれ、チベット語は書かれていてもその三分の一ほどの大きさであった。なぜ自分たちの国なのにこんな肩身の狭い思いで暮らしているのか。それは全て中国共産党の侵攻による災いなのである。人民の君主であるダライ・ラマ法王さえ、亡命しなければいけなかったチベット国…。こんな悲しいことがあろうかと、心底思った。青蔵鉄道が開通し、ものの2年もしないうちに争乱が起こったが、それは当然のことだと言える。
一昨年、台湾から日本国籍に移られた金美齢師と対談をした(「たかじんのそこまで言って委員会HPで対談は配信中)。そのときに金さんも、台湾人はなぜチベットの争乱を自分たちのこととして受け取れないのかと言っておられたが、私も同様に日本人にそういいたい。中国という国はそういう国なのである。金さんがいうとおり、台湾はその危機感が欠落していたから、金さんいわく「今や中国に飲み込まれる寸前である」のだ。だから彼女は長らく日本国籍を修得せずに台湾独立運動に関わってきたが、中国人にだけはなりたくないから、平成21年9月に日本国籍に入ることとなったのだという。
チベットの問題は決して他人の国の話ではない、我が国の、間近に迫った切迫した民族存亡の大問題である。尖閣諸島の問題もいよいよ危ういし、その延長線上には沖縄さえ脅かされている。中国の中華思想に、今、日本はチベット同様の危機にさらされているのである。
修験道は明治新政府に一時、弾圧解体された宗教であるが、焼身自殺までしてチベットの現状を訴え続ける仏教者の姿は、明治期の修験の姿と思い重なって、とうてい他人事とは思えないのである。
*本稿は平成23年1月の「スーパーサンガ(宗派を越えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶と在家の会会報)第3号」に寄稿した原稿を加筆訂正して転載をしました。
なお、スーパーサンガの詳しい活動や入会案内は下記の公式サイトを参照ください。
スーパーサンガ公式サイト http://www.supersamgha.jp/
若いとき、自分の気持ちをうまく人に伝えられなくて、悶々としたり、衝突したり、凹んだり、哀しくなったり、未熟な自分を抱きしめて、眠られない夜が続いた。
だからといって、もう壮年といわれる歳をむかえても、なんだか、あまり成長していない自分がいるね。さっき、メールを書きながら、言葉のむなしさに突き当たって、そんなことを思っていた。
それは私だけではなく、大方の人が、そういうふうに思っているのかも知れない。
ただ、そういう自分に向き合うことさえ、面倒になる衰えを自覚することが、大人ということなのかもしれない。大人というか、老人・・・かな。
老人というにはまだまだ早いし、自分自身はそんなことは全く思っていないのだが、いろんなことに執着できなくなる衰えは感じる。
それでも、たぶん私は同じ年代の人から見れば、そうとうしつこくて、執着がましい人生を生きているに違いないのだが・・・。私の周りで起こるいろんなことで、周りがいかに振り回されているか、私も知らないわけじゃない、です。
今夜も、深い夜です。
私は、酔った勢いで、たまに電話魔になるときはあるが、基本、電話は苦手である。
その代わり、文章を書くのは好きで、下手ながら、こまめに書く。書くことはさほどいとわないのである。
先日も新幹線の中で、ぼんやりとしていたら、急に書きたくなったので、駄文を書いてみた。「血」である。
よろしければご笑覧ください。
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「血」
父は頭の良い人だった。頭の回転が速かった。その分、鋭すぎるところがあった。
母は馬鹿ではなかったが、どちらかというと、ちまちましたことが嫌いで、おおらかな人だった。幼い頃から苦労をしたわりに、自分勝手なところはあったが、度量の大きい人だったように思う。
私は父ほど頭の回転は速くないし、母ほど度量があるわけではないが、ほどほどに二人の血を受け継いでいるように思う。
父はケチで、そういうところは私の方が受け継いで、弟は母の気前のよさを受け継いでいるが、全体を見ると、最近は弟の方が父に似てきて、私の方が母に似て来ているような気がする。
たぶん、弟は弟で、気前の良さはみとめるにしても、私と反対のことを思っているかも知れない。
いづれにしても、「血」というのは嘘をつかないと、父と母を亡くしてみて、時間が過ぎゆくほどに、つくづくそう思う。
父は私の歳で、新寺の建立を発願して、成し遂げた。ちょうど寺建立の寄進活動の最中にオイルショックがあり、大変苦労したようだ。そういう意味では父も母も一生涯、お金に縁のない人生を送った。その辺は遺伝ではないはずだが、裕福な弟とちがって、私だけ貧乏性を受け継いでしまったようだ。
とはいえ、父も母も上々の人生を送ったのではないかと思う。
ほかのことは似ていなくても、そういう人生を受け継ぐことが出来たら、なによりの幸せなのだろう。
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追伸 写真は私の血を引く息子の小さいとき。ちょっと自分に似ていると思うね。
22日、東京国際フォーラムの吉田拓郎コンサートに行ってきた。
1階11列58番。いい席をいただいた。知人に感謝。
さてコンサートである。
幕は6時半に開いた。
登場してすぐ、鼻歌交じりではじまったのがエマニュエル夫人のテーマソング。
3年ぶりのコンサート・・・。吉田さんも彼なりに照れているのだろう。
そしてオープニング曲は「ロンリーストリートキャフェ」。
最初からそんなに力込めて歌うなよ!って、観客みんなが思ったはず・・・ぐらいの、力唱だった。
続いて、なんといきなりの「落陽」。全員、総立ちである。
は、早すぎるやん!ってみんなも、きっと思いつつ、そのサービス精神はちょー嬉しい。
続いて「こうき心」「僕の道」。トークも絶好調である。「田中!」って観客席に呼びかけられたのはこのあたりのトークだったろうか(ちがったかも…)。田中さんの私はドキっとした。まあ田中さんは、あの中には10人くらいは居たろうけど。
そして、名曲「白夜」。いやー、病み上がりで昔のような歌唱力はないにしても、吉田さんならではのシャウトフルな歌は感動である。うっすらと涙したのは私だけではないかも・・・。
「家へ帰ろう」「ウィンブルドンの夢」
この2曲、たぶん吉田さん自身が好きなんだろうね。みんなは絶対にほかの歌を聴きたがっているんだろうけど。
「Voice」・・・この歌。ボクは初めて聞いた。なかなかいいね。
「白いレースの日傘」「虹の魚」「冬が来た」
この辺は中だるみというか、吉田さん自身が中休みをしてるって感じ。ほかに名曲がいっぱいあるのにぃ。会場にもそんな空気が流れている。
「慕情」。・・・ボクはこれを今回はどうしても聞きたかった。いいなあ。吉田さんはほんとにいいなあ。この歳になってもこんな歌が作れて、歌えるんだから。やっぱ、最高ー!
「歩こうね」・・・この曲だったら、同じアルバムの「フキの歌」を歌ってよ!
「花の店」・・・これもこの曲の入ったアルバムなら、「春よこい!」だよ。
「お伽草子」・・・かわゆいころのタクローちゃんの歌。
「流星」。出た!って感じ。やはり自分の娘を思う吉田さんの気持ちはせつなくて、なんか哀しい。でもボクは「慕情」同様に、ラブソングとして、せつなくせつなく聞いていた。
「全部抱きしめて(メンバー紹介)」・・・いよいよ終わりが近づくって感じかな。
「春だったね」。定番です。
「僕たちはそうやって生きてきた」。この歌もしらなかった。持ってないアルバムからの選曲だけど、この歌は???
本ステージ最後の曲が「純情」。
阿久悠作詞、加藤和彦とのデュエットソング。ほとんど誰も知らない曲だろうなあ。ボクは以前買った阿久悠作詞全集のCDに入っていたので、知っていた。でもこの曲がラスト?? ちょっと納得がいかない空気のまま、アンコールへ。
安井かずみではじまり、加藤和彦で終わったっていうことになにかメッセージがあったのかなあ。
5分くらいのアンコールの手拍子のあと、再び吉田さんがステージに登場。
そしてエレキアレンジの「リンゴ」。うわぁ、懐かしい。学生時代、下宿先の部屋でなんども聞いたことを思い出す。もちろんアコースティックバージョンの方がいいに決まっているが、これもありです。
で、ラストのラストが「外は白い雪の夜」。みんなが聞きたがっている歌の一つだ。
やっぱりいいね。
ボクも随分昔の女の子のことを思い出していた。
吉田さんの歌に出てくる女の子はどうしていつも、いつも少し哀しくて、とっても魅力的なんだろう。
そんな想いに包まれて、再生・吉田拓郎ステージは幕を下ろした。
約2時間10分の、夢のような、そしてドラマのような、東京の夜は終わった。
ボクは大きな満足に包まれて、東京フォーラムを後にしていた。
また来れるといいけど・・・。
吉田さん、元気でいて下さい。
あなたは私達の青春そのものですから。
○セトリを再度。
ロンリーストリートキャフェ
落陽
こうき心
僕の道
白夜
家へ帰ろう
ウィンブルドンの夢
Voice
白いレースの日傘
虹の魚
冬が来た
慕情
歩こうね
花の店
お伽草子
流星
全部抱きしめて(メンバー紹介)
春だったね
僕たちはそうやって生きてきた
純情
~アンコール~
リンゴ
外は白い雪の夜
先週末の19日。文筆家白洲信哉さんと能舞台での、トークショーをさせていただいた。
大阪山本能楽堂の夜である。
いきなり、「マイクがないので、地声でお願いします」と言われ、
どぎまぎしたが、なんとか無事に終えられた。
ライブのトークショーは過去に色んな場所でなんどかやらせていただいた。
奈良国立博物館の西山厚先生とは奈良市内にある居酒屋さんの開店10周年記念で、なんと店内のカウンターで話した。
映画監督の河瀨直美さんとはなら町センターのホールや、三重県立図書館で二度、ご一緒した。
3人、4人のフォーラムトークと違って、2人のトークセッションは休んでいる暇がない。
1人でやる講演会だと、あらかじめしゃべることは自分で作って話すから、どこでどうなって、最後どう終わるか決まっているが、トークショーはそういうわけにもいかない。話の流れは大体決めてあっても、どう変わってしまうか、やってみるまでわからないことばかりなのだから。っていうか、全部、脚本で決めてあるようなトークショーはつまらない。どうなるかわからないから、その緊張感とライブ感が楽しいのだ。それは見ている人にもそうだろうし、話し手の心の動きもじかに伝わるから、出演者も聴衆も楽しいのだと思う。
白洲さんとは今年4月の新宿朝カル教室講座以来、2度目となる。4月の時は終わった段階で、邪な想いも含めもうすべて尽きた感じがした。しかし、それからいろいろあって、再度やらせていただくことになったが、また、あのときとは違う想いも生まれ、結果的には前回以上の出来だったように思う。
まあ本当のところの判断は出演した私ではなく、参加いただいたみなさんが決めていただくことだとは思うが・・・。
今回の発見のひとつは、山伏の修行と能と、日本人の感性の根っこが一緒であるという白洲さんの提言。つまり自然観、世界観、宗教観が同心円状に広がっている、そこに私自身がしっかりと気づいた。神も仏も山も木も、人の営みもまたおのずからあるがままにあるのだということ・・・。能舞台での出来事だっただけに、まるで翁の神霊が降りてきたような、自覚だった。
あのひとときだけで、私には能舞台でのトークショーの意味を得たと思えた。
お能のことなど、全くの門外漢だが、そこに伝承されている日本人の心は、共感できた夜だった。
ちなみに、白洲正子さんがお能をはじめたのが5歳のとき。そして私が父に連れられて大峯山に登ったのが同じ5歳。そこの符合は舞台で初めて知って話題が弾んだが、そういう話の流れが冒頭から繋がって、1時間半はあっという間に、話終えることが出来た。
白洲さんをはじめ、ご縁をいただいたみなさん、深謝です。
この間から、心臓ばくばくで、腰や胸も痛く、体調が悪い。
そんな私だが、今日、突然、心停止をした・・・。もちろん私の心臓ではない。まだ買ったばかりのスマホが突然心停止したのだ。
ボタンを押してもうんともすんとも言わない。電源が入らないだけではなく、充電も出来ない。困った。
仕方がないので、auショップに駆け込んで代替え器を貸してもらった。半月は戻ってこないとのこと。データも消えますと言われた。
うーーーん。まるで私の心臓の、身代わりのようにして、突然、スマホが死んじゃったのだ。
私も身を労ろう。
今日、午後からおやすみをいただいて、「踊る大捜査線、ザ・ファイナル」を見てきました。
この間から、テレビシリーズの再放送をみて、結構填っていたので、楽しく見れました。最後、あのバスだけは???でしたが・・。
すみれさん的にはああでもしないと帰って来れないから、まあ、最終回だし、許そうと思いました。
先々週放送された「踊る」再放送の最終回だけ見ずに、映画の後みようと残しておいて正解でしたね。映画見終わって、それから、テレビシリーズの最後をみて、なんとかく、自分の中でファイナルを納得しました。二度美味しい、ラストでした。
さらば青島!。
・・・・私は、小柄で気の強い負けず嫌いなすみれさんが好きでした。
気がつけば秋・・・。
春、夏・・・思うようにならない人生をまた改めて思い知った私には、この秋の色合いは少し哀しいけれど、その分、人に優しくなれそうな気がして、肌寒い夕暮れに、心を秋の黄昏色に染めている。
問題ばかりを抱える人生より、より多くの人のために、なにを出来るか、そう考えることもあってもよいのだと思う。・・・でも、つい、自分にあまえたくなる秋であり、そんな自分を突き放したくなる秋である。
もちろん、他人が思う以上に内実は猥雑な私だが、その猥雑さの中にこそ、人生の真理をみていたいと思って生きてきた。そう、そういう生き様が性分に合っている。
それでも、齢を経ること57年。そろそろ気づきなさい!といわれているようにも思う。
今年は娘や息子たちにもいろんなことがあり、それぞれがそれなりに乗り越えようと頑張った姿を見た。
母の一周忌も終えた。
そんないろいろなことが重なり合いながら、今年も秋の訪れを感じる、ちょっとセンチなこの頃である。
「我が儘をさせていただきました」
10月8日は、金峯山寺仏舎利殿で、親戚、子ども、母の知友の人などを遠く吉野にお呼び立てをして、母の一周忌を営ませていただいた。ことあるごとに、ずーーと、吉野に来たがっていた母の思いを、最後、納骨前にどうしても叶えたくて、私の我が儘を通させていただいた。
「父母恩重経」も読ませていただいた。参拝者に、母の供養にと、恩重経を配ることも出来た。
翌日は実家綾部に戻り、近親者で、納骨法要を営んだ。
ようやく、墓におさまった母の骨。
みなさんのお蔭で、なんとか、子どものつとめを果たさせていただけた。
かえって多くの人に迷惑をかけることになった。全て、私の我が儘であった。
でも我が儘を通せて、有り難かった。
母への想いを綴った過去の文章を、一周忌当日の挨拶文につけて、参拝のみなさんに改めて披露した。これも私の我が儘である。
それは、なにも出来ずに見送った母への、私の懺悔でもある。
母が私をずっと待っていたこと、そして自分の側にいて欲しいと思っていたことはわかっていた。・・・わかっていても出来なかったから、やっぱり亡くしてみて、心残りは尽きなかった。
今回、我が儘を通させてもらう中で、母への想いを形に出来て、ようやく、私自身が納得を得られたような気がする。
以下、以前にブログにアップしている(当日配った)文章ですが、よろしければ、葬儀、満中陰、百ヶ日・・・それぞれの時に綴った母へのレクイエムです・・・読んで下さい。
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「子から母へ、その想い・・・葬儀、満中陰、百か日」 …母妙佳法尼に捧ぐ
□通夜ご挨拶 「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて、喜びに来る」
本日は母のためにお忙しい中ご参列を賜り、厚く御礼を申し上げます。通夜法話の席ですが、お導師さまにお許しをいただいて、挨拶と合わせて、母を偲ぶお話しをさせていただきたいと思います。
母は大正15年7月に奈良市京終(きょうばて)の地に生まれました。生家はすでにありませんが、平城京が営まれた時代、その都の一番端の土地という意味で京終といったそうです。今は市内に位置します。20代の後半に父得詮大僧正との縁を得て、ここ綾部の地に移り住まわせていただき、約60年になりました。
母はいろいろ苦労をした人生でした。いろいろお世話をかけた人生でした。いろいろみなさんに助けていただいた人生でした。そしてみごとに今生を生ききりました。
私は母の幼い頃のこと、そして若い頃のことは詳しく知りません。実際には、父と一緒になり、私が生まれてからの母しか知らないのですが、満85年の人生を顧みると、最後は苦労のしがいのある、幸せな人生だったように思います。
得詮大僧正の座右の銘に「喜べば、喜びごとが喜んで、喜び集めて、喜びに来る」という言葉があります。父と母とは決して仲むつまじいというような夫婦ではなかったのですが、「喜び集めて、喜びに来る…」というようなところが共通していたから、喧嘩しながらも、添い遂げることが出来たのではないかと思っています。
母はここ2.3年体調を悪くし、入退院を繰り返しました。今年1月に緊急入院して、一時は危篤となりました。そのとき、あんなに行きたがった吉野にも、元気になって行こうと誘っても「もう…よい」と言いました。何かして欲しいことがあるかって聞いても、「にいちゃんには十分してもらったから、もうよい…」と言いました。そんなふうに心が定まっている母に対し、あの頃の私は泣いてばかりいました。そして9ヶ月、母の長い闘病生活は続き、私にもようやく覚悟らしいものが出来てきていました。
亡くなる前日の12日の夜、ずいぶん弱った母を見て、「家のことも寺のことも、後のことは何も心配はいらないから…死んだ先のこともご本尊に安心してお任せすればよいから」と言い聞かせてやることが出来ました。言い聞かせすぎたのか、翌日朝、母は今生を終えたのでした。死に目には会えませんでしたが、遺体となって再会した母はキラキラと光に包まれていて、とても清らかに見えました。
辛い闘病生活だったと思いますが、最後はたくさんの人に見送られ、賑わいが好きだった母らしく「喜びごとを喜んで」っていうに相応しい人生だったように思います。
母に対し、今まで頂戴したご交情に心より御礼を申し上げるとともに、残りました私どもに、母と変わらぬご交情をいただくことをお願いし、ご挨拶と致します。
□満中陰 「回転焼きと母」
10月に母が亡くなり、もう満中陰を迎えます。本当に早いものです。
母は今年1月に危篤になり、医者からも余命一週間と宣告されましたが、その後、入院治療加療のおかげで、一時期は車イスに乗って病院の食堂で食事が出来るくらいまで回復しました。闘病生活9ヶ月。その間は、今まで、あまり母のことに気をかけなかった息子にとって、母を病室に見舞うことで、親孝行のまねごとをさせてもらった貴重な時間でした。
少し元気になった頃、何が食べたいってきくと、「回転焼き、買ってきてんか」と言いました。それから、病院に行くときは、病院近くにあるカドヤさんという回転焼き屋さんで、回転焼きを買って持参するようになりました。あまりたくさんは食べられないので、毎回、一個だけを注文しましたが、いつ行っても、カドヤさんは面倒がらずに、快く、一個の回転焼きを売っていただきました。母が美味しそうに食べていたことが今でも思い出されます。
お葬式の朝、ふと、回転焼きのことを思い出しました。棺にいれてあげようと思い、カドヤさんに寄りました。普段は一個しか頼まなかったのですが、その日は母が好きだった三つの味の回転焼きを三つ全部注文しましたた。いつも一種類の一個しか頼まないので、いぶかしく思われたのか、「今日は三つなのですね?」とお店の方に声をかけられました。「はい‥、母が好きだったので、いつも買わせていただいていました。その母が亡くなり、今日はお葬式なので、いっぱい食べさせてやろうと思って‥」というと、「お金はいらんから」と言われて、温かい三つの回転焼きを渡していただきました。その優しさに、思わず涙が出ました。
母のことばかりを思ってはいられませんが、でも、カドヤさんの前を通るたびに、美味しそうに回転焼きをほおばっていた母の顔が思い出されて、心がちくり、とします。母の思い出が嬉しくなる、カドヤさんの親切に今でも感謝です。
□百か日 「父母恩重経」
昨日は母の百か日。早いものです・・・。
ささやかに、身内だけで、お勤めをしました。
父の時は唱えませんでしたが、母には読んでやりたいと思って、昨日の法要では「父母恩重経」を弟や息子たち、そして家内や弟子数人で唱えました。
このお経は父母の恩徳について、きつい言葉で説かれていますが、その大半が母の恩についてであります。
少し紹介すると・・・
「一切の善男子(ぜんなんし)・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。その故は、人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり。父にあらされば生まれず、母にあらざれば育たず。これをもって、気を父の胤(たね)に受け、形を母の胎(たい)に託す。」
「この因縁(いんねん)をもってのゆえに、悲母の子を思うこと、世間に比(たぐ)いあることなく、その恩、未形(みぎょう)におよべり。はじめ胎(たい)に受けしより、十月(とつき)を経るの間、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)、ともにもろもろの苦悩を受く。苦悩休(や)むときなきがゆえに、常に好める飲食(おんじき)・衣服を得るも、愛欲の念を生ぜず、ただ一心に安く産まんことを思う。」
「月満ち、日足りて、生産(しょうさん)のときいたれば、業風(ごうふう)吹きて、これを促(うなが)し、骨節(ほねふし)ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、その苦しみ耐えがたし。父も身心戦(おのの)き恐れて、母と子とを憂念(ゆうねん)し、諸親眷属(しょしんけんぞく)みな悉(ことごと)く苦悩す。すでに生まれて、草上(そうじょう)に墜(お)つれば、父母の喜び限りなきこと、なお貧女(ひんにょ)の如意珠(にょいじゅ)を得たるがごとし。その子、声を発すれば母も初めて、この世に生まれいでたるが如し。」
「それよりこのかた、母の懐(ふところ)を寝床(ねどこ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳(ちち)を食物となし、母の情(なさけ)を性名(いのち)となす。飢えたるとき、食を求むるに、母にあらざれば喰らわず。渇(かわ)けるとき、飲み物を求めるに、母にあらざれば喰らわず、渇けるとき、着物を加えるに、母にあらざれば着ず。暑きとき、衣(きもの)を脱(と)るに、母にあらざれば脱(ぬ)がず。母、飢えにあたるときも、含めるを吐(は)きて、子に喰らわしめ、母、寒さに苦しむときも、着たるを脱ぎて、子に被(かぶ)らす。」
「母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。その揺籃(ゆりかご)を離れるにおよべば、十指(じゅつし)の爪の中に、子の不浄を食らう。計るに人々、母の乳を飲むこと、一百八十解(こく)となす。父母の恩重きこと、天のきわまりなき如し・・・・・・・」
なにか、お釈迦さまに不徳の我が身を責められるような、心に痛い経文内容ですが、母への感謝を込めて読ませていただきました。母への供養の一助になればと念じます。
親の恩は本当に有り難いものです。
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子は親を選んで生まれてくるという。親が選ぶのではない。私もまた、父と母を選んで今生の生を受けたのだと思う。なおさら、感謝である。
「今日の一言シリーズ」がネタ切れ気味の私。で、近頃の私の、マイブームはFBやツイッターで、気が向いた夜にアップする「おやすみギャラリー」。・・・もう半年近くになります。
一番受けるのが、有名人編。今まで、中田英寿氏や渥美清さん、秋吉久美子さんなどとのツーショット写真を披露してきました。一番受けたのがキティちゃんとの写真でした。まだまだ未公開の有名人ネタはあります。
でも、今夜のおやすみギャラリーはちょっと渋く7年前の週刊朝日「夫婦の情景シリーズ」から。
懐かしい私達夫婦の写真入りです。このときのあかちゃんだった三男は、もう8歳。小学校2年生・・・今日からかけ算を習ったとか。
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以下、当時の全文を転載します。以前、HP上の過去ログに貼ってあったのがなぜか読めなくなっていますので、文章のみ掲載しました。
↓↓↓↓↓↓↓↓
田中利典(49)
たなか・りてん
金峯山修験本宗宗務総長、総本山金峯山寺執行長
田中周子(39)
たなか・ちかこ
幾重にも重なる山々にこだまする法螺貝の音が、山伏の季節が到来したことを告げている。紀伊半島の霊峰大峯山脈を尾根づたいに行く「大峯奥駈道」は、吉野山に始まる。山伏である夫は、この修行の道を世界文化遺産に登録させた仕掛け人だった。霊域と世俗を行き来する夫と、彼を支える妻に会いに、修験道の聖地・吉野山を訪ねた。
春くれて 人ちりぬめり 吉野山||西行法師がそう詠んだように、奈良の吉野山は観桜の季節が終わり、ひっそりと静まりかえっていた。新緑の山々に、ウグイスの鳴き声が一際大きく響く。遠くから法螺貝の音が近づき、国宝の蔵王堂を擁する修験本宗の総本山・金峯山寺の境内に、山伏の隊列が入ってきた。
妻「私は吉野で生まれ育ちました。4月は花見客で混雑しますが、それが終わると、今度は鈴の音が聞こえてくる。大峯山の山開きは5月から9月です。山伏の姿を見かけると、夏が来たなと……。まさか、自分が山伏と結婚するとは思いもしませんでした」
妻と1歳になったばかりの三男宏宜くんが見守るなかで、護摩焚きが始まった。山伏たちの読経と太鼓の音が徐々にボルテージを上げ、竜が天に昇るように白い煙がうねりながら上昇していく。護摩木の組み方に秘訣があるのか。それとも、加持祈祷が天に通じているのか。
◆奥駈病
夫「お坊さんになっていろんな儀式をしましたけれど、外でやる護摩ほどダイナミックな宗教儀礼はありません。お堂のなかでどんな立派なお経を読んでもよく見えないでしょ。護摩はみんなが四方から取り囲むなかで煙が上がる」
妻「檜葉のパチパチという音がいいですよね」
吉野山から熊野本宮大社(和歌山県本宮町)まで続く修行の道・大峯奥駈道は昨年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。夫は登録活動の先頭に立った。毎夏、自ら山伏の衣装をまとい、紀伊半島を背骨のように貫く霊峰大峯山脈を尾根づたいに170キロにわたって七泊八日で歩く奥駈修行をしている。聖地中の聖地である大峯山山上ケ岳(標高一七一九メートル)は今なお、女人禁制が守られている。
妻「朝2時、3時から12時間以上、山道をずっと歩くんですよね。雨が降っても汗をかいても、毎日洗えるわけでもない。干しても生乾きの状態で、臭いし、汚いし、しんどいのにね」
夫「山伏は、山に入ってこそ山伏です。奥駈修行をすると、一度死んで生まれ変わると言われている。大峯山には何もありません。非日常の世界です。都会生活で自分自身を失った人たちが山でヘロヘロになって修行し、自分をリセットして蘇生して帰っていく。二度と行きたくないほど疲れるんですけど、二度と来るかと怒って帰った人ほど、またやって来る」
妻「それを主人たちは『奥駈病』と呼んでいるんですよ。女の私には全然分からない」
夫「現代社会で人々は自分を失っています。会社にも地域にも家族にもどこにも帰属していないでしょ。日本人は、神も仏も人間も自然の営みのなかにあり、自然そのものであるという信仰を持ってきました。自然のなかに入ってヘロヘロになることで、自分は自然の一部であると再認識できるんです」
妻「年末に宏宜を連れて山登りに行ったんですが、主人は『山に行くと血が騒ぐ』と言って、宏宜をだっこしているのにすぐ姿が見えなくなるんですよ。夫婦で山登りしているのに、『体が覚えている』と言ってホイホイ先に行ってしまう」
京都・綾部に生まれた夫が奥駈修行に初めて参加したのは5歳のとき。山伏の父親に連れていかれた。
◆女人禁制
夫「在家でありながら修行するのが山伏の本分。親父は国鉄に勤めながら修行していました。綾部はもともと行者信仰が厚いところで。昔はもっと厳格で、家族のものも精進していました。親父は、着々と私がこの道を歩むようにしていったのだと思います」
妻「私も行きたいなと思いますよ。ひざも悪いし、若いうちに行きたいなという気持ちはあります。小学校の林間学校でも、大峯山に登ったのは男子だけでした。女も入らせてくださいと毎年訴えにこられる人の意見も同姓としてわかる。女人禁制を守っている人たちの意見もわかる」
夫「女人禁制によって大峯山の非日常性、聖地性が高められてきたのは間違いありません。ただし、女人禁制自体は信仰ではない。大切なのは、今の時代に禁制を堅持することが、大峯山の信仰を守っていくのに大事かどうかです。これは、信仰にかかわっている宗教者たちが問い直すべき問題だと思います。ジェンダーフリーの人たちが、人権問題として開けろと主張する問題ではありません。そんなことをしたら先人たちに申し訳ない」
妻「家でも議論したこともありますが、私が『開けたら』といって、主人が『開けるわ』という問題でもないんです」
夫は大学卒業後、金峯山寺に勤めた。吉野山にある東南院の宿坊でアルバイトしていた妻と出会ったとき、妻は高校生だった。
夫「かわいらしいなと思って……」
妻「お坊さんの格好していたら、だれも彼も同じに見えますやん。違いは、眼鏡をかけているか、いないかだけ(笑い)。部屋を準備していたときに主人に文句をつけられたことがあって。30歳を超えて結婚してはるんやないかと思ってました。私は専門学校を卒業したあと、金峯山寺の事務をするようになって」
夫「ぼくが一生懸命口説きました」
妻「最初は断ったんですよ。私は軽井沢の教会でウエディングドレスを着て、馬車に乗って結婚するのが夢でした。そしたら、『前代未聞だけど、東南院でウエディングドレスを着させてあげるから』と言われて」
夫「ウエディングドレス買いましてん(笑い)。東南院で赤い毛氈を引いたのは、私たちの結婚式が初めてでした」
ほどなく、夫妻は吉野を離れ、夫の父が建てた綾部の寺に移った。夫は93年夏、護摩堂に120日間こもって護摩を焚き続ける修行「一千座護摩供」に挑んだ。夏場は堂内温度が60度を超える。金峯山寺関係寺院では戦後初の苦行だった。
◆五穀断ち
夫「普段は坊さんかどうかわからんような生活なんで、日常を離れ、大きく期間を定めて修行したいという気持ちが時折、私のなかで生まれるんです」
妻「朝2時に起きて、1日9回護摩焚きをするんですよ。おばあちゃんと私は5時に起きて、精進料理を作りました。寝食も別で、夫婦の会話は『おはよう、こんにちは、おやすみ』くらい。主人はいつもイライラしていて、『余計なことはわずらわしいので聞かすな』『気が散るから子供も外で遊ばすな』と言って。いちばん上のお姉ちゃんはまだ幼稚園で、パパさんを怖がっていたんですよ」
夫「髭がすごく伸びていて……。家族に負担をかけました。最後は五穀(米、麦、大豆、小豆、胡麻)断ちをしたんであまり手はかからなかったと思うけど」
妻「いや、そのほうが大変ですよ。おそば屋さんにそば粉をわけてもらって、それを練ったものをお湯のなかに落として。野菜は苦いですから、主人に内緒で塩もみして、何回も水でさらって、塩気がないようにして渡しました」
夫「五穀と塩を断つと、体が浮くような気がしました。体重が79キロから64キロに落ちて、飛ぶんと違うかなと思った(笑い)。でも、実は修行で得たものはあまりないんです。むしろ修行しても何にもならないとわかったことに意味がありました」
妻「……。あんなに苦労した4カ月間なのに、何も得たものがなかったの」
夫「髭をしばらくそのままにしておこうと思ったんですが、お世話になった和尚から『行で得たものは捨てなさい』と言われ、さっぱり剃りました。そういうのを残しておくと、いつまでも『俺は行をやり遂げたんだ』と肩に力が入ってしまうんです。得たものははなかったけど、捨てたことは良かった」
苦行を終え、夫は総本山の仕事に駆り出されることが多くなった。
妻「金峯山寺から月に1週間でも10日でもいいからと言われるようになって。私は最初、『1週間か10日だけやで』と言っていたのに、いつの間にか半月になって、今はほとんどこっち」
夫「単身赴任13年目になりました。実はうちのお袋も奈良出身なんです。うちは奈良にはえらいご縁があって。弟は吉野山の東南院に養子に入りました。奈良の人が綾部を守り、綾部の者が吉野にいる」
昨年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され、金峯山寺の参拝者は数倍に増えた。夫は「修験道ルネサンス」を提唱し、秘仏とされてきた金剛蔵王権現像の特別開帳にも踏み切った(今年6月末まで)。
◆神と仏と
夫「99年末に日光の社寺が世界遺産登録されました。山岳信仰ではうちが本家やないか、日光は分家やないか、という気持ちがあったんです。吉野町の役人に聞くと、『和歌山が動いている。和歌山だけ先に認められるとうちは認められん』と。それで奈良県に働きかけて、和歌山、奈良、三重の三県あげての活動に発展しました」
妻「中国の蘇州であったユネスコの会議でみんなが真剣に話し合っているのを見て、すごいなと思って」
夫「明治維新で日本人の精神文化だった神仏習合は壊されました。日本人はお宮参りをしたり、仏前でお葬式をしたり、クリスマスを祝ったりしているのに、みんな自分は無宗教と思っている。でも、そんなことはない。日本には雑多で多神教的な世界観があるんです。1300年の歴史を持つ修験道は、神と仏が融合した日本独自の信仰です。今の世界はひとつの価値観でくくろうとするから、キリスト教やイスラム教の『文明の衝突』が起きる。日本人は今こそ、その多様性を自信をもって世界に発信していけるはずです」
妻「世界遺産になったから終わりではなくて、それをこの先どう守っていくかだと思うんです。確かに観光客は増えましたが、さっきまで拝んでいた人がタバコをポイ捨てする姿も見かけました。いろんな人が来る中でどう守っていくか。それが主人の仕事かなと思います」
昨年はもうひとつおめでたいことがあった。4人目の子、宏宜くんの誕生だ。
妻「昔は綾部に帰れば家のパパさんでした。でも、パソコンや携帯ができてからは家でもパソコンの前に座ってばかり。寂しいですよお。体は家にあっても、心はパソコンによって本山に引き戻されている」
夫「……」
妻「上の子供たちが思春期になって会話がなくなっていたんです。子供がもうひとりできれば心は満たされるかなと思って。宏宜を授かり子供たちが優しくなった。家族がひとつの部屋でいることも増えました。パパさんもその場にいてほしいんですよ。主人はよく金峯山寺を何とかしよう、日本や世界を何とかしようと言います。『田中家の平和が世界の平和に通じると違うん?』と言っても、『僕はそんな小さな人間ではない』と言うし」
夫「田中家を一生懸命する人は、日本や世界のことを心配せん。日本や世界のことを心配すると、田中家のことは二の次になる」
妻「日本や世界を何とかしようと思っている人は何人もいると思いますよ。でもね、田中家を何とかするのはあんただけやねんと言うと、笑ってごまかすだけ」
夫「安心しとき。世界遺産の次、今は何もしたいと思ってないから。ま、日本を何とかしたいとは思っているけど」
~週刊朝日 2005-06-17(朝日新聞社) から
昨夜は素晴らしい古澤巌さんのバイオリンコンサートでした。
読売新聞に記事が紹介されています。
私の挨拶の一部も載っていますが、以下、全文を紹介します。
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こんばんわ。
みなさま、本日はようこそ吉野山金峯山寺本堂、蔵王堂に御来山いただきました。
今宵、読売新聞社をはじめ吉野山保勝会など「吉野のさくらを守る会」関係各位のご尽力により、ご本尊秘仏金剛蔵王権現様のご宝前にて、古沢巌さんのバイオリン奉納コンサートを開催させて頂けることを大変嬉しく思っております。
また蔵王権現様のご神木である吉野桜の保護保全の活動にお力添えいただくことを改めて御礼申し上げます。
さて、バイオリンと蔵王権現さまというといささかミスマッチのような響きがありますが、世の東西を問わず、歌舞音曲は、神々やみ仏たちが降り立ち遊化する場であります。今宵もきっと、古沢さんの(とぎすまされた)素晴らしいバイオリンの演奏は、蔵王権現様を供養し、賛美するに相応しい幽玄の場にしていただけるものと確信をしております。ご開帳された蔵王権現様とともに、聖なるひとときを過ごさせていただきたいと思います。
(私は人の言うことを素直に聞く性分でして、今日の挨拶は3分までと会から申し渡されております…)大変簡単ではございますが、金峯山寺を代表してのご挨拶といたします。
ありがとうございました。
*******************
追伸
()の部分は3分間に収めるために省きました。まあ笑いを取るような雰囲気ではなく、張り詰めた空気でしたから…。
でもあとから考えると、緊張の緩和があった方がやっぱり私らしくてよかったかなあと思いました。
今日は午後6時から蔵王堂で「守ろう!吉野の桜」バイオリンコンサート”LIVE UNDER THE TREE・古澤巌/金峯山寺奉納公演”があります。
詳細はここ http://www.osaka-event.com/event/pdf/0907.pdf
当日券も午後4時半から蔵王堂前の御供所で承ります。
是非おいで下さい。
私も参加します。(もちろん演奏はしません!)
再告知!・・・関西元気文化圏講座「不安な時代を生きるヒント」
******白洲信哉vs田中利典トークセッション*****
「山に分け入る人々が絶え間ない修験道と青い蔵王堂秘仏蔵王権現さま、山伏、山岳修練、祈り、そして、生きていく力について、金峯山寺執行長 田中利典氏にたっぷりとお話しいただきます。また日本の本来の美しさ尊さを、心眼で本質を見極める類まれな才能を持つ白洲信哉氏。神仏習合や写真、骨董、美意識、自然と調和、そして白洲正子氏の想いや日本の神、能楽や文化について文筆家白洲信哉氏にじっくりと語っていただきます。」
・場所: 国登録有形文化財 山本能楽堂(大阪市中央区徳井町1-3-6)
・日程: 2012年10月19日(金)
・時間: 開場18:30開始19:00~終了21:00
・参加費用: 5,000円
・申し込み詳細は以下 → http://www2.ocn.ne.jp/~cerulean/301.html
先日、天命について書いたが、少し誤解された方があるようなので、書き足したいと思う。
私は天命は誰にでもあると思っている。・・・というか、天からの使命などというような大仰なものではなく、この世に生を受けて、さまざまな縁をいただいて、人は生涯を生きるのであるが、その家に生を受け、どの親の元に育ち、誰と出会い、誰と繋がるかということが、その人の人生そのものになる。
私もまたそうで、50数年の人生を経て、今までの自分を省みると、、行き着くところに行き着くべき形で歩んできたと、つくづく思うのである。
もちろんあやうい時代、あやうい時間を生きたこともたくさんあった・・・っていうほど波瀾万丈ではないが、まあ人並みに波風は経験したと思う・・・が、それにしても、過去の自分を振り返ると、そこに天命を感じてしまうのである。
ありがたいことだと、先日も、奈良東大寺の大仏様の蓮台の上で、般若心経をお唱えしながら、思ったのであった。
天命!・・・だからって、粋がっているのではなく、しみじみと、つくづくと、心にしみて、そう感じたのである。
にもかかわらず、中途半端にしか、生きられない自分がまた、愛おしいとも思うのだ。
それもまた天命といえば天命なのかも知れない。
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