« 紅葉の吉野山 | トップページ | 世界糖尿病デー「蔵王堂ブルーライトアップ」 »

嵐山…吉野と京都

Arashiyama02

昨年秋に、京都嵐山で開催された第13回斎宮セミナーでの講演録の抜粋です。講演をご依頼いただいた斎宮である野々宮神社の宮司さんがまとめていただきました。

案外知られていない、本家吉野山の嵐山と京都嵐山の関係。よろしければご笑覧ください。ちなみに写真は吉野山の嵐山です。

*****************

「吉野と嵐山 ~蔵王権現、桜、後醍醐天皇」   金峯山寺 田中利典

この講演会の始まる前に、雨の中を、嵐山の蔵王権現堂にお参りしてきました。一般の方の入山はできないそうで、地元の方にご案内をいただきました。お参りしながら、今日は嵐山の蔵王権現様に呼ばれてきたような思いがして、深いご縁を感じました。

聖地吉野には古来さまざまな方が訪れておられます。神武天皇東征の際には熊野から吉野を通り大和に入られる。壬申の乱では大海人皇子は吉野で挙兵され、天武天皇になられる。皆さんご存知のように斎王の制度が確立したのはこの天武天皇からです。奥さんの持統天皇は天皇に即位後、実に三十一回も吉野に行幸しておられます。この頃の吉野の中心部は吉野山ではなく、麓の宮滝のあたりで、吉野離宮が営まれていました。

吉野山上が中心になるのは修験道の開祖役行者が金峯山寺を開山されて以降になります。平成二十七年は空海が高野山を開いて千二百年を迎えますが、空海も一番最初は、吉野から道を辿って高野山の地に入っています。

開山後は天皇や上皇、あるいは高位高官、各宗諸大徳、庶民に至るまでさかんに吉野・金峯山へ参詣をされ、蔵王権現への信仰が隆盛を迎えます。藤原道長の「御嶽詣」は有名ですし、吉野山へは西行法師、太閤豊臣秀吉や俳聖芭蕉も参詣しています。

開祖役行者ですが、世に伝説上の人物と扱われた時代もありますが、実在の人物です。『続日本紀』六九九年、文武天皇の時代の記録に「役君小角伊豆島ニ流サル。初メ小角葛木山ニ住シ呪術ヲ以テ外ニ称サル、従五位下韓国連廣足初メ師ト為ス、後ニ其ノ能ヲ害シ、讒スルニ妖惑ヲ以テス、故ニ遠処ニ配ス、世ノ相伝ニ言ク、小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用イザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス」とあります。

その役行者が感得した蔵王権現は、大峯山上で一千日の修行をした行者の前に、行者の祈念に応えて、最初は釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が優しいお姿で現れたのですが、罪業の深い人々を悔い改めさせ悪魔を降伏させるには優しすぎるので、役行者がさらに祈ると、岩を割ってご本尊が湧出されました。釈迦・観音・弥勒三体が変化して、厳しい権現の姿で現れたのです。権現の「権」は仮という意味です。仏が仮に神の姿で現れたので「権現」と言います。今風にいえばアバターでしょうか。釈迦如来は過去、千手観音は現在、弥勒菩薩は未来を救済する仏様で、三世救済が蔵王権現の御誓願となっています。仏様が本来の姿で、仮に神の姿で現れたという権現信仰は日本各地に展開します。ご当地の愛宕山に祀られる愛宕権現もそうですね。

役行者は蔵王権現のお姿を山桜の木に刻んで大峯山上と吉野山にお祀りされ、その由来によって、山桜は蔵王権現のご神木となりました。「一枝を切る者は一肢を切る」と言われるほどに大切にされ、また吉野を訪れる人が蔵王権現への信仰の証に桜を献木したことで、吉野山は日本一の桜の名所になりました。

その吉野の桜を、嵐山に移植されたのが後嵯峨上皇です。
「五代帝王記」には「院は西郊亀山の麓に御所を立て亀山殿と名付、常にわたらせ給ふ。大井河 嵐の山に向ひて桟敷を造て、向の山には吉野山の桜を移し植られたり。自然の風流、求めさるに眼を養ふ。まことに昔より名をえたる勝地と見たり」とあります。また、亀山の仙洞(亀山殿)に吉野山の桜をあまた移し植ゑ侍りしが花の咲けるをみて 「春ことに 思ひやられし 三吉野の 花はけふこそ 宿に咲けれ」~(『続古今和歌集』第二 後嵯峨上皇御製)とも出ています。
あの有名な能楽「嵐山」は後嵯峨上皇・亀山上皇の時代の話がモチーフになっており、吉野の神である「子守」「勝手」の神と蔵王権現が登場します。

後嵯峨上皇は、桜だけではなく蔵王権現を勧請し、地名も移しました。吉野の下千本駐車場あたりの山の名前を「嵐山」といいます。また隣接する「ほおづき尾」という地名が嵐山の保津峡となったようです。本家より分家の方が有名ですが、そういうことはよくあることで、山形の蔵王も吉野の蔵王堂が本家です。私も実はつい最近まで知らなかったのですが、嵐山には今も蔵王堂が祀られ「嵐山もみじ祭」という行事が蔵王権現に感謝して行われているのだそうですね。

斎王制度の最後の天皇が後醍醐天皇です。その後醍醐天皇が吉野朝=南朝を開かれたのは一三三六年。帝は金峯山寺西側の本坊実城寺(後の金輪寺)を皇居とされました。これより前には、護良親王が吉野山で挙兵して蔵王堂に立て籠もり、鎌倉幕府軍と対決しています。その後醍醐天皇が亡くなられ、帝を弔うために建立されたのが天龍寺ですが、その建立の地はもと後嵯峨帝の仙洞亀山殿があった所です。後醍醐は後嵯峨上皇の曾孫…まさに、吉野と嵐山の深いえにしを感じます。

明治維新の時には上知令や修験廃止令で大打撃をうけます。神仏和合を旨とする修験道は日本の風土に根ざしたものですが、その風土を明治政府は解体したのです。人間というのはどこかに帰属してしか生きられません。その帰属する風土と精神性を明治以降この国は損ない続けますが、その象徴が修験道の廃止だったように思います。そして明治以来の近代社会がこのところ疲弊をした感があります。そのひずみがこのたびの東日本大震災での原発事故、放射能汚染、そして円高日本などを生んでいるのではないでしょうか。

私は土地、風土、歴史を大切にしようという試みのもとに「NPO紀伊半島の美しい森づくり協議会」(注:平成24年8月に理事長辞任)などの活動もしておりますが、ご当地でも山や川の問題に真剣に取り組んでおられると聞いております。吉野や嵐山の歴史風土を学び、その学びの上でこの地を守るというということは「美しい日本」を守ることに繋がると思っています。皆様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。

« 紅葉の吉野山 | トップページ | 世界糖尿病デー「蔵王堂ブルーライトアップ」 »

講演」カテゴリの記事

コメント

金剛蔵王権現というと、一般には何か架空の佛さまみたいに思われているようです。釈迦如来と観世音菩薩、弥勒菩薩の化身であらせられるとなるともっと親近感を持ってもらえるのではないでしょうかヽ(´▽`)/

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 紅葉の吉野山 | トップページ | 世界糖尿病デー「蔵王堂ブルーライトアップ」 »

本・著作

最近のトラックバック

Twitter

  • Follow me
  • Twitter
    TwitterPowered by 119
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ