山人の自薦書籍⑮:『祈りの道-吉野・熊野・高野の名宝』
シリーズ「山人の自薦書籍⑮」・・・いろんなお陰様で、私は自著以外でもたくさんの関連書籍を出していただいています。
今日は第15弾。
図録『祈りの道-吉野・熊野・高野の名宝』大阪市立美術館編:2004年発行
http://www.yasuda-shoten.jp/product/3074
これは世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録記念展として、私が大阪市美とNHKを口説いて企画した展覧会。実は大阪市美さんとは、1999年の役行者1300年大遠忌記念特別展「役行者展」でも、企画して、開催した実績があったので、このときも世界遺産登録運動を起こしてすぐに相談をしました。でも実際に登録されるかどうかわからない4年前の段階で、やろうといってくれた大阪市美、NHK事業部、毎日新聞事業部のみなさんに感謝です。大阪市美・名古屋博物館・世田谷美術館と巡回し、合計で33万人が拝観されました。
私が最初に発案したということもあって、図録の解説文「世界遺産としての、吉野大峯の魅力と文化財」を担当して執筆させていただきました。けっこう、渾身の一文です。
資金もないのに大展覧会を二つもやらせていただいたことに感謝です。
ちなみに、来年には世界遺産登録10周年記念展「山の神仏」を同じく大阪市美と毎日新聞大阪事業部、それから毎日放送さんと、紀伊山地三霊場会議が共催で開催することも決定しています。開催時期は平成26年4月8日~6月1日まで。ただし大阪市美単館での開催で巡回はしません。
当然ながら、Amazonには該当の図録はありませんでした。
追記
解説文として書いた「世界遺産としての吉野大峯の魅力と文化財」の拙文の冒頭を転記する。ご参照下さい。
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はじめに
古代より神仙境として憧れられた神秘の聖地吉野。そしてその吉野から熊野にかけて、紀伊半島の中心を背骨のように貫いて存在する大峯山脈…。修験道の開祖役行者によって開かれた修験根本道場が吉野・大峯であり、ここを中心に、日本独特の民族宗教・修験道は1300年の歴史と文化を刻み、その信仰を脈々と現代に伝えてきた。
平成16年7月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は日本で12番目の世界遺産として『紀伊山地の霊場と参詣道』を正式に世界遺産リストに登載した。『紀伊山地の霊場と参詣道』のうち、吉野・大峯は修験道の根本霊場であるとともに、国宝・金峯山寺蔵王堂や大峯山寺本堂などの重要文化財を有する『紀伊山地の霊場と参詣道』の中心的コアの一つである。
本稿では、修験道という我が国独特の宗教文化を育んだ吉野山、そして吉野から熊野へと連なる大峯奥駈道が、どのような世界遺産としての意義と魅力を持つものなのかを考察し、最後にこの吉野・大峯の地に関わる主要な文化財を紹介して、世界遺産吉野・大峯の概観を略述する。
吉野、大峯と修験道
吉野山について…。実は吉野山とは山の名でなく、地名であり、正確には吉野川を六田「柳の渡し」で渡った尾根の始まりから桜の名所として知られる下千本、中千本、上千本などを経て、奥千本、青根ヶ峰に至る凡そ8㎞に及ぶ尾根状一帯の総称である。吉野の名はすでに『古事記』、『日本書紀』に記述され、また大海人皇子(天武天皇)による壬申の乱の吉野挙兵や持統天皇の三十数度にわたる吉野行幸など古代から歴史の表舞台に登場し、『万葉集』にも数多く歌われるなど神さぶる聖地として知られている。しかし吉野の歴史を決定づけるのは修験道との関わりの中にこそあると筆者は思っている。
修験道とは、日本古来の山岳信仰に、神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが習合して成立した山岳宗教で、簡単に言うと山伏の宗教である。大自然の山中に分け入り、心身を鍛練し、聖なる力、超自然的な神仏の力(験力)を得る者が山伏であり、験を得た者であるから、別に修験者とも呼ばれる。理屈ではなく、自分の五体を通して、実際の感覚を体得する極めて実践的な宗教が修験道なのである。
開祖は役行者神変大菩薩。役行者は正史の上では飛鳥時代後期(634?~701?)に葛城山麓に住した山林修行者としか記されないが、空を飛んだとか鬼神を使役したとか、極めて超人的な伝説を残している。金峯山寺の寺伝によると、役行者は熊野から吉野に分け入り大峯修行道(奥駈道)を開かれるとともに、吉野山から約24キロ南に下った金峯山山上ヶ岳において一千日の参籠苦行を行い、修験道独自の本尊金剛蔵王権現を祈り出し、山上ヶ岳の山上本堂と、その麓に当たる吉野山・山下本堂(吉野山蔵王堂)に、蔵王権現を祀ったと伝える。蔵王権現感得が金峯山寺の濫觴であり、以来吉野・大峯は修験道発祥の根本道場として、空海や聖宝など多くの修行者を集め、中世期、山上と山下に本堂を持つ金峯山寺は寺域に百数十の塔頭寺院を有するなど、山岳信仰の一大拠点として隆盛を極めた。
吉野山の歴史は平安中期の宇多上皇や藤原道長に代表される御嶽詣の流行、鎌倉期の源義経吉野潜行、「歌書よりも軍書に哀し吉野山」と詠まれた南北朝時代の吉野朝廷など様々な史跡と歴史に彩られるが、その根底には常にこの蔵王権現信仰と金峯山寺一山を中心とする吉野修験の一大勢力の存在があったことを見逃すわけにはいかない。とりわけ役行者が蔵王権現を感得した際、そのお姿を山桜の木に刻んだという縁起から、吉野山では山桜を権現のご神木として尊び、信仰者による献木が長年に亘って続いたと伝承し、吉野山は日本一の桜の名所となったことはつとに有名である。その吉野の桜を慕って遠路を厭わず詣でた人々は太閤秀吉の花見をはじめ、枚挙に暇はない。また桜と吉野を語るとき、吉野を愛し3年の侘び住まいした西行法師を忘れてはならないが、その西行を慕った俳聖芭蕉ら多くの文人墨客が行き交うなど、文学的景観も数々有する地へとなっていった。
さて、次に大峯である。大峯とは狭義には現代もなお女人禁制を堅持することで知られる金峯山山上ヶ岳一帯を今日的に大峯山と呼ぶが、本来は吉野山を北端に、更に南は熊野本宮に至るまでの間、山上ヶ岳、弥山、八経ヶ岳、釈迦岳、行仙岳、笠捨山、地蔵岳、大黒岳など仏縁に繋がる山名を冠した、1500メートル級の山々が続く大峯山脈全体を信仰的に尊称して大峯山と呼び習わした。吉野から熊野に連なる大峯奥駈道は、この大峯山脈を尾根づたいに約170キロ跋渉する道であり、修験道における最も由緒深い修行道である。今回の世界遺産登録はスペインのサンティアゴ巡礼の道に続く世界で2つ目の「道」の遺産であると喧伝されているが、「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された3つの参詣道のうち、現代もなお生きた信仰の道として使われているのはこの大峯修行道のみであることを明記したい。奥駈道は遺産ではなく、今も生き続けている動産なのである・・・・・
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若い頃はともかく情熱的に文章を書いていたなあと思います。今はもう書けない。。(>_<)
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