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「佐世保事件を憂う」

「佐世保事件を憂う」

佐世保で16才の高校生が同級生を自宅マンションで殺害し、首や手を切り落とすという悲惨な事件が起きました。本当に痛ましい限りです。
実は私は10年前、やはり佐世保で小学生が起こした同級生殺害事件のあと、母子健康保健協会の全国大会(平成17年10月27日、奈良県立文化会館)で「修験道に学ぶ子育てのありよう」という表題の基調講演を行いました。
いま、改めてそれを読み返してみて、あのときの憂いはちっともおさまっていないどころか、更に深まっているというのが、今回の事件での正直な感想です。

少々長いですが、講演の後半部分を添付します。
よろしければ読んで下さい。

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「文化伝承の崩壊」
文化伝承の破壊を行うと、実はものすごいまずいことが起こります。今まさに、起こりつつあるいうお話であります。
昨年、佐世保で小学校6年生の子どもが同級生をカッターで切り殺す事件がございました。私はあれを聞いたときに、本当に何とも言えない気持ちになりました。そしてそれ以上に、これからこのような形で子どもたちの中で何か壊れていったものが現象として表れてくるのではないかということを痛切に思ったのであります。私の友人で、正木晃さんという宗教学者がおいでになります。この正木晃さんが「昭和10年代に生まれた人の子どもの子どもの世代から、大脳病理学的に病んでいる子どもが出来てきている」と、このようにおっしゃっています。
これを言うたびに、私は私の奥さんに怒られています。うちの奥さんは、お父さんとお母さんが昭和10年と昭和14年生まれなのです。ですから、その昭和10年代の生まれた人の子どもがうちの奥さんで、その奥さんが生んだ子どもが…つまり私の子どもですが…まさに私の子どもの世代から大脳病理学的に病んでいる子どもが生まれているということなのです(だから奥さんに怒られるのです)。
何かと言いますと、昭和10年代というのは、真っ黒に塗りつぶされた教科書で勉強した世代であります。敗戦によってそれまでの価値観が崩壊した時代です。それは、別の意味で言うなら文化伝承が途切れる世代であります。ただ途切れるけれども、その次の世代はまだおじいちゃんがいたり、おばあちゃんがいたり、文化伝承が続いているのですが、その次の世代となると、もう本当に文化伝承が途切れてしまって不具合が起こる。
なにが不具合かというと、文化伝承が壊れると学びの場をなくすのです。子どもというのは、小さいときに多くのことをたくさんたくさん多くの人の中から、学ばなければいけないそうであります。それが、文化伝承が壊れることによって、親からも、おじいちゃん、おばあちゃんからも、共同体社会の中から教わる機会が失われるから、未熟なまま育っていく…。この話はいろんなところで言ってきたのですが、最近、正木先生から、もうちょっと正確に言うてほしいと注文がきて、メールで詳しくちょうだいいたしましたので、正確に伝えさせていただきます。
読みますと「幼少時期、具体的にいうと、1歳から1歳半くらいの時期に母親から豊かな愛情を受けられないと、大脳の前頭前野の部位が健常に発達しないようです。このちょうど目の奥から額の奥にかけての、この裏側に大脳の前頭前野という場所があるそうです。これがものごとの判断をつかさどるところだそうですが、それが健常に発達しないようです。最近の説では、1歳くらいの赤ちゃんは、母親が2人いると認識しているようなのです。つまり、自分においしいおっぱいを飲ませてくれる優しいお母さんと、言うことをきかないときに叱る厳しいお母さんの2人がいると感じているらしいのです。しかし、その後の半年間くらいに母親から豊かな愛情を注がれていくと、その2人が実は1人の人物なのだという認識にいたり、少し難しい言葉を使うと、[人格の統合]ということが起こる。そして、自分の母親を正しく認識して、そこから、この世には自分と自分以外の者がいるという真理に目覚めるというのです。これを難しく言うと、[他者の認識]といいます。このようなぐあいに、まず、最初に母親を認識し、次に父親を認識し、さらに兄弟・姉妹がいれば、それを認識する。だんだんと地域の人々を認識し、次には、人間の集団である社会というものを正しく認識して、そこに生きるすべを身に付けていくのです。以上は単なる精神論ではありません。繰り返しになりますが、人間の発育にまつわる大脳生理学的な問題です。
ですから、最初の時点で失敗をしてしまうと、エゴしかない人間になりかねません。最初の時点で失敗してしまうことを、[不可逆的]といって、後になって取り戻そうとしても非常に難しいのです。何しろ、人間の発育にかかわる領域ですから。最近のすぐにキレる子どもや若者を見ていると、どうもこの最初の時点がうまくいっていない気がしてなりません。子どもを生んですぐに外に働きに出たり、他人に預けたりして、自分の子どもに十分な愛情を注いでいない母親が増えてしまって、その結果、キレる子どもや若者が急増してしまったのではないか。そのように思えてならないのです。日本の伝統では[三つ子の魂百まで]と申します。これは全く正しい認識です。昔の日本人は豊富な経験の蓄積から三つ子の魂ということを繰り返し伝え実践してきたのです…」。
文化伝承というのは、家庭生活の中、社会生活の中でずっと続けられてきたものであります。ここで正木先生が指摘されているのは、実は母親を取り巻く状況が激烈的に変わってきた。ですから、母親の状況が変わってきているから、当然、その母親が愛情を注ぐべき子どもの状況も変わってきている。で、子どもの発育に問題が出てくる。文化伝承が壊れると、そのようなことが起きてしまう、ということを少し注目していただきたいと思います。

「短調がなくなった」
また、別の分野で興味深いというか少し心配な話を見つけました。これは、昭和57年の毎日新聞に載った投書にまつわることです。その内容を紹介します。若いお母さんが自分の子どもに、自分が習った子守唄を歌ってきかせる。ところが、どうも子どもが子守唄になじまない、拒否をする。そのような投書が毎日新聞に載ったそうであります。編集部は、その投書を何の気なしに載せたのですが、その投書が載ったとたん、その手の投書がどんどん集まってきた。これはおかしいというので、毎日新聞の編集部は、その原因を調べるのですが、どうも原因がよく分からないまま、その投書の件はそれで済んでしまった。ところが翌年、藤原新也という作家がこのような仮説を載せられたそうです。現代の社会、テレビをみていますと、民放からコマーシャルソングがいっぱい流れてまいります。そのコマーシャルソングというのは、全部短調がないのです。4音階の楽しい音楽ばかり。現代社会というのは、どうも短調を排斥していて短調的な音楽がない。ですから、そういう音楽をきいて育った人間は、短調的な情緒に欠けてしまう。つまり、人間の悲しみであるとか愛惜の念であるとか、そういう感性は音楽を通して育てるわけですが、現代はそれがなくなってきた時代ではないか。日本の古い子守唄というのは短調ですから、そのような音楽を聴かせることで、今までの子どもたちは安らかに寝たのに、(先の投書にあったように)今は逆に拒否反応を起こすようなことになってきた。
短調の音楽を育んできたのは宗教音楽であります。賛美歌であるとか、日本の仏讃あるいはお経、祭文、祝詞。これは全部短調に起因する音楽です。このようなものがどんどんなくなっていく。実際、調べてみますと、小学校の教育の場所から島原の子守唄など、短調的な音楽がだんだんなくなってきた。もっというと、0歳児・1歳児・2歳児、胎教の音楽、幼児の情操教育の音楽の中からも、短調的な日本古来からの子守唄はなくなってきた。ブラームスの子守唄とか、モーツアルト子守唄、シューベルトの子守唄。こういうのは、今でも小学校の教科書に載っていますし、胎教音楽に使われています。これは何なのか?。
実は、今まで紹介したことは私が見つけたのではなくて、山折哲雄さんという正木先生の師匠にあたる哲学者がお気づきになって述べられていることでありますが、その山折さんの結論を読んでみますと、「ブラームスとシューベルトの子守唄は胎教用・小学生低学年用におさめられている。ヨーロッパ近代の中産階級の幸福な、豊かな優しい家庭における子どもたちのための子守唄である。それは、わが国の伝統的な子守唄を歌っている封建時代の暗い陰々滅々とした世界とは違います。明治国家は、日本国民の教育のために、まさにヨーロッパの近代を実現するために、封建的な日本の子守歌に歌われていたような、ああいう生活を乗り越えるためにこそ、ブラームスやシューベルトの子守歌を採用したのだ。しかし、そのことによって、日本の封建的な、陰々滅々とした乗り越えるべき、暗い子守、娘たちの経験した世界を否定するあまり、人間の哀悼の根底を歌い上げてきたあのメロディーさえ根こそぎ去られてしまった…」と。どうも(山折さんも指摘されているように)明治の近代化からこっち、このようにして日本はアメリカやヨーロッパの近代的なものばかりをまねて、日本人がもともと持ってきたものを捨て続けてきたのではないでしょうか。

「日本人は無宗教ではない」
 さて、皆さん方は、子どもが生まれると宮参りに行きますよね。お盆とかお彼岸には墓参りに行かれます。お正月には神社・仏閣に参りに行きます。そして結婚式は、大方がキリスト教の教会か、神式でなさいます。ついでにクリスマスにはキリストのお祭りもなさる。で、そのようなことをしながら、死んだら8割~9割方が、お坊さんを呼んで葬式をする。そういうふうに私たちは宗教的なことを年がら年中、生まれてから死ぬまで行いながら、「皆さんの宗教は何ですか」と聞かれると、大部分の人が、「私は無宗教です」「私は無信心です」とおっしゃるでしょう。特定の宗教に一生懸命になっておられる方以外は、普通に聞くと、「私は無宗教です」「私は無信心です」と日本人は言うのです。これはおかしいと思いませんか。本当に無宗教で、本当に無信心なら、宮参りも行かないし、墓参りもしないし、坊さんを呼んで葬式もしないのです。でも、皆さんは、そのような(大変宗教的な)ことをしながら、「私は無宗教です」「私は無信心です」と言うわけであります。なぜ言うのでしょうか。

 実は、宮参りをし、墓参りをする。そんな(神も仏も有り難がる)無節操なことをするのは、一神教の人たちから見ると、無宗教なのです。一神教の人たちから見ると無信心なのです。(先にも申し上げましたように)彼らは、一つの神様、一つのものしか拝まないわけで、あれもこれも全部拝むようなことはしないわけであります。しかし、それは一神教の人たちの勝手であって、何も日本人が同じように「私は無信心です」「私は無宗教です」と言う必要はないのです。私たちは(神も仏も分け隔てなく長い間)そのようにしてきたわけであります。
 もうそろそろ一神教的な価値観から目覚めてもいいときではないでしょうか。文化の伝承が日本を壊しかけています。子守唄さえとりあげられるような現代社会。そのような中で、もう一度自分たちのありようは何なのかを考えてみる必要があるのではないでしょうか。少なくとも、一神教がそんなに素晴らしいというようなことはないわけであります。今、世界中で起こっている戦争の多くは、一神教同士の価値観のぶつかり合いであります。9.11のアメリカの同時多発テロ以来、アフガンやイラクで戦争が起こり続けています。イスラエルでは、もう2000年くらい、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教でもめているわけであります。決して一神教がそんなに素晴らしいものではない。
 ところが、明治以来一神教的な価値観を150年間続けてきて、どうも日本はどっぷりとつかりきってしまった感がございます。先ほど、神仏分離を明治維新に政府が行ったと言いましたけれども、実は庶民の中では、ついこの間まで、神仏習合は続いていました。皆さん方のお家には神棚があって仏壇があったはずであります。村の鎮守の祭りにも行くし、寺のお施餓鬼にも行くし、近くのお地蔵さんの地蔵盆にも行く。そうやって日本人は、ついこの間まで神仏習合をしてきたわけであります。ところが、どうやらここ近年(家制度や村落共同体の崩壊によって)、その神仏分離の政策が現実に有効となってきた。家庭に仏壇も神棚もない家が増えています。宗教的な行事に参加しない家庭がどんどん増えてきています。どうも日本人は宗教をとりあげられて久しいところにきている。

「宗教を取り戻そう」
そのひとつのあらわれが宗教教育の問題です。宗教教育は日本では行われていません。ご存知かどうか知りませんが、義務教育で宗教教育をやっていない先進国は日本だけであります。アメリカもヨーロッパも、義務教育の場で宗教教育は行われており、あのファシズム時代のイタリアやヒトラーがいたドイツでさえ、宗教教育は行われていました。しかし日本は行われてこなかった。それはなぜでしょう。明治に神仏分離をして虚妄の国家神道をつくったというお話をいたしました。国家神道のもとに教育勅語という道徳を強要した。これは、国家神道という宗教というかイデオロギーの強要であります。明治国家はそれによって新しい国づくりをしてまいりました。宗教教育というか、教育勅語による国家神道的な価値観で日本は歩んできたわけでありますが、太平洋戦争に負けて、せっかく作った国家神道は壊されてしまいました。(驚くべきことに戦後のGHQの記録を読んで頂くと解るのですが…)最高司令官マッカーサーは、進駐軍政策の中で日本をキリスト教国にしようとしたそうであります。しかし、ある事情からそれをやめた。その後、(明治以降の道徳教育を解体したまま)日本の宗教教育、日本の精神の形は空洞になったままであります。あらゆるところから宗教も道徳が抜かれてしまった。私は、ある種、明治からこっち、(有史以来、日本人の基層の部分を作り上げてきた宗教に対する)宗教狩りが続いている気がいたします。
ここに『教育ルネサンス』という読売新聞が取り組んでいる特集記事がございます。平成17年10月17日付の朝刊なのですけれども、読売新聞は今年になってから長期型連載という大きな意気込みでやっておられます。記事にはこうあります。「連載は来月には200回を数える。テーマは、英語教育の今、低下が指摘される読解力、フィンランドの教育、教師力、学校の安全、地域の教育力、専門学校の技、一元化が課題の幼稚園と保育園、子どもの食、構造改革特区で出来た学校、夏休みの宿題の変遷、親の教育力、図書館の役割、子どもの体力等々、多岐にわたる…」。ここには、いろいろな分野で教育ルネサンスにかかわることをとりあげていると書かれていますが、なんと宗教教育、宗教情操教育について全然触れられていません。これは(この記事だけではなく)あらゆる分野でそういうことが行われているわけであります。日本の教育を考えたときに宗教が語られることがない。社会のいろいろな問題が出たときに宗教が語られることがございません。これにみるように神・仏をとりあげられてきたこの150年間がこのような事態をつくったのではないでしょうか。(日本人の基層の部分をなした神仏習合や文化伝承を)遠ざけて生きてきたからこそ、今のような日本人が日本人を探すような、そのような時代が来ているのではないかと私は思うものでございます。政教分離をやっている国はどこにもありません。日本が唯一であります。このことは、もうそろそろ考えなおさなければいけないのではないでしょうか。

「日本人は日本人らしくっていい」
私の話の前置きはここまででありまして、ここから本題でございます。
 本題の「修験道に学ぶ子育てのありよう」についてですが、先に、申し上げましたように、近代化以降、二度にわたってわれわれは神・仏を殺してまいりました。神・仏から遠ざけられてきて、日本人の心のよりどころをなくしました。アメリカはキリスト教社会であります。ブッシュ大統領は聖書に手を置いて大統領の宣言をするわけであります。基盤にキリスト教というがっちりとした精神的な支えがあります。宗教文化の支えがある。今、「日本」という題名を打った本は売れるそうであります。日本人が日本人探しをしている。日本人は今どこにいて、どこに行こうとしているのか。自分たちが帰属するものを、どうも欠落させてきた結果のような気がするわけであります。
 先ほど、哲学者梅原猛先生の新聞記事(平成16年5月18日付の朝日新聞に掲載されたエッセー『反時代の密語』という連載第一回「神は二度死んだ」)を紹介しましたけれども、「だからこそ明治以前に戻りましょう」とおっしゃいました。でもそこまでしかおっしゃっていません。では、明治以前の何に戻るのか。実は、明治以前のものって、私たちの周りにもうあまり残っていないのであります。そのような中で、近代化以前、明治以前のものを、少なくとも修験道はかかえてきており、神仏習合という、神仏分離以前のものを真面目にやってきたわけでありますから、修験道的な価値観の中には何か学ぶべきものがたくさんあるのではないかと思うものであります。その一つは神仏習合である。神と仏をともにそばにおいてきた価値観であります。仏壇があり、神棚があり、それが何も違和感がなかった私たちの価値観。よくジャズをやっていた人やロックをやっていた人、あるいはシャンソンをやっていた人が、若いときにそのようなことをやっていても、中年以降になると、日本人は何となく演歌を歌ってしまう。美空ひばりが良くなってしまう。私も美空ひばりはそんなに好きではなかったのですが、最近よくカラオケで彼女の歌を歌うようになりました。だんだん年をとってくると、そういった演歌が、日本人になじんだものとして心地よい。同じように、神様を拝み、仏様を拝むのが日本人にとって心地よかったはずであります。何も一神教のまねをして、それを無信心や無宗教と言う必要はないわけであります。日本人にとって心地よいものが日本人の居所であります。そういうことを考えることは決してそんなに悪いことではないはずです。
それから、自然とのかかわりを考えてください。日本は7割が山であります。都会というのは都市化が進むほど自然を壊していくところがありますが、どうも日本人は自然とのかかわりを忘れることによって、だんだん不具合な社会をつくってきた。自然とのかかわりをもう一度考えてみることが肝要であります。修験道というのは山で修行をいたします。山の中で神をみ、仏を拝んでいく宗教。そのように大自然の中で、神と仏のかかわりを持ってきた日本人のありようというものを、もう一度、私たちが取り戻すべきなのではないでしょうか。
ただ単に山に入ってただ歩くだけではなく(最近では森林浴などといいますけれども)、自分の体を使って神・仏とかかわっていくことが大事。人間は心だけで生きているわけではありません。体を伴って生きている。実践をすることによって、そのようなものを育ててあげる。都会の中でテレビゲームばかりしているのではなくて、実際にこの身を大自然の中へ落とし入れてやって、真っ暗なやみの中で自分を超えたものへの畏怖の心を抱かせる。あるいは大きな風、大きな滝、そのような自然の大きな勢いの中で、人間存在のちっぽけさを体験させてやる。そのようなことが極めて大事なのではないかということを思っています。
私たちは、アメリカ人にはなれません。私たちはアメリカ国籍をとることはできても、アメリカ人にはなれないわけであります。もしかすると、1万年続いたかもしれない縄文時代から、この日本列島で、四季が豊かな中で暮らしてきた私たちは、私たちなりのアイデンティティ、つまりありようを持つべきであって、それが美空ひばりを恋しくなる日本人の心地よさだと思います。この150年間の日本の歩みを見ていますと、私は、思わずマイケル・ジャクソンを思い浮かべてしまいました。彼は黒人ですが、白人になろうと一生懸命化粧をし、整形までしました。結果、可哀相で、不気味な容姿になったように思います。日本人も、日本人であるにもかかわらず、アメリカ人の模倣ばかりをして、どうも本来の日本の在り方を忘れていた。しかしマイケル・ジャクソンは白人になれないわけであります。日本人もアメリカ人にはなれないわけであります。だから日本人のありようを考える中で本来の形を取り戻すことができるのではないでしょうか。
明治以前のものを探すことは本当に難しゅうございますが、修験道が持ってきた自然との深いかかわり、あるいは神・仏をともがらにして拝んでいく。そのような価値観というのは、これから子どもを育てていく中、あるいは親を育てていく中で、今、日本人が欠けている部分であります。
先ほど、日本人は無宗教ではないという話をしましたが、田中さんが言っているのは宗教ではなくて、それは習俗とか習慣でしょうという質問を、あるシンポジウムで受けたことがあります。実は、日本人のそのような宗教的心情を習慣や習俗やと言うこと自体が、宗教とは一神教的なもの、一神教のようなものが宗教であって、それ以外のものは宗教でないという一神教の洗脳を受けているわけであります。もうそろそろ本当に一神教的な価値観からばかりでものを見るのではなく、近代化以降のものだけが優秀で、それ以前のものは古くて悪いものという目をとり払って、日本人が営んできた美しさ、心のありようを見つめ直すべきときがきているのではないかと思います。
実のところ、そういった意味では宗教者側もさぼってまいりました。今、何か問題がありましても、お坊さんに意見を求められることはほとんどありません。脳死臓器の問題でも安楽死の問題でも、ヨーロッパ社会では、牧師さんなり、神父さんなり、宗教家がその決定については大きな発言を求められますけれども、日本ではほとんど求められることがありません。それは、社会全体が宗教狩りを行ってきたというひとつの証拠であるとともに、お坊さんも難しいことを考えなくてええので、そのほうが楽ですから、だまってきたというところもあります。だから坊さんも神主さん自身も大いに考えなければいけません。しかし、社会全体ももうちょっと日本の宗教について考えてみるべきときがきているような気がしています。宗教教育を抜きにして、教育、人間の子育てというのは存在しないのであります。少なくとも、日本以外の国でそのようなことをやっている国はどこにもないというところから、考えるべきときがきているのではないでしょうか。

「修験道に学ぶ子育てのありよう」
 そろそろ今日のお話しをまとめてみたいと思います。
 私は決して子育ての専門家ではありません。最初に申し上げましたように4人の子どももろくに育てたことがない。正直に言いますと私は、未だかつて子どものおしめさえ一度も替えたこともないろくでなしの父親であります。本当に何もしていないという親でございますが、家にいるときはお風呂だけは入れます。お風呂は自分で入れたほうが楽なのであります。風呂から出して服を着せるのは大変でして、1回だけやってえらい目にあってから、お風呂だけは自分で入れるのです。ま、それでも単身赴任中なので月に7日ていどしか家にいませんから、7回しか入れないわけで…。自分の子どもに対してもそうなのですし、ましてこれだけ世の中が激的に変わって来ている中、どうのようにして子どもを育てていけばよいかなどといったことは、実は私の思考をこえたことであり、到底言えることではないのであります。しかし、先ほど申し上げました、日本人が持ってきた深い自然とのかかわりで培ってきた心情、島原の子守唄、五木の子守唄が何となく情緒として残っていくような母と子の関係のようなものを大事にしなければいけないということは思うわけであります。
 それから、修験道は多神教の宗教である。神も仏も一緒に拝んできた。常に神と仏をそばにおいてきた。これは大事なことなのであります。神も仏も遠ざけ、神も仏もないのだというようなことは、決して人間を正しく成長させていく中でよいことではないでしょう。
 日本という国は不思議な国で、もう少し南にあると南方系の文化になっていたそうであります。もうちょっと北にあると北方系の文化になっていた。ちょうど南と北がほどよい位置にあって、南方系の文化・北方系の文化が等しく存在して、いいバランスである。それから、南からも文化が入ってまいります。北からも文化が入ってまいります。中国や朝鮮など大陸からも文化が入ってきます。いろいろな文化がこの日本列島に入ってきて、しかも、日本より先は世界でいちばん大きい太平洋しかありません。行くところがないので、日本でいろいろな文化が集積地となって多様なものが育まれてきた。北方系の文化・南方系の文化、大陸の文化、いろいろな文化が日本の中で混在していて、その一つの象徴として、神も仏も等しく拝むような宗教観、精神文化を生んできたわけであります。
 また日本は四季が豊かであります。四季が豊かであるということは、自然からたくさんの恵みをいただきます。自然に対する崇める心、感謝する心、尊ぶ心がこの日本列島の中で長年にわたって培われてきた。それから、世界中には活火山が800個あるそうですが、その800ある活火山のうち1割の、80個が日本列島の下にあるそうです。こんな大きい地球上の、1割の活火山が狭い日本列島の下にあるわけでありますから、そりゃ、しょっちゅう揺れます。地震の災害がある。でも、温泉がわいて恩恵もある。
 それから台風もどんどんやってまいります。自然の脅威と自然の恩恵というのを二つながら感じてきた日本人の感性。これは決して一神教の人たちに卑下するべきものではなくて、日本人が日本人として誇るべきものなのではないでしょうか。少なくとも日本にあるキリスト教の教会も、イスラムの教会も、テロ攻撃をやりあっているのをみたことがありません。多様な文化をもつ日本だから共存できる。このように日本人は何でも受け入れてきた。神でもよい、仏でもよい、そのようなものをそばにおいてきた。先祖に対する感謝、自然に対する感謝、神・仏に対する感謝の心を常にはぐくんできた。そのような状況の中で文化伝承があったのです。それを明治維新と、大戦敗戦後の2回にわたって断ち切ったところに、実は大きな問題が生じてきたわけですから、そこのところに気がついて、ちょっと違うのではないか、自分たちが捨ててきたものの中にはいいものがたくさんあるのではないかということを、ぜひとも考えていただくようなことになればと願っております。
 母子健康保健協会「健やか親子21」全国大会ということで、皆さん方は、虐待の問題であるとか、少子化の問題であるとか、いろいろ大きな問題をお抱えになってそれぞれの地域で活躍なさっている現状の報告などさまざまな問題が取り扱われたのだと思いますが、たぶん今日私が申し上げた宗教にかかわる部分が、どの活動でも欠落しているのではないかと推測します。私は特定の宗教の宣伝をしているわけでも何でもありません。修験道だけの宣伝をしているわけではなくて、日本人が神・仏とついこの間まで親しんできたことを、急速に捨ててきたことに問題があるのだなということに気がついていただきたいと思うばかりなのであります。
私は、80歳以上の人によくお願いをいたします。80歳以上の人は、自分が子どものときに、自分のお父さん・お母さん、自分のおじいちゃん・おばあちゃんから受け継いできた明治以前、近代化以前の良いものをたくさんその身に与えられて大きくなったはずであります。そのようなものを、もう息子の代には難しいかもしれませんし、手遅れかもしれませんから、孫の代には是非残してやっていただきたい。このまま死んだら国賊ですよと言うのですけれども、本当に明治以前まで続いてきたものをなんでもかんでも意味がなかったとしてきたところには大きい問題があるということ。近代化以降のものがそんなに素晴らしいのかどうか。もう一度、考えていただくきっかけに本日のお話をしていただけれとば願っております。具体的なことを申し上げる力は私にはありませんけれども、少なくともそのような視点を持つことから始めるのが大事なのではないかという気がいたしております。

修験道に学ぶとは、近代化以前の文化伝承の見直しである。文化伝承が廃れると、いろいろなところで不具合が起こります。今、大脳病理学的な問題で、子どもの崩壊ということも申し上げましたが、実は子どもを育てている親の代も崩壊したとしかいいようのない事件がたくさん起こっていますが、それは、やはり神・仏もないような価値観を持たされてきたことに大きな問題があって、もっともっと今まで日本人が神・仏を隔てずにそばにおいてきたことの意義を見出していただければと願う次第であります。

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読み返してみて、本当に世の中はますます悪い方向に行っているとしか思えないような、今回の事件です。

私自身も、やはり、もっともっと、宗教人として、なすべきことがあるのだと、自戒をこめて、思い直しました。

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