「我を捨てる」
「我を捨てる」
奥駈修行は吉野から熊野まで歩きますが、それは単に熊野に行くことが目的ではなくて、吉野から熊野に至る行者道・奥駈道で身心脱落するような経験をしながら歩き、神仏との関係の世界を持つことが大事なのであり、その結果、最後には熊野に至るということなんです。 こうした日本人が古くから自然の中で感じてきた、その豊かさ、そして脅威や怖さ…自然は怖いですからね、晴れていてもちょっとした天候の加減で遭難したり、危険が伴う。
そういうところに身を置いて、自然と直に対峙をし、人間の力を超えた世界に触れ、人間性を取り戻したり、自分の悪いところを清めていただく。そういう行として山を行くのであって、西洋登山のような自然を征服するとか、人間のある種の満足感を達成するために行くとか、そういうものではない。修験道の魅力とは日本人がこれまで持ってきた神仏との関係、信仰的な世界に裏打ちされた山との関わり方だと思うんですよね。
初めて修行に来られた方を「新客」と言うんですね。私たちの修行は、私のように何度も行っている人間も、初めて来た人も同じように一緒に歩く。その時、新客の人に常に「我を捨てましょう」と言います。
都会の生活、日常生活では何でも自分中心に生きている部分があるじゃないですか。けれど山に行くと都会で生活している論理というか、いわゆる自分の都合を山に持ち込むのではなくて、神仏の山の世界の在り方に合わせること、それが修行なんです。自分の自我を持ち込んだままではその世界に入っていけないので「我を捨てましょう」と言うのです。
難しいんですけどね、なかなか捨てられるものではないのですが。でも歩き始めて6時間くらいはみんな元気に歩いていても、8時間も超えてくるとね、「なんでこんなことしてんねん」と愚痴が出る。更に「懺悔懺悔六根清浄」と1時間くらい唱え続けていると、「なんでこんなにしんどいのに声出さなあかんねん」とかいろいろと思うわけです。
それでもそれがさらに、10時間も超えると「まあ言われるようにしよ」、「終わりと言われるまでしよう」とあきらめが出てくる(笑)。却ってすんなりと我を捨てて、我の塊であった自分が消えて、ちょっと素直に、「俺もこんなんでええのかな」とか「重荷がとれたな」とかね、そういうことになるんですね。
その歩く行為の中に、自分を超えたもの、それは神でも仏でもいいのですが、そういうものとお経を唱えながら対峙する時間や相向かう時間があって、それによって自分の我がとれていくような、気づきが生まれるような…そんな儀礼というかシステムが山の修行の中ではまさに1000年もかけて作られてきた、そういう凄さというか、心地よさがあるんだと思います。
ー弘法大師の道特別対談「田中利典×鏑木毅」より
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http://www.okuyamato.pref.nara.jp/kobodaishi/koubou_01.html
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