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「ハレの装置としての山修行」

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「ハレの装置としての山修行」

日本人は古来よりハレとケを行き来して生きていました。ケとは終わらない日常のことをいいます。日常の生活をずっと続けて行くと、だんだん気が衰え弱ってくる。そして、弱ってくると病気になる。それをケガレと日本人は考えました。そこで、気を元に戻す。それを元気というのです。この、元に戻す行為をハレといいます。

つまり、ハレとは非日常であり、日常を離れて聖なるものに触れること。正月、桃の節句、
午の節句、夏や秋のお祭り……。すべて、聖なるものにふれる非日常の行事で、ケによって崩れたバランスを復元する機会なのです。お正月にお屠蘇を飲むのも、端午の節句に菖蒲【ルビ:しょうぶ】湯に浸かるのも、秋に収穫祭をして大いに騒ぎ、ふだんは食べない美味しいものを食べるのも、ハレとしての装置なのです。

しかし、ものが豊かになった現代では、毎日がハレのようなぜいたくな生活になり、ハレをなかなか意識できません。ずっとハレのような生活を続けるのなら、それこそがケになります。そうしたときに、なにがハレの装置になり得るか。そこで山修行なのです。

山に入り、汗をかきかき山歩きすることは非日常であり、日本人にとって山は神仏のおわす聖なる世界にふれることです。ですから、修験道の山の修行というのは、ハレが失われた現代社会の中で、ハレの装置としての機能を果たすことができると私は思っています。しかも、きわめてすぐれた役割を果たせると思います。それに、誰にでもできます。体力の問題はありますが山を歩くというのは、たいへんハードルが低い行為です。

こんな時代だからこそ、修験道の山修行が求められる大きな意味があると言っていいでしょう。

 ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』より
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