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「自然の営み」
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私は毎年50人くらいで山に修行に入っていきます。木を拝み、岩を拝みながら、山修行するのですが、本当に木や岩を拝みます。ある場所では大木が森の真ん中に生えていまして、そこで一心不乱に般若心経をとなえます。森を拝むわけでございます。
そういうことを繰り返し、紀伊半島の深い自然のなかで抱かれて修行をしていると、次々とそれまで持っていた価値観…私は昭和30年生まれで高度経済成長の申し子のような世代でそういった今時の価値観をもっておるわけでございますが…それが山修行によって取れてしまう。...
そして取れてしまって何が残るのか、というと、どうも私たちは一番大事しなければいけないありようを忘れてきて、違うものを大事なものとして勘違いしてきたのではないか、そういう気づきに行き着くわけであります。
文化財保護、文化遺産を守ることにいたしましても、モノを守るのではなく、その文化財を生んだ、先ほど風土というお話がございました、宗教というお話もありましたが…風土も宗教も、あらゆるものが人の営みの上に関係性をもって行われて来たものだと思います。
その人の営みのなかでどう、自然と関わりを位置づけていくか、価値観をどこにおいていくか、それをきちっと見つめていかないと、本当の森づくりであるかとか文化財の保護とかは言えないのではないかと思うのです。
理屈ではなくて体ひとつで歩いて修行したおかげで気づいたことでございます。体ひとつで歩いたときに、我々は単なる地球上にある自然の一部でしかないのだということを思い知らされるわけであります。
人間がどんな営みをしてどんなすごいものを造り出したとしても、それら全部がやはり自然の営みである。その自然がすでに悟っていて、いわば神仏そのものであり、その恩恵のなかでわたしたちは生かされているんだ。文化財を守るという人の営みも、自然の営み、神仏の営みの一部であるということに気づかなくてはならないと私は思います。
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ー森と文化財を守る有識者会議:2004年12月14日 シンポジウム 「文化遺産を未来につなぐ森づくり 2005 ~祈りの場と 心をつなぐ森づくり~」より
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