「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」
「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」
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役行者の教えのなかで、最も大切なもの。それが「実修実験」だ。「修行を実践して、体験を実現する」という意味で、同じことを「修行得験」と表現する場合もある。
こういうと、なんだかとても難しそうに聞こえるが、ようするに、自分自身の身体で体験しなければ、なにもわからないということだ。言い換えれば、いくら頭でわかったつもりでいても、それではダメということだ。あくまで身体をとおして学ぶことが大切なのである。
しかし、だからといって、身体ばかりに頼っていては、やはりまずい。修験道の修行は、運動競技とはちがう。「ファイト! ファイト!」の、いわゆる体育会系の発想では、身体は鍛えられても、心がおろそかになってしまいがちだ。
この点について、役行者は「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」(『役行者本記』)と述べている。「修行を積んで身体を苦しめなさい。もし、その苦しみによって心が乱れないならば、悟りの境地も神通力(超能力)も、ごく自然に身に付く」という意味だ。
きびしいトレーニングによって身体を鍛え上げていくと、人によっては、心が乱れて、獣的になってしまうことがある。アテネ・オリンピックでも、ハンマー投げのアニシュみたいに、禁止されているドーピングまでして金メダルを獲ろうとした連中がけっこういたが、ああいう連中はまさに心が獣化している。
同じようなことは、残念ながら、宗教の世界でもある。とくに修験道のように、きびしい修行を課して身体を鍛え上げなければならないタイプの宗教の場合は、その傾向が強い。そういう点を、役行者は注意しているのだ。
きびしい修行を積んで自分自身の身体を鍛え上げていくことが、自分自身の精神を鍛え上げていくことに直結するように、心掛けなさい。それが役行者の教えといっていい。
もちろん、きびしい修行を積んで自分自身の身体と精神を鍛え上げていくことは、いつの時代でも、辛く苦しいことだ。
ところが、私たちの現代文明は、人間を、とりわけ人間の身体を、辛さや苦しみから解放することをめざしてきた。ひたすら楽に、ひたすら快適に、が現代文明の方向だった。いわゆる文明の利器、つまり自動車も飛行機も電化製品も、インスタント食品も冷凍食品もレトルト食品も、みなそのために開発されたモノばかりだ。その結果、現代人は楽することや快適に過ごすことに慣れきってしまっている。
しかし、楽することや快適に過ごすことの果てに待っていたのは、病んだ身体と心だった。豚みたいに食べて肥満になり、高血圧になり、糖尿病になり、心臓病になる。心を病んで、うつ病になり、人格障害になり、無気力になる。うつろな心を満たすために、ブランド品を買いあさり、お酒に依存し、ドラッグに依存する。お金を儲けるために、自分の身体すら売る。
こういう悪癖にはまりこんでいる現代人にとって、きびしい修行を積んで自分自身の身体と精神を鍛え上げていくことは、これまでのどの時代に生きた人々よりも、辛く苦しい。しかし、現代人がこのどうしようもない悪癖から抜け出し、清浄な身体と心をとりもどすためには、もう一度きびしい修行によって、自分自身の身体を鍛え上げ、自分自身の精神を鍛え上げるしか、もう道はないのではないか。
「きびしい修行によって身体を苦しめて、しかもその苦しみに負けないならば、心は浄められ、解放される」。役行者のこの教えこそ、現代人にとって最高の贈り物といっていい。
ー『はじめての修験道』(2004年春秋社刊)「第四章 修行の世界」より
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