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「自然は既に悟っている」

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「自然は既に悟っている」
修験道の教義で最も大事なことは、「自然は既に悟っている」ことだと思います。難しい教義で申しますと、「本覚(ほんがく)」と「始覚(しがく)」と言うのですが、もともと(自然が)悟っているから、修行することによって始覚山伏が本覚になれる訳です。

すなわち、「大自然は既に悟っているから、そこへ分け入って修行することで、人間も悟ることができる」のです。ですから、本覚になるための修行の場が、先ほど申し上げたような大自然の中です。これこそが、修験道の教義の根本ではないかと思っております。...

縷々申し上げましたが、一神教というのは、イスラム教でも、ユダヤ教でも、キリスト教でも、人の上に超越(絶縁)した存在としての「神」がいます。それに対し、われわれ日本人の感性においては、「自然の中に神も仏もいる」、あるいは「自然そのものが宇宙神である大日如来(天照大神)」であったりする訳です。そして、人の営みもまた、自然の一部なんです。

環境問題を考える時、自然をもの(対象物)として突き放して見ている限りは、本当の意味における環境問題の解決策は生まれてこないと思います。これからは「人の営みも、神も仏も自然の一部であって、自然そのものがすでに大きないのちである」といった視点が必要であり、逆に、これを妨げる存在は何か? というと、それが「近代合理主義」だと思います。

私たちは明治以降、この「近代合理主義」に少し洗脳されてきたのではないでしょうか?

面白いことに、日本人は生まれたら宮参りを、お盆やお彼岸には墓参りを、そしてお正月には初詣をします。結婚式に至っては、八割方がキリスト教式か、神式です。その上、クリスマスにはキリスト生誕のお祝いをし、死んだらおおかたの人がお坊さんを呼んで葬式を出します。そんなことをしているにも関わらず、「あなたは宗教を信じていますか?」と人から尋ねられると「いえ、私は無宗教です」とか、「私は無信心です」と言うでしょう? これはおかしいと思いませんか?本当に無宗教(無信心)の人ならば、そんなことはしません。

では、何故、皆このように答えるのでしょうか? 確かに、一神教を信ずる人たちから見れば、「宮参りをし、クリスマスを祝い、法事をするような」無節操な人々は無信心です。けれども、それは一神教を信じる人々の価値観であって、日本人はずっとそういうことをやってきた訳です。


 ー大阪国際宗教同志会 2005年度総会 国際シンポジウム記念講座「水・森・いのち」より

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