「これを宝物と言わずして、なにを宝物と言うのか」
「これを宝物と言わずして、なにを宝物と言うのか」
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吉野大峯から熊野に至る紀伊山地一帯、吉野大峯・高野・熊野の三霊場こそは、神仏宿る聖地として、日本固有の宗教文化を最も色濃く今日に伝える貴重な文化遺産だ。異なる宗教の共生、自然と人間との共生という二重の意味において、世界遺産の精神ともみごとに重なり合う。
これを宝物と言わずして、なにを宝物と言うのだろうか。この宝物をきちんと守り活かしていくこと。それこそは、真に豊かな日本の国家を築くことにとどまらない。ともに生きるどころか、敵対者はうむを言わせず抹殺する宗教戦争の様相すら見せている世界に対し、共存共生の一つのモデル・ケースを提示することにさえなり得るのだ。
キリスト教やイスラム教のような一神教的な思想にもとづいて、世界全体を一元的な価値観に染め上げ、グローバル化することが、いかなる末路を迎えるか。それは、二〇〇一年九月に起きたアメリカの同時多発テロ事件、それにつづくアフガンやイラク戦争などに明らかだ。
そして、この冷厳な事実に、いまや世界中が気付き始めている。このときに及んで、むしろグローバル化の対極として、吉野大峯・熊野・高野に象徴される山岳霊場がはぐくんできた多神教的な世界観、互いの価値観を認め合う世界観のなかにこそ、諸宗教や諸民族が仲良く共生するための秘訣がある。
こう考えてくると、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産としてもちうる意義も、おのずから明らかになってくる。豊かで寛容な信仰が、古代から現在に至るまで、修行や巡礼のかたちで絶えず実践されているという事実そのものが、全人類を苦悩させ絶望させている環境破壊と宗教対立に満ちた今日の世界に向けて、まさに有意義なメッセージとなりうるのだ。
今回の世界遺産登録は、ぜひとも以上のような視点から見つめていただきたい。世界遺産を活かした地域作りにあたっても、経済的な議論の前に、こういうた精神的な視点をきちんと踏まえることを求めたい。そのうえで、私たちは、日本の伝統文化を世界に向けて発信していくべきなのだ。・・・写真は写真家の高橋良典氏(写真複製不可)
ー『はじめての修験道』(田中利典・正木晃共著/2004年春秋社刊)「第5章 現代の修験道」より
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