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「近代との戦い」

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「近代との戦い」

私は奈良県吉野山にある修験道の根本道場金峯山寺に暮らしているが、修験道は明治初年の神仏分離政策と、そのあとにつづく修験道廃止令によって大法難に遭遇する。金峯山寺も一時期廃寺とされ、また全国にあった修験霊山の多くは解体されて、修験道そのものが廃絶の危機を迎えたのである。

その後、政府の施策も転換され、当山派修験の醍醐寺や本山派修験の三井寺、聖護院などを中心に修験道も徐々に復興を遂げ、金峯山寺もまた少しずつ寺勢を取り戻しつつある。

さてこの神仏分離政策、修験道廃止とはいったいなんだったのかを考えると、行き着くところは日本の近代化という背景にぶち当たる。欧米諸国による植民地化が進むアジアにおいて、植民地にされないためにも、その当時の国策として日本の近代化を急がないといけない事情があった。そのためには国民国家への組織習俗の作り替えに、神仏分離や修験道廃止が必然だったようだ。それによって、日本はアジア諸国でいち早く近代化に成功し、植民地となる難を逃れたのも事実である。それはそれでいいとしたい。

ところで、その近代化がもたらした欧米主義によるグローバリゼーションによって、世界は本当に幸せになったのだろうか。近代社会が人類を幸福に導くという幻想は、そろそろ終わりつつあるのだはないか、という現実に我々はいま直面している。

過度な物質文明社会は人間性を疎外し、理由なき殺人を行う若者や尊属殺人を生み、また文明社会の精緻を集めた原子力発電は、福島原発事故に際して先祖代々受け継いで来た土地を奪われた同胞たちを生んだ。更に神仏分離以来の神殺し、仏殺しによって、日本人には寄り添うべき宗教も道徳も損なわれつつある感がする。また世界に目を向ければ、文明の衝突とも言える、欧米諸国とイスラム世界の相克と思うとき、私たちの人類の未来に希望の光はあるのだろうかと、立ち尽くす日々である。

近代がヨーロッパ社会で生まれて以降、世界はユニバーサル、あるいはグローバルという美名のもとに、一つの価値観で画一化することを目指してきた。ユニバーサルもグローバルも普遍性を持っているという理解なのである。

そして現にいまもグローバリゼーションという嵐によって、その土地の文化、その土地の風土が世界中で破壊され続けている。日本において修験道もまたその生け贄とされたのだった。しかしその風土、その土地で生まれたものを大事にすることのほうが、人類や地球にとっては普遍的なことなのではないか、私はそう気づいたのである。

数学者の藤原正彦さんが『国家の品格』(二〇〇五年、新潮新書)という名著の中で、いくらチューリップが美しいからといって、世界中の花をチューリップだけにしてしまってはたまったものではない。サクラが似合う国、ブーゲンビリアが似合う国、ユリが似合う国、サボテンの花が似合う国──それぞれの国柄に合わせたいろいろな花があっていいはずだと書いておられる。

カルチャーとは「耕す」ということが原義であり、まさにそれぞれの風土が生んだ言語、宗教、経済行為など、それぞれの多様性の中にこそ人類の普遍的価値があると考えるべきなのではないか。

明治以降、近代化の美名のもとに欧米的な価値観を植え付けられてしまった私たちだが、いままさに、あらためて自分たちの風土を見つめ直して、その文化を耕していくことが求められていると言っていいだろう。

その鍵を握るのは私はグローバルからローカリズムへの転換だと思っている。私にとっての「修験道を通してみた近代との戦い」は新たなローカリズムへの目覚めと言ってもいい段階まで進んできた。

ー随筆集『山に祈るー峯寺老僧随想録』(松浦快芳著/山陰中央新報社刊)書評原稿より

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