蔵王供正行46日目 「見えた!・・・かな」
「見えた!・・・かな」
蔵王供正行46日目(6月15日)。晴れ時々曇り。
今日の一日。
5時に起床。
5時40分、第91座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
7時、本堂法楽・法華懺法 於本堂
9時10分、第92座目蔵王権現供養法修法 於脳天堂
10時20分、本堂法楽・例時作法 於本堂
12時半、水行 於風呂場
13時、法楽護摩供修法 於脳天堂
13時45分、法楽勤行 於本堂
参拝者1名。弟子の河内さんが行中6度目の助法。
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「見えた!・・・かな」
「吉野を降りてどうするの?」という課題を以て、入行し、黙して語らない権現様を前に、前行を入れて、今日で49日を過ごしてきた。
準備不足で行に突入したため、当初、おいでになる参拝者への対応や、一願祈願の千願祈祷受付事務など、時間に追われる修行であったが、6月に入ると落ち着いて来て、自分自身の問題にようやく直に向き合えるようになった。
それでも昨日までの日記に綴ってきたように、確たる答えが見いだせないまま、修行の時間だけが通り過ぎて、もう最後の段階に入いりつつあった。
そして今日の蔵王供。その2座目。トータルで92座目で、ようやく私なりの答えが見えてきたような気がする。キーワードは使い古された金言かもしれないが、「上求菩提下化衆生」。・・・上には菩提と求め、下には衆生を教化していくという大乗仏教の大切な修行目標である。
「楽して悟りたい」とか「70のたなかりてんに会いたい」とか、「人は誰でも、いま生きているように未来を作っていく」とか、様々なキーワードが浮かんで消えたが、ようやく腹におさまるところに、心が落ち着いた。
「上求菩提下化衆生」とは菩薩道のことでもある。権現様を拝む中で、私の目の前には何度も何度もフラッシュバックのように役行者のお姿が浮かんでは消えたのだったが、役行者は神変大菩薩。その法脈に繋がるわれわれは、すべからく小菩薩なのだ。
菩薩道に生きることが天命というなら、それが私の本来的な天命かも知れない。少なくとも、いまの自分のいるべき、目指すべき場所だと気づいたのである。吉野でも綾部でも東京でも、どこでもいいのだ。真の居場所は菩薩たるべしという、自分自身の心の有り様である。
それは今まで関わってきた世界遺産活動でもない、金峯山寺興隆でも、修験道発展でもない。ましてや自坊の経営でもなく、まさに自分自身の生き方の原点を問われているのだと、覚醒したのである。
まあ、自慢げに披瀝するような体験でもないし、明日の朝にはすっかり忘れているかも知れない、相変わらずの安わかりだが、ともかくようやく少し見えた気がした今日の修行であった。
写真は今日の護摩。至近距離からの写真である。
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