「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」
著述を振り返る270922・・・
「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」
現状として、大峯山山上ヶ岳は今も女人禁制が守られている。
そこでまず最初に、山上ヶ岳の女人禁制はどうして定められたのか?を考えてみたい。
「女人禁制」の規程が公的に定められたのは、七五七年施行の『養老律令』に規定する「養老僧尼令」が最初である。これは僧坊における男女相互の立ち入り制限を目的としていた。つまり「女人禁制」と「男子禁制」は、セットのかたちで定められていたのである。
そしてそれは、男女僧尼が誤って性交渉におよぶことを未然に防ぐ「不淫戒」と称する根本戒にゆらいしていた。ちなみに本来、このような戒律は、宗団、寺院の各個の自主的な規定にまかされるべきである。ところが、当時の仏法擁護の施策の結果、僧尼の数が急激に増加し、各自の自主的な規定では思うに任せない事態になってしまった。そのために、公的な機関が取り締まる必要が生じ、このような規程が生まれることになった。こうした規則によって女性が入山禁止になった寺に、たとえば比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺がある。いずれも戒律による禁制であることは、文書によって明らかにされている。
さて、本題の大峯山の女人禁制である。大峯山とは本来、吉野より熊野に至る連山の総称であり、現在、世間一般に大峯山と呼ばれる山は、正確には金峯山山上ヶ岳のことにほかならない。したがって、問題となる女人禁制の地域は、金峯山の山上一帯ということになる。
この金峯山を指して、『本朝神仙伝』には「…金剛蔵王守レ之 兼為二戒地一 不レ通二女人一之故也」とあり、戒律の生きている地と解されている。また金峯山は中国で書かれた『義楚六帖』(九五四年)にも「未だかって女人が登ったことのない山で、今でも登山しようとする男は三ヶ月間酒・肉・欲色(女性)を断っている」と記されている。
比叡山においても伝教大師の『山家学生式』に、同じように酒・女を断つ一条が見られる。これらはいずれも不飲酒戒・不淫戒の徹底をはかろうとする意図から出ていた。こうした事例からいうならば、古代における「禁制」は、男女ともに戒律を遵守するための用語であり、「女人禁制」という言葉は熟語として定着していなかったことがわかる。
しかし「女人禁制」は、現実には男子禁制の部分を脱落させ、ひたすら女性にのみ禁制を強要する用語として受け継がれてきた。その原因はいくつも指摘できる。主な原因としては、平安時代の初期以後、女性の出家制限が始まったこと。また律令仏教の基本であった官僧官尼体制がなくなったことにみられるように、国の仏教政策が変化を遂げて、十世紀ころには尼寺が衰退し、男子禁制があまり意味をもたなくなった事実などである。
かくして残った「女人禁制」の僧寺では、その内容が、戒律を中心とした国家主導型から、各寺院の自己規制型の女性対策へと変遷し、禁制と開放のいずれかを選ぶという事態に至ったのである。その結果、特に厳しい修行の道場としての密教寺院や、修験系の山岳仏教では女人禁制を金科玉条とするようになり、その後も民間信仰や神道思想、また法華経の五障三従の思想などと融合しながら、長く受け継がれてきたのである。
*写真は女性も参加している現在の奥駈。南奥駈、貝吹きの拝所。
ー田中利典著作集・『山伏入門―人はなぜ修験に向かうのか? (淡交ムック)』淡交社刊(2006/03)・田中利典「女性と修験道」より
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