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「日本仏教の危機~僧侶がみずから祈りを取りもどすこと②」

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「日本仏教の危機~僧侶がみずから祈りを取りもどすこと②」
 ー田中利典著述を振り返る271020

3)その時代に生きた僧侶たちが血の滲むような努力をつづけてきたからこそ

6世紀中頃、日本に仏教が公伝して以来、仏教は国家的な規模による繁栄とともに、幾多の危機も迎えている。

豊臣秀吉の時代、刀狩りが行われ、寺院にあった僧兵達は武装解除して寺は武力を失う。武力を持った寺院が日本の仏教にとってよいことだったかどうかは別だが、それ以来、政治に対して発言力を失ったことは間違いない。
江戸時代の寺請制度・檀家制度は、寺院の経済基盤を安定させたが、しかし布教の自由はなく、葬祭仏教となって、いきいきとした活力は奪われてしまった。

明治の「神仏分離・廃仏毀釈」による打撃も日本仏教の形を大いに変容させた。

そして大東亜戦争の敗戦による農地解放は、寺院の経営基盤であった田畑などを大いに失い、これによって葬祭儀礼に収入を依存する体質や実子相続などの形が一般化した。

戦後は新興宗教が活発に起こった。また都市化による核家族化が進み、檀家離れに拍車をかけた。

しかしながら、大きな節目ごとに、その時代に生きた僧侶たちが血の滲むような努力をつづけたからこそ、現代にまで、曲がりなりにも日本仏教の法灯は守られてきたのだと思う。
それはまた僧侶だけの努力ではなく、日本人全体が先祖供養や現世利益などの祈りを通して、やはり日本仏教を心のよりどころとして求め、存続させてきたのだと思う。

4)本当の日本仏教の危機とは

人の生き死には人生最大の問題である。そこに宗教が必要とされるのは世の東西を問わず、そして長い人類の歴史を通じて変わらないことだったはずである。

けれども、いまやその厳粛な場に僧侶が必要とされない社会となってきているのだ。

それがもし本当なら、人生の厳粛なる節に、祈願などの場さえも生まれない。そしてそれは、祈りを喪失させた社会をも生むことになるであろう。
先祖供養や死者儀礼は現世利益と表裏一体でやってきたのが日本仏教だった、と私は思っている。

そこにこそ、祈りがあったのだ。

人々の心に祈りの心があり、僧侶の祈りが必要とされてきたのである。
映画『おくりびと』で僧侶がいなかったことも、「私のお墓の前で泣かないで下さい~♪」と歌う心も、『葬式は、要らない』のベストセラーも、イオングループのビジネスモデルも、どこか、僧侶自身の祈りの喪失とつながっているような気がする。

社会ぜんたいで祈りの喪失という現象は、今後ますます拍車をかけるにちがいない。
実はそこが今の日本仏教の危機たる本当の所以なのではないだろうか。──そう私は思っている。

5)まず僧侶自身が祈りを取り戻さなければならない

まず、僧侶自身が祈りを取り戻さなければならない。
仏に祈りもしない僧侶が死者儀礼や加持祈祷などに携われるはずがない。世間の人たちが祈りを忘れているのは、しっかりと祈る僧侶がいないからなのではないだろうか。

その現れをもっとも顕著に感じるのが葬儀の場だ。祈りの心を伝えられない僧侶が増えている。たんなる儀式の執行者になっていないだろうか。
人の生き死にの場で、祈りを期待されないような僧侶では意味がない。葬祭の場こそ、僧侶がみずから祈りの心をお伝えする機会なのだと思う。

あるいは、仏像は見るものではない。拝むものであり、祈りの対象である。そこにも僧侶が祈りの体現者として登場していなくてはならない。
博物館の管理人のようなことではダメなのは言うまでもない。祈りのない、拝む心のない仏像ブームは仏教の自滅であるとさえ、僧侶は思わなくてはならないだろう。

祈りを取り戻すこと、私はそれをなにより大切にしていきたいと思っている。

ー中外日報2010.12月掲載/田中利典著述「日本仏教の危機~僧侶がみずから祈りを取りもどすこと」から

****************

昨日の続き。

執筆から5年。・・・そろそろ仏教界側からも、いろんな動きが起こっているように思う。それも若い世代の人たちの中からである。

この3月末に金峯山寺の役職を私自身離れ、それを契機に、管長・総長職以下、平均年齢40歳代という、金峯山寺の体制は考えられないくらいの若返りを果たしたが、そういう中でしか、大きな変革はなしえないのかも知れない。

ただ、単に若返っただけでは意味がない。若年寄のような思考ではなく、激動の現代に向かって船出をしてほしいものである。

私は・・・といえば、である。

私はしばし、「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という吉田兼好法師の態で、1,2年は、自らを眺める時間を持ちたいと思っている。折角の還暦退職を大事にしたい。

それも運命であり、仏縁でもあるのだから。

五年前の記事を読み返してみて、しみじみと思う秋である。

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コメント

また、涙が出ました…(笑)
りてんさんのようなお坊さんに、お葬式やお加持をしてもらいたいです…

豆しばさん、お褒めにあずかり、ありがとうございます。口ほどには大したことのない坊さんです・・・お恥ずかしい次第です。

り拝。

私は、本当に本当に、阿呆ですが、りてんさんは、とても素敵な、お坊さんです。とても尊敬しています。私は自分が阿呆だとよく分かっているので、りてんさんのお話も、きっと、私の理解力の範囲内でしか理解できていないんだろうな(涙)…って、思います…でも、とても尊敬していますから、頑張って、少しでも自分を成長させたいです。

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