「修験道に学ぶ子育てのありよう②」
「修験道に学ぶ子育てのありよう②」
ー田中利典著述を振り返る271016-2
さて、私の話の前置きはここまででありまして、ここから本題でございます(笑)。本題までが長いので、本題がすぐに終わってしまうのですけれども、そろそろ本題に入りたいと思います。
では、修験道に学ぶ子育てのありようということになるのですが、今、申し上げましたように、近代化以降、(先に紹介したように梅原猛先生の説にあるがごとく・・・)二度にわたってわれわれは神・仏を殺してまいりました。神・仏から遠ざけられてきて、日本人の心のよりどころをなくしました。アメリカはキリスト教社会であります。ブッシュ大統領は聖書に手を置いて大統領の宣言をするわけであります。基盤にキリスト教というがっちりとした精神的な支えがあります。宗教文化の支えがある。今、「日本」という題名を打った本は売れるそうであります。日本人が日本人探しをしている。日本人は今どこにいて、どこに行こうとしているのか。自分たちが帰属するものを、どうも欠落させてきた結果のような気がするわけであります。
先ほど、しょうかいした梅原さんの新聞記事には「だからこそ明治以前に戻りましょう」とおっしゃいました。でもそこまでしかおっしゃっていません。では、明治以前の何に戻るのか。実は、明治以前のものって、私たちの周りにもうあまり残っていないのであります。
そのような中で、近代化以前、明治以前のものを、少なくとも修験道はかかえてきており、神仏習合という、神仏分離以前のものを真面目にやってきたわけでありますから、修験道的な価値観の中には何か学ぶべきものがたくさんあるのではないかと思うものであります。その一つは神仏習合である。神と仏をともにそばにおいてきた価値観であります。仏壇があり、神棚があり、それが何も違和感がなかった私たちの価値観なのです。
よくジャズをやっていた人やロックをやっていた人、あるいはシャンソンをやっていた人が、若いときにそのようなことをやっていても、中年以降になると、日本人は何となく演歌を歌ってしまう。美空ひばりが良くなってしまう。私も美空ひばりはそんなに好きではなかったのですが、最近よくカラオケで彼女の歌を歌うようになりました。だんだん年をとってくると、そういった演歌が、日本人になじんだものとして心地よくなる。
同じように、神様を拝み、仏様を拝むのが日本人にとって心地よかったはずであります。何も一神教のまねをして、それを無信心や無宗教と言う必要はないわけであります。日本人にとって心地よいものが日本人の居所であります。そういうことを考えることは決してそんなに悪いことではないはずなのです。
それから、自然とのかかわりを考えてください。日本は7割が山であります。都会というのは都市化が進むほど自然を壊していくところがありますが、どうも日本人は自然とのかかわりを忘れることによって、だんだん不具合な社会をつくってきた。自然とのかかわりをもう一度考えてみることが肝要であります。修験道というのは山で修行をいたします。山の中で神をみ、仏を拝んでいく宗教。そのように大自然の中で、神と仏のかかわりを持ってきた日本人のありようというものを、もう一度、私たちが取り戻すべきなのではないでしょうか。
ただ単に山に入ってただ歩くだけではなく(最近では森林浴などといいますけれども)、自分の体を使って神・仏とかかわっていくことが大事。人間は心だけで生きているわけではありません。体を伴って生きている。実践をすることによって、そのようなものを育ててあげる。都会の中でテレビゲームばかりしているのではなくて、実際にこの身を大自然の中へ落とし入れてやって、真っ暗なやみの中で自分を超えたものへの畏怖の心を抱かせる。あるいは大きな風、大きな滝、そのような自然の大きな勢いの中で、人間存在のちっぽけさを体験させてやる。そのようなことが極めて大事なのではないかということを思っています。
私たちは、アメリカ人にはなれません。私たちはアメリカ国籍をとることはできても、アメリカ人にはなれないわけであります。もしかすると、1万年くらい続いたかもしれない縄文時代から、この日本列島で、四季が豊かな中で暮らしてきた私たちは、私たちなりのアイデンティティ、つまりありようを持つべきであって、それが美空ひばりを恋しくなる日本人の心地よさだと思います。
この150年間の日本の歩みを見ていますと、私は、思わずマイケル・ジャクソンを思い浮かべてしまいました。彼は黒人ですが、白人になろうと一生懸命整形や化粧をしました。結果、滑稽で不気味な人間が出来上がってしまいました。日本人も、日本人であるにもかかわらず、アメリカ人の模倣ばかりをして、どうも本来の日本の在り方を忘れていた。しかしマイケル・ジャクソンは白人になれないわけであります。日本人もアメリカ人にはなれないわけであります。だから日本人のありようを考える中で本来の形を取り戻すことができるのではないでしょうか。
明治以前のものを探すことは本当に難しゅうございますが、修験道が持ってきた自然との深いかかわり、あるいは神・仏をともがらにして拝んでいく。そのような価値観というのは、これから子どもを育てていく中、あるいは親を育てていく中で、今、日本人が欠けている部分であります。
先ほど、日本人は無宗教ではないという話をしましたが、田中さんが言っているのは宗教ではなくて、それは習俗とか習慣でしょうという意見を、あるシンポジウムで受けたことがあります。実は、日本人のそのような宗教的心情を習慣や習俗やと言うこと自体が、宗教とは一神教的なもの、一神教のようなものが宗教であって、それ以外のものは宗教でないという一神教の洗脳を受けているわけであります。もうそろそろ本当に一神教的な価値観からばかりでものを見るのではなく、近代化以降のものだけが優秀で、それ以前のものは古くて悪いものという目をとり払って、日本人が営んできた美しさ、心のありようを見つめ直すべきときがきているのではないかと思います。
ー母子保健協会全国大会基調講演・田中利典「修験道に学ぶ子育てのありよう」(平成17年11月講演録)より
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今日2回目のアップ。長い講演録ですので、まだ終わりません。次回で、最終稿になります。
あと少しですので、最後までお付き合い下さい。
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コメント
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私はカトリックを信仰していますが、子育ての毎日の中でなかなかおミサにも与れず、周りが見えなくなっていて、そんな中で、大自然の中で緑や草花にも神様を感じながら美しい心で修行するお坊さん方を知り、感動して、力を頂き、仏教に関心がある父にも教わりながら、本を読んだりしています。
もっともっと神道や仏教のことを知りたいです。
みんながもっと神道や仏教のことを知ったら、もっとお寺や神社を大切にできると思います。宗教とか言えなくなるような気がしています。
投稿: 豆しば | 2015年10月16日 (金) 15時17分
最後の文を間違えました。すみません。
無宗教とか言えなくなるような気がします。です。
投稿: 豆しば | 2015年10月16日 (金) 15時19分
豆しばさま。最終稿をアップしました。気持ちが伝わればと思います。
投稿: 吉野山人 | 2015年10月17日 (土) 21時58分