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「自然と交わる」

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「自然と交わる」

 ー田中利典著述を振り返る271127

自然と交わるというのは、つまり自然の摂理を身をもって覚えていくということです。自然は常に摂理で動いている。ところが人間が作った社会というのは自然の摂理と別物です。

でも、人間はどこまでも自然の一部です。だから自然と切れることによって、本来人間は自然の一部であって、そうやって生きているのに、その部分が壊れた人間になってしまっている。

人間は必ず死ぬ。死ぬということは自然の摂理です。周りで人が死ぬことで自然の摂理を体験する。それが切れてしまうと、リセットすれば生き返るようなゲーム感覚で自分の命も人の命も考えてしまう。

青木ヶ原の樹海で首を吊って死のうとしたら、ロープが切れて死ななかった。その時その人は「死ぬかと思った」と言ったというのです。その時の死はホントの実体的な死で、死のうと思った時の死は実体のない死です。

つまり死ぬとはどういうことか分からない、自然の摂理から離れた死しか認識の中にない世の中になっている。それは自然との関係が切れたことによる大きな災いだと思います。

 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

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自然とともに生きていることをもっと大事にしないといけないですね。
10年前に同じ事をいっていますが、ますます必要性を感じます。

*写真は大峯の山中を行ずる山伏一行

愛染さまの大祭

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11月27日は金峯山寺愛染堂の大祭。

金峯山寺総長時代には、金峯山寺の年中行事をいくつか復興したり、新しく作ったりしたが、この愛染堂大祭は新規ではじめたモノ。

毎月27日の愛染明王御縁日には愛染明王供養法を行じてきたので、大祭日は私がずっと導師役を行ってきた。

...

今回出仕の要請もなかったので、自坊で、愛染明王の供養法を一座、朝から修法させていただいた。

8月27日生まれの私は、愛染明王さまとのご縁が深い。ご開帳期間中だし、吉野も賑わったことだろう。

「私の愛する吉野の紅葉」

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「私の愛する吉野の紅葉」      
 ~田中利典著述集271125

紅葉の名所と言えば大方が楓の紅葉である。日本中に美しい楓の紅葉名所は点在する。

ところが吉野山の紅葉というと、楓ではなく、全山を覆う山桜の紅葉が主役となる。

楓と違って山桜は、毎年そんなに上手に色づくわけではなく、年ごとの気候に左右されるため風景が変則で、またその紅葉も、眩しいばかりの錦秋というより、可憐で深い色合いとなる。そこに他の名所とは異なる、吉野独特の風情を感じるのは私だけではあるまい。

吉野山にも幾ばくかの美しい楓の名木はあるし、秋には綺麗な紅葉や黄葉に彩られるが、全山を覆うのは山桜ばかりなのである。

これにはわけがある。

今から約千三百年前、我が国固有の山岳宗教・修験道の開祖と尊崇される役行者が、吉野の山深く修行に入られ、大峯山山上ヶ岳で一千日の修行をされた。その難行苦行の末、忿怒の形相も凄まじい悪魔降伏の尊・金剛蔵王権現という修験独特の御本尊を祈り出されたと、金峯山寺では伝えている。そしてそのお姿を役行者は山桜の木に刻んで、山上ヶ岳の山頂と、麓の吉野山にお祀りされたのが金峯山寺の始まりであり、以来、吉野山では山桜は蔵王権現のご神木として尊んできた。

役行者は「桜は蔵王権現の神木だから切ってはならぬ」と里人に諭されたともいわれ、吉野山では「桜は枯枝さえも焚火にすると罰があたる」といって、大切に大切に守られてきたのである。江戸時代には「桜一本首一つ、枝一本指一つ」といわれるほどに、厳しく伐採が戒められたほどであった。

また更に、当地を訪れる人たちが蔵王権現への信仰の証として、千年以上にわたって山桜を献木しつづけ、吉野山は山も谷も、ご神木の山桜に埋め尽くされることとなる。ゆえに吉野山は日本一の桜の名勝地となったのである。

桜を慕う西行が吉野の奥に3年のわび住まいをし、太閤秀吉が徳川家康、伊達政宗、前田利家といった戦国大名の勝ち残り組五千人を引き連れて日本で最初の大花見の宴を催し、芭蕉をはじめ多くの文人墨客が時間と空間をこえて、吉野の桜に魅了されたのであった。

しかしそれは桜花爛漫の春の話。

花を散らせ、深緑の季節を過ごし、秋の寒風に桜葉が色づいて、また春とは違う佇まいに姿を変えるのが初冬の吉野。その景色に、深い信仰と長い時間を刻んだ歴史を感じるのが吉野山の紅葉鑑賞の醍醐味である。

紅葉の色合いばかりに目を奪われるのではなく、その風景の背後に潜む聖なる営みに心を寄せてこそ、紅葉の吉野の、真の素晴らしさに出会えるのである。

私の愛する吉野の紅葉はうつろう人の命の営みと、蔵王権現の聖なる命の有り難さと重なりあって、今年もきっと紅い冥加に燃えることであろう。

ー『奈良を愉しむ奈良 大和路の紅葉』(2014年10月:淡交社刊)田中利典「私の愛する吉野の紅葉」 より
 https://www.tankosha.co.jp/ec/products/detail.php?product_id=1696

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残念ながら、今年の紅葉は全国的にあまり美しいとは言えない。昨日一昨日と清水寺をはじめ、京都の各地を環境文化推進機構のフォーラムサイドイベントで巡ったが、各所とも色づきがまばらで、錦秋の風景とはいえない紅葉ばかりだった。

吉野もまた例外ではなく、それでなくても、紅葉の難しい桜葉は残念なこととなった。それでも、樹によっては綺麗なところもあり、まだまだ見頃と言えるかもしれない。まして、今年は秋の秘仏ご本尊蔵王権現様の特別ご開帳も行われている。

青の権現様と、紅の吉野山の競演を楽しんでみてはいかが・・・。

「信」「行」「徳」 

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「信」「行」「徳」 
 ~田中利典著述集271124

護摩供を修する行者の心得は、「信」と「行」と「徳」にあります。

信とは信心決定(しんじんけつじょう)していることです。たとい決定していなくても、そのために真摯な努力や精進をたゆみなく続けていることです。

信心というのは「誠の心」であり、本尊(ほとけ)と自分とが一体になっていることです。行者にそうした心得があれば、本尊・行者・信者の三者一体となり、加持祈祷の願いが成就すると考えられています。

護摩には「外護摩」と「内護摩」があり、実際に供物を火中に投じて供養し、願望の成就を祈願するのが外護摩、蔵王権現の智慧の火により、自己の煩悩(この場合は護摩木や油、五穀などの供物が象徴する)を焼くと観念して拝むことを、「内護摩」と呼びます。

この「外護摩」と「内護摩」を繰り返していくことで、心が浄化されていきます。そして次第に、本来、自分の心にある菩提心(仏と同じ悟りの心)が開かれるのです。

私たちは日常生活を営む上でたくさんのゴミやホコリを出しますが、これを家の中に溜めておいては不潔ですし、ときには病気になってしまいます。それと同様に、心の中にも知らず知らずのうちにゴミが溜まるものです。

そのゴミとは、憎しみ、貪り、愚かさ等です。これが積もり積もって大きなゴミになると、それに応じた境遇、病気や事故などさまざまな災いを引き寄せてしまいます。ですから、たえずゴミやホコリをはらって清らかにしなければなりません。

護摩の秘法により、心の中を清めることで不幸を除き、幸いを招くわけです。

 ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』(2014,5刊)より
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*写真は私の今年の蔵王供修行での護摩。

「人生あおによし:最終回」

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「人生あおによし:最終回」
 ~田中利典著述集271122

⑳修験道ルネサンス

暑ければ冷房、寒ければ暖房、移動は車や飛行機で、電子レンジに冷蔵庫……便利なもの、体が楽をできるものばかりが増えました。高度な物質文明社会の発展は肉体が楽することばかりを優先する結果、主であるべき精神が肉体に隷属する社会を現出させています。肉体の楽を優先する社会は心が置き去りにされる社会でもあります。そしてついには魂をもって生きているという現実感さえ喪失させてしまいます。

山に入って過酷な日々を行ずると、日常生活が怠惰であればあるほど、肉体の痛みや苦しみを伴います。峻厳な山や谷を駆け抜けるとき、肉体と心が対峙して葛藤する。それが高まっていると、自分の存在を超えた神仏や曼荼羅の世界が目の前に出現します。そこで初めて、人間の命のありがたさやその肯定が始まるのです。

大峯奥駈への参加希望者の多くは、日常からの現実逃避ではなく、息苦しい現代社会の中で自分を前向きに変えたい、打開したいという気持ちをもっての参加であります。「心の時代」と言われて久しい中で、私はここ10年にわたり、「修験道ルネサンス」を提唱してきました。それを支援していただく動きも沢山出てきて、まさに同時性をもって、ポスト近代への、生命と魂の反撃が始まったのだと、私は感じています。

修験道の賞味期限はまだまだ切れていません。物質文明社会が行き詰まり、自然が猛威を振るう今の時代だからこそ、その精神が求められていると私は確信するのです。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを加筆転載致しました。

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「長い連載の終わりに当たって・・・」

20回にわたる連載が終わりました。ながながとお付き合いをいただき、本当にありがとうございました。またこの企画を編集いただいた古澤記者には改めて御礼を申し上げたいと思います。

連載16回目のところで、述懐していますが、この連載は金峯山寺での今までの総仕上げ的な意味を持つモノとなりました。実は不思議なことに、この「あおによし」の連載だけでなく、今年3月末の退職直前に、更に二つの、総仕上げ的な自分史を総括する企画がありました。

ひとつは退職の3日前、3月29日(日)に奈良県立図書情報館で開催された講座・図書館劇場Ⅸ「奈良・大和の群像」の最終回で、「役行者という人」と表題で講演させていただいたのですが、なんと、この講演に併せて、図書館劇場Ⅸの千秋楽を記念するイベントとして『利典さんと吉野――田中利典著作パネル展』が3月10日から講座開催日の29日まで19日間にわたり、図書館内で催されたのでした。生きてる人の著作展は初めてですと、担当の方からお話をお聞きしましたが、まさに私のこれまでの活動を総括するようなパネル展示でした。

それからもうひとつは、NHKEテレの看板番組のひとつ「こころの時代」に出演したことです。この番組、じつは最初、1月末に出演依頼がありました。ただ、総長職の退職が決定していたので、やんわりとお断りをしました。しかし、総長としての私ではなく、田中利典個人の取材したいからというデレクターの言があり、最終的には取材を受けることになって、3月下旬の引っ越し準備の最中に、取材をしていただきました。

放映は辞めた後の、4月26日(日)と5月2日(土)。「こころの時代~宗教・人生~『花に祈る 山に祈る』」と題して全国放送がなされたのでした。

放送後、すぐに全国から、たくさんの反響をいただきました。まさにまさに、金峯山寺総長時代の総まとめを公共放送を通じて、行うことが出来たのでした。「よう頑張ってきたな・・・」という、役行者さま、蔵王権現さまからのご褒美のような出来事でした。

自坊に帰って、ようやく、今の生活にも馴染んできましたが、新しい企画や事業もいただき、後ろを振り返る暇もない毎日なだけに、この「あおによし」の連載や「こころの時代」の放送は貴重なものとなっています。

明日はこの5月に立ち上げた一般社団法人自然環境文化推進機構の第一回フォーラム「千年のときを超えて世界遺産の地で明日の環境を考える」が開催され、理事の一人として、参加します。私にとってはこれも「修験道ルネッサンス」の活動のひとつでなるでしょう。

フォーラムは以下、参照。→ http://opnec.jp/forum.html

金峯山寺は長臈職として、これからも現体制をサイドから支えていくことになりますが、私が提唱する「修験道ルネッサンス」はまた新たな展開に入ったように思います。今後ともよろしくお願い致します。

*写真は私が出演したNHKEテレ「こころの時代~花に祈る 山に祈る」の冒頭映像。

「人生あおによし⑰-世界遺産登録への道のり」

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「人生あおによし⑰」
 ~田中利典著述集271120

⑰世界遺産登録への道のり

2004年7月、吉野大峯を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。これは金峯山寺にとっても、そして修験道全体にとっても大変大きな慶事でした。

私が推進活動に手を付けたのは1999年です。「日光の社寺」が世界遺産登録されたことがきっかけでした。山岳信仰の地として日光が世界遺産登録をされるという話を輪王寺塔頭の後輩から聞いて、「山岳信仰なら、うちが本家ではないか?」という思いから、すぐさま手を挙げたのでした。当初は地元吉野山の反応も鈍く、寺内も懐疑的な空気でした。それが5年足らずで実現したことには、言い出しっぺである私自身、驚きました。

日本での世界遺産登録は観光資源の開発や地域活性化に傾くきらいがあります。しかし私は活動を始めた当初から、登録がゴールではなく、平和を希求するユネスコ憲章に立脚した世界遺産の精神をどう根付かせるかを大切にしなくてはならないと考えてきました。修験道に限らず、仏教の持つ優れた世界観を発信しなくては、寺は単に葬祭仏教や観光寺院になりはて、いづれ世間から見限られてしまうという危機感もありました。

自然を尊んで神仏に祈る心を取り戻すためには、神と仏の祈りの聖地が守られ続けてきた奈良や吉野の地だからこそできることがあるはずです。登録から10年、道はまだまだ半ばですが、明治以降に日本人がなくしてきたものを見つめ直し、日本の再生に向けて皆で動き出すために発信し続けて行きたいものです。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを加筆転載致しました。

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金峯山寺時代に成し遂げた意義深い事業は沢山ありました。それは私の力というより、多くの皆様の力添えのお蔭であるし、なにより、ご本尊のお導きがあればこその、成就でした。それらの中でも、この世界遺産登録の推進活動は一番大きい成果であったとともに、その後の波及効果もまた絶大でした。

*写真は世界遺産金峯山寺蔵王堂(国宝)。世界遺産を通じて、参拝者も増え続けています。

「人生あおによし1⑯・・・父と子/父への思いと子への思い」

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「人生あおによし⑯」
 ~田中利典著述集271119

⑯父と子/父への思いと子への思い

父は若くして在家から宗門に入り、本宗の宗議会議長の重職を5期15年務めました。私が修験僧となり、宗門の実務に携わっているのも全て父によって導かれた道です。先に書きましたように、山上参りは5歳から、奥駈も大学卒業後に父の後を追って体験しました。その導きで、なんとか山伏となれたのでした。その父も13年前の夏、暑い夜に86歳で生涯を閉じました。

私も長男が小学校に入った時、山上ケ岳へ連れて行きました。手を引いて登る道すがら、言い表し得ぬ感慨がありました。父から受け継いだものを息子に伝え受け継ぐ意味の尊さ、ありがたさを感じたのです。その息子も私と同じ龍谷大学を卒業し、少しずつ修験僧の道に導かれています。

大峯山も修験道も、時代に即して形を変えねばならない時代を迎えていますが、親が子に、子がまたその子に伝え続ける伝統と信仰の本質は貫いてほしいものです。

父が心血を注いだ宗門の発展に尽くすことが恩に報いることだと思い、私もこの道に邁進してきました。ただ内側の論理だけを優先する宗門の体質はなかなか急変をなしえない感もあります。また私自身が長く職にある弊害も感じます。来年は私も総長職15年目、父の年数と符合するものもあり、来年迎える還暦を汐(しお)に、宗門の仕事にひと区切りをつけ、父のように人々の悩みに直接寄り添うような宗教者本来の生活に身を置く中で、父から受け継いだこの道の完成を目指していきたいと考えています。

まさに修験の教えにある「山の行より、里の行」を心に置いて、これからの人生を歩み直したいと願っています。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを加筆転載致しました。

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今年の3月末に、私は金峯山寺の総長職を辞しました。今だから言えるのですが、私の離職はすでにこの連載を始める以前から決まっていたことでした。そのための、仕事の引き継ぎは前年から徐々にはじめていて、寺内では承知の事実だったのですが、宗外にはまだ公表していなかったので、本稿で書いたのが最初となりました。

そういう意味では、この「あおによし」の連載のお話を頂いたときには、34年に及ぶ金峯山寺生活の離職に際し、まさに自分史を総括するような、大変有り難い機会となりました。偶然のこととは思えないような、「よく頑張ってきたな」というご本尊からの思し召しを頂いたような、そんな気持ちにさせていただいたのでした。

本稿再編に際し、それも踏まえて、連載当時とは少し文章も書き換えました。宗門改革は現内局に引き継がれ、更に進められると信じています。

*写真はもう50年くらい前、山上参りの帰りに蔵王堂の前で撮った父と私の写真。懐かしいというより、過ぎ越してきた時間に愕然とし、また父との遠い思い出に心が震えます。

*今日は今から、水をかぶって、脳天さんの月例護摩。里の行に専心します。

「人生あおによし⑮」

「人生あおによし⑮」
 ~田中利典著述集271118

⑮女性と修験道

「修験道は女人禁制なのですね」と問われて驚いたことがあります。大峯山上が今も女人結界の地だからでそう思われているのでしょう。「違いますよ」と答えましたが、大変気になりました。実は誤解を受けているようですが、修験道自体は決して女人禁制ではありません。いや実際には、驚かれるでしょうが、金峯山寺の僧侶資格者の半数は女性なのです。奥駈修行にも女性が参加しています。

ただし山上ケ岳が歴史的に女性を受け入れてこなかったのも事実です。過去に禁制区域を縮小したこともありますし(昭和45年)、また西暦2000年に迎えた役行者1300年大遠忌の折には、修験三本山や大峯山寺の間で、女人禁制撤廃の論議も重ねました。しかし様々な意見の末に結界撤廃は見送りとなり、現在に至っています。

私たちは決して軽々しく結論を出そうとしたわけではありません。50回以上の会議を開いて議論に議論を重ねた上でのことでした。あれだけの準備をしてなお、結果として撤廃に至らなかったのは、やはりご本尊様が「まだその時期ではない」とおっしゃったのだと私は今では考えています。

いずれまた同じ議論がなされる日が来るかもしれません。ただ、山の修行を真摯に考えている人以外の意見は、禁制論議とは別のところでお願いしたいものです。信仰上の問題はあくまで信仰者の手で乗り越えなければいけないのです。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日 新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを加筆転載致しました。

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大峯山の女人禁制については、以前に、『山伏入門―人はなぜ修験に向かうのか? (淡交ムック)』淡交社刊(2006/03)で「女性と修験道」という一文を書いたことがあります。9月にFBや本校でも再アップしていますが、よろしければご参照下さい。
 ↓
http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-2c4d.html

                              
*写真は洞川の女人結界門。

「人生あおによし⑬⑭」

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「人生あおによし⑬⑭」
 ~田中利典著述集271116

⑬金剛蔵王権現の怒りと救世

蔵王堂の秘仏金剛蔵王大権現は、ほぼ同じ形相のお姿で三体で祀られています。三尊は釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩が本地(元のお姿)で、それぞれが過去、現世、未来を司る守護仏です。

白鳳の昔、金峯山上で千日間の苦行に入られた役行者が、衆生を三世に渡って救済するご本尊の出現を願い、それに応えてお姿を示されました。しかしいずれも柔和なお姿なのでさらに勇ましいご本尊の出現を念じられたところ、三尊が変化して、大憤怒の形相で現れたのが蔵王権現なのです。顔を怒らせ、右手に三鈷杵を打ち振るい右足で虚空を蹴る、悪魔降伏のお姿。この恐ろしい姿で過去現世未来をお守り下さっているのです。

一人の人間の一生にも三世は存在します。なのに死んだら終わりだと考えている人のなんと多いことか。この世でこしらえた罪は未来永劫背負うことを知るべきです。寿命が延びたといってもたかだか80年、三世で考えなければ今生を正しく生きる意味は見いだせません。

文明社会がまきちらした環境破壊という災禍に怯える時代に、蔵王権現様は人間の愚かさを怒っているのではないでしょうか。怒りは大いなるエネルギーの発現です。そして怒りの形相は衆生済度の姿でもあるのです。

⑭吉野の桜 

吉野の桜は日本一の名所として誰もが耳にしたことがあるかと思います。しかし、それが修験道の信仰の現れであることをどれだけの人がご存じでしょう。

役行者は本尊金剛蔵王権現を祈り出し、その姿を山上ケ岳の山頂(山上)と山麓の吉野山(山下)にお祀りになりました。これが金峯山寺の濫觴です。明治の神仏分離修験道廃止の法難では明治7年から一時廃寺となりましたが、山上本堂は大峯山寺として、金峯山寺は山下本堂を中心に旧態の仏寺に復興し今日に至っています。

役行者は祈り出した蔵王権現を山桜の木に刻んで祀られたと伝えられています。ですから山桜はご神木として大切に守られてきました。「桜一本首一つ、枝一本指一つ」と言われ、枯れ木でさえ薪にすると罰が当たるとされました。また参詣する人たちも献木し続けてきました。その積み重ねでできたのが桜の名勝地吉野山なのです。山中を歩いていると人が寄りつけない岩角や谷間にも桜が育っていることがあります。烏がついばんで運んだのでしょう。

山を埋め谷を埋め、全山が見渡す限りの桜は霞か雲か、夢のようです。その景色は長い時代に繰り返された、吉野という地の、信仰の積み重ねであることを心の隅に置いて眺めていただけたらと思います。

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今日は出雲からの配信です。

*写真は蔵王権現さま(金峯山寺蔵)。

「人生あおによし⑪⑫」

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「人生あおによし⑪⑫」
 ~田中利典著述集271115

⑪自然の脅威

天変地異が続きますね。先日噴火した御嶽山は役行者が開山したと伝わっています。火山性の微動が続く東北の蔵王山も金峯山寺の蔵王権現を勧請した由縁による呼称です。蔵王権現が自然の災いを鎮める力があると信じられ、修験道が荒ぶる自然と正面から祈りを通じて対峙してきたことの証左と言えるでしょう。

東日本大震災や福島の原発事故の後、しきりに「想定外」という言葉が使われていたのが気になりました。自然はもとより想定できるものではありません。日本は四季の豊かな国ですが、自然の恩恵と脅威は常に背中合わせです。地震や津波、噴火を人間は止めることができないのです。災害は脅威ですが、だからといって自然そのものに善悪があるのではなく、自然は常に「おのずからある」ものなののです。自分たちの勝手な物差しで自然を図ろうとせず、人間は自然の前で無力だということを忘れてはならないでしょう。

金峯山寺では東日本大震災後の1年間、地震が発生した午後2時46分に毎日鐘を突いて、これ以上の猛威を振るわないよう祈りを続けました。修験道の教えの根本には常に自然への畏怖の念があります。神仏に守られているという謙虚な自覚を持ち、発展のあり方を問い直し、自然との付き合いをもう一度見直すために、いまこそ、修験道が1300年にわたって蓄えてきた知恵を活かすときを迎えているといっていいのではないでしょうか。

⑫役行者

修験道の開祖は役小角、尊称して役行者と呼びます。飛鳥時代後期に大和・葛城山麓に住んだ山林行者です。空を飛んだとか、鬼神を使役したとか超人的な伝説が残っていますが、架空の人ではありません。続日本紀にも正しく名前が残っています。

その役行者が根本道場と定めたのが大峯山であり、開いたのが修行道が大峯奥駈道です。大峯の峰中には役行者が金剛蔵王権現を祈り出した霊地山上ケ岳をはじめ、役行者由緒の場所や伝承が数多く伝わっています。

遺訓と伝わるものに「身の苦によって心乱れざれば、証果自ずから至る」(役行者本記)という言葉があります。体の苦痛に屈せずに心を磨けば、自然に成果が得られるということでしょう。その究極は自らの心の高みを得ることです。山に入って修行に明け暮れ、滝に打たれて痛みを感じる。体で体験して精神を高めてゆく。その修行のありようは、実は万人向けのものです。実体感を失いつつある現代社会に大きな問いかけを与えてくれます。

肉体の快楽を求めすぎ、心のあり方が置き去りにされがちな文明社会にあって、実践性を重視する修験道は、大いに現代的な役割を感じます。精神と肉体の正常な関係は、自らの実践と体験の中でしか取り戻し得ないと私は考えています。そこが修験道の新しい使命と可能性なのです。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日 新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを加筆転載致しました。

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連載も後半に突入・・・。まだまだ続きます。

*写真は役行者さま(金峯山寺蔵)。

「人生あおによし⑨⑩」

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「人生あおによし⑨⑩」
 ~田中利典著述集271114

⑨一千座護摩供

平成5年6月、金峯山寺を一時休職し、私は自坊で4カ月にわたって毎日護摩を焚き続ける「一千護摩供」を発願しました。

午前1時半に起床して水垢離を取り、3時、4時半、6時と護摩行を行じます。法楽勤行して、一汁一菜の朝食を取り、更に午前8時、9時半、11時と護摩行を続け、昼食後も午後2時、3時半、5時と修法します。最後の法楽を終えると午後7時を回ります。夜食は取りません。一日2食。就寝は9時半で平均4時間の睡眠です。

加えて最後の百座行では五穀と塩を断ちました。三間四方のお堂で護摩を修すると、夏の堂内は60度以上の灼熱地獄になり、大量に汗をかきます。さらに体力が落ちました。ですが、それとは逆に気力は充実し、体は軽くなりました。役行者は空を飛んだという伝説がありますが、塩を断ち続ければ人は誰でも飛べるかもと思ったものです。

体重は15㌔減りました。満行日は多くの方に祝っていただき、へなちょこな行者を守って下さったご本尊のお陰であると感涙にむせびました。

実は千回も護摩を焚き続けたのに一度もご本尊との一体感は得られず、雑念ばかりを燃やし続けたようなことでした。しかし金峯山寺に戻ってからは修験三本山合同や役行者霊場会の設立、吉野大峯の世界文化遺産登録、修験道大結集、紀伊山地三霊場会発足など次々と大きな事業を成就させることが出来ました。「修行しても何にもならん」と悟った護摩供でしたが、今から振り返るととてつもなく大きな力を与えていただいたのかもしれません。

⑩修行と法力

「あなたは修験者か」と聞かれてたじろぐことがあります。確かに山を行じているので山伏ではありますが、験力、いわゆる不可思議な力を修めた者を修験者と言うなら、大した力のない私は厳密には修験者とは言えないことになります。

とはいえ不可思議な経験をしていない訳ではありません。一千座護摩供の修法中は、行中に何度も金粉が降ったことがありますし、病気平癒の効験も驚くほどありました。

験力の効果ばかりを目指すのは邪道ですが、山修行をしない山伏、験力のない修験者では話になりませんよね。魔や邪気を祓い、護摩を焚き、霊符を使いこなすことも山伏の大切な役割です。何だか怪しい妖術師のように思われるかもしれませんが、山やお堂で厳しい修行をするのは市井の人の願いに応じるためでもあるのです。

私は京都府下の田舎町、綾部にある自坊林南院の住職としても、信徒のみなさんの加持祈禱や回向法要、運勢判断や家相の相談に、個別に応じています。悪霊が見えたりはしませんが、人にまつわりつく雰囲気の良し悪しを見分ける程度の力はあります。

占いも当てずっぽうではなく、事情を聴きながら感応を得て相手にふさわしい形で伝えます。いわば霊的なカウンセリングです。まじないや占いが空前のブームですが、こんな時代にこそ、修行で培った力で庶民の願いに向き合ってきた修験道の大いなる可能性を感じます。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日 新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを若干の加筆訂正して転載致しました。

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今日で10日分の転載です。あと10回分あり、まだまだ続きます。今までの私の集大成ともいえる連載ですから・・・。もうしばらくお付き合いください。

*写真は22年前の「一千座護摩供」修行中のひげもじゃな私です。

「人生あおによし⑦⑧」

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「人生あおによし⑦⑧」
 ~田中利典著述集271113

⑦奥駈の1日(下)

奥駈の初日は夜9時に床に就きます。2日目は朝3時起床、4時に山上本堂前で勤行をし、弥山山頂を目指し出立します。3日目には大峯山系で最も高い1915メートルの八経ケ岳を登頂、晴れた日には360度さえぎるもののない絶景に歓喜します。釈迦ケ岳からは下りが続き、脚を痛める人も多く、私もひどい目にあった経験があります。前鬼山に至って3日目を終え、前半行が満行となります。長期の休みを取れない人を考慮するためです。

峻険な登り道にかかると、先達の号令で「さーんげさんげ、ろっこんしょうじょう!」という掛け念仏の大合唱が始まります。「さんげ」とは懺悔、六根清浄は眼耳鼻舌身意の感覚器官を清らかにするという意味です。一心不乱に声を出して体を前に進めるうちに、身も心も掛け念仏に同化していくのです。

後半の南奥駈道は、1日休んでバスで上北山村浦向まで移動し、ここからは女性の行者らも合流します。5日目は林道を使い行仙の山小屋まで直登して奥駈道に復帰します。6日目は上葛川から玉置神社、そして7日目には最終地熊野本宮に至ります。健脚組は夜半に玉置を出て山中を行きますが、別動組は下山してバスで本宮に入ります。

現代的にアレンジされてはいますが、千年以上前から続く荒行であることは間違いありません。

⑧奥駈で見えるもの

国土の大半を山が占める我が国では、山は古代から神仏や祖霊がいます世界と考えられ、畏れをもって仰ぎ見てきました。修験者にとって山は神仏の顕現であり、その聖なる世界に入って行ずるのが奥駈修行なのです。我が身の罪を懺悔して、神仏にひれ伏します。汗や脂が体から流れ出て、眼耳鼻舌身意の六根が聖なる山に浄化される実感を得るのです。現代風に言い換えれば、神仏によって「癒やされる」一時と言えます。

修験道はどこまでも実践の宗教です。先達曰く「足に豆が出来てもかばうと膝を痛めます。かばわず歩き続ければやがて痛みが快感に変わりますよ」。むちゃに聞こえる先達のそんな助言が本当のことだとわかるには、実践してみるしかないのです。

修験道の教義書の多くは、「本覚」という簡単に言えば人は本来的に悟っているという立場で書かれています。ところが煩悩悪業の塵によって心身が覆われているため、迷う凡夫に身をやつしているのだというのです。命がけの入峰修行によってその塵を振り払うのが修行の肝心です。

そう考えると、現在の簡便な山上参りが本義から形を変えていることが気になります。山上参りを何回したとか、奥駈を何度行じたとか、そんなことは問題ではないのです。いかに懺悔の心を持って行に臨めたか、それのみを問わなければならないと私は思います。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日 新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを転載致しました。

*************

*写真は大峯奥駈修行を行じる行者一行です。

「人生あおによし⑤⑥」

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「人生あおによし⑤⑥」
 ~田中利典著述集271112

⑤大峯奥駈

修験を代表する修行である大峯奥駈修行は、大峯山脈伝いに170キロを跋渉する修行です。役行者以来、山伏修行の中でも、最も尊ばれた修行道です。

吉野・大峯とその地で伝承された修験道の営みを知ることは、神と仏を分け隔てなく拝み、大自然とともに育まれた日本の基層の文化と宗教に触れることであり、大げさに言えばそれは日本人のアイデンティティーを取り戻すことにさえつながると私は思っています。

大峯修行は靡(なびき)と称される山中の拝所を中心に行じられます。靡とは役行者の法力に草木も靡いたという意味があり、修験道にまつわる神仏が出現する地、あるいは霊地とされます。大峯修行成立時には峰中に百以上の拝所が定められていたようですが、徐々に集約されて、中世末には75カ所になりました。奥駈修行とはその大峯七十五靡の一つ一つに祈りを捧げる修行です。

近世以降は吉野山から大峯山上ケ岳へ参詣する山上参りが庶民にも広がりました。そこで、山上ケ岳よりさらに厳しい奥に入る修行が「奥通り」と称され、大峯奥駈修行と呼ばれるようになっていきます。

⑥奥駈の1日(上) 

では奥駈の修行が実際にどのようなものかをお話ししましょう。私が行じた奥駈は吉野から熊野本宮まで7泊8の行程日です。

1日目は朝4時、蔵王堂を出立します。水分神社、金峯神社では新客と呼ぶ初参加の人々の行を行い、本格的な山修行になります。11時間24キロの行程を黙々と山上ケ岳へ向けて行じます。途中からは急峻な岩場が続きます。先達の指導に導かるまま、もくもくと行じます。

山上ヶ岳表の行場「西の覗き」は先達の指示に促され、断崖絶壁の岩場からロープで吊される捨て身の修行を課せられます。「親孝行するか」と一喝されて、たいていの人は縮み上がって「はい」と無心に答えます。累々と続く岩を上り下りしてこの日の修行を終える先が山上本堂、大峯山寺です。標高1719メートルの山頂ですが、重要文化財の本堂や寺務所、参籠所などの伽藍が並ぶ別天地です。

ー本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日 新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを転載致しました。

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本稿は新聞掲載原稿と少し違っています。字数の関係で削った部分などを補足しました。

ただ、担当記者の古澤さんにまとめていただいた短い原文の方がいいかもしれませんね。文章力のない私はついつい饒舌になってしまい、かえって文意を損ねているかもしれません (^_^;) 

*写真は大峯奥駈修行、小篠の宿での勤行です。

「人生あおによし③④」

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「人生あおによし③④」
 ~田中利典著述集271111

③高校時代と大学時代

高校は、父が懇意にしていただいていた金峯山修験本宗管長の五條順教猊下に薦められて滋賀県大津の延暦寺末・比叡山高校に進みました。そして夏休みには猊下の自坊・吉野山宿坊東南院で手伝いをし、修験者の方々と接する機会も増えました。そうした中で自分もこの道に進むことが少しずつ固まっていったように思います。

父は一度も跡を継げと言ったことはありませんでしたが、四柱推命の達人だったので、早くから私の行く末を見抜いていたのかもしれません。

私が高校を出るころには自宅を解体して、信者さんとともに新寺「林南院」を開きました。一代限りではなく、跡取りが出来たと思ったから自坊建立を発願したのでしょう。

高校に入ると周囲は天台宗末の檀家寺の跡取りが大半でした。在家主義の修験道を一段も二段も下に見る風潮があり、いらだちを覚えたものです。

確かに修験者の7割は専業のお坊さんというより、常は別の仕事を持っています。ですが資格を取ったら修行は終わりという檀家寺の僧侶も少なくない中で、山に入って修行を続ける修験者が宗教者として劣っていると思いません。むしろ檀家の相手ばかりで世間に目を向けない、生臭さな僧侶が多いのも事実です。

叡高を出た後は1年間、東南院で随身生活を送り、その後、京都の龍谷大学に進みました。学生時代は酒を飲んで酔っ払っては道ばたで寝たりして、高校や随身生活の不自由さから解き放たれて、あまり勉強もせず、自由奔放に過ごしました。ですが龍大は南都の僧侶のOB方が多く、その人脈は今でも様々な場面で役立っています。

④金峯山寺へ

大学卒業後に叡山学院専修科を出て、本山の金峯山寺に入寺し、機関誌担当の事務職を勤めることになりました。学生時代に、内側ばかりを向きがちな伝統仏教界のあり方に疑問を感じていましたが、同じことは金峯山寺でも言えました。

たとえば「一般公募」の修行会参加者募集は宗門の機関誌にしか載せられていませんでした。それでは信者さんしか読みません。すぐに宗教系の総合雑誌やホームページ、近鉄のチラシなどで告知をしたところ、大きな反響がありました。

金峯山寺や修験道のすばらしさを一般の人に伝えたいというのが私の思いです。どうすればよいか相談した方々に「薬師寺の高田好胤さんのような人が出ないとダメだ」と言われました。お寺の認知を弘めるのは人物が前に出て初めて周知されるのだということです。とても好胤さんのまねはできませんが、私は私なりにやれることをやっていこうとそれ以来努めています。

45歳で宗務総長の大役を仰せつかり、各地で講演する機会も増えました。私的なサイト「役行者ファン倶楽部」も早くに立ち上げ、今年は5冊目の拙著となる「修験道入門」(集英社新書)も出版しました。修験道の本当のすばらしさは体験しなければ分かりませんが、あらゆる手段で多くの人に知っていただく努力を続けていければと思っています。

  ~本稿は平成27年11月9日から29日まで、朝日新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを一部加筆訂正して、転載して連載します。明日に続きます。

 
*1 写真は自坊林南院の全景
*2 今日から2日分づつ、掲載します。

「人生あおによし②/山伏への道のり」

「人生あおによし②/山伏への道のり」
 ~田中利典著述集271110

私の父・田中得詮は国鉄の職員でした。趣味だった山修行が高じて祈禱師になりました。成長してから母から聞いた話ですが、私が1歳半の時、ひどい肺炎にかかり、医者にも見放されました。母に「自分の子も祈禱で守れないなんて」と責められた父は、蔵王権現様に「この子が5歳になったら山上にお連れします」と願を掛け、私は奇跡的に助かったそうです。その願の通りに5歳で父に連れられて山上ケ岳に登拝し、以来、毎年欠かしたことはありません。

とはいえ父の跡を継ぐつもりはありませんでした。子どもの頃は「拝み屋さんの子」と呼ばれるのがとても嫌でした。ですが懸命に人のために祈っている父のことは尊敬していました。今にして思えばそれは菩薩行であり、糊口をしのぐ商売とする「拝み屋」とは違うものだったのです。

正直言って山修行は好きではありませんでした。ただ、毎年歩いていると同じ道なのに変わっていることに気づきます。それは自分が変わっているのです。毎年の自分が違うのです。気づきを与えてくれるありがたさが少しずつ分かってきました。足の痛みをこらえていれば快感に変わります。心で心を変えるのは難しいですが、自分を超えた大きな力を感じて歩けば心を整えることができるのです。

ー本稿はちょうど一年前、平成27年11月9日から29日まで、朝日 新聞奈良総局の「人生あおによし」で連載されたものを一部加筆訂正して、転載して連載します。次号に続きます。

「人生あおによし①/修験道 いまこそ出番」

「人生あおによし①/修験道 いまこそ出番」
 ~田中利典著述集271106

ちょうど昨年の今日から、朝日新聞奈良総局の名物コラム「人生あおによし」で取材していただき、全20回の連載でした。今日から再度、アップします。よろしければご覧ください。

一挙に読みたいという方は以下のサイトにアップされています。登録が必要ですが・・・。
http://www.asahi.com/area/nara/articles/list3000049.html

******************************

皆さんは山伏というとどんな人物を思い浮かべますか。山野を駆け巡って一生を送る行者でしょうか。あるいは俗人の願いに応じて加持祈祷(きとう)をする姿でしょうか。実は、そのいずれもが山伏の大切な修行であり実態と言えます。

私はいま山伏の寺・吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)で宗務総長という実務を束ねる役職にあり、また京都府下にある自坊でも住職として加持祈祷や信者さんの相談事に携わっています。さらに講演や会議で各地を回ることも多く、いわば典型的な「里山伏」といってよいでしょう。

しかし毎年何回か大峯山中に入って修行をすることは欠かしたことがありません。いや忙しいのを理由に山に入ることが少なくなると体の調子を崩したりします。若いころは過酷な山修行は体に悪いと思っていましたが、過剰な負荷を掛けることで逆に体が目覚めるのかもしれません。

人々の悩みや願いに対応するには、厳しい山修行で培う法力が必要です。ですが里で悩みを持った人にばかり相対していると、自分自身の気力が奪われ、力がすり減ってきます。だから自ら邪気を払い、気の濁りをリセットして再び法力を高める山修行が必要になるのです。常に山の修行と里の行を循環する、それが山伏の活動なのです。

修験道は一言で言えば山の宗教、山伏の宗教です。難しく言えば日本古来の山岳信仰に神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが混淆(こんこう)して成立した日本固有の民俗宗教と言えます。山を歩く、神や仏に礼拝する、滝に打たれる、瞑想(めいそう)する、これ全てが山伏の修行であり、体を使った実践修行です。実修実験の道が修験道。理屈ではなく五体を通して実際の感覚を体得し、それによって心を高めて覚(さと)りを目指す宗教なのです。

吉野から熊野にかけて紀伊半島の中心を背骨のように貫くのが霊峰大峯山脈。修験道の開祖・役行者によって開かれた最高にして最大の根本道場とされています。

大峯山山上ケ岳は今も女人禁制の霊山として知られます。その一帯を含む、北端の吉野山から南端の熊野本宮に至るまで1500メートル級の山々が続く山脈を尊称して大峯山と呼称します。修験道の聖地中の聖地です。

また、吉野山から山上ケ岳に至る山々を金峯山と呼びます。吉野金峯山は役行者が修験道独特のご本尊金剛蔵王権現を山上ケ岳で祈り出されたという伝承によって、修験道発祥の地として山伏修行の根本道場となりました。

その修験道は明治初期に徹底的な弾圧を受けます。以後、徐々に復興はしたものの、いまだ宗教史の中で異端のように扱われるのがとても残念です。私は、文明社会が行き詰まりを見せている現代にこそ、自然を畏(おそ)れ敬い、肉体を使って心を整える修験道という宗教の、まさに出番だと考えています。

10年前、吉野大峯を含む「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。これは私が提唱する「修験道ルネサンス」の幕開けだと思っています。

1300年の歴史をもつ修験道が、文明社会になぜいま必要とされるのか。私の半生を語りながら、お伝えしたいと思います。(全20回、構成・古沢範英)

ー朝日新聞奈良総局平成26年11月9日から11月29日まで連載

「加持祈祷の根源は三力」

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「加持祈祷の根源は三力」

 ~田中利典著述集271106

行者の心得のひとつ、「信」について、より具体的に説明します。修験道では「三力」といって、如来加持力(仏様の力)と修行者の行力(功徳力)、そして衆生の信力(法界力)、この三つの力がそろうことによって加持祈祷の願いが成就すると考えます。

ですから、行者の力、「誠の心」をもってさえすればなんでも叶うというわけではないのです。しかし、行者がしっかりと修行して人格も行力も優れていれば、衆生の信じる力も高まりやすいといえます。神仏の力も正しく得られるでしょう。とうぜん、「この人なら治してくれる」という信頼感も生まれます。そのための山修行である、そういう言い方もできるでしょう。

ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』より
http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%93%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BF%83%E3%82%92%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%81%E3%82%8B-%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%88%A9%E5%85%B8/dp/4087207382/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1400665951&sr=8-1&keywords=%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80

「修験道の時代」

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「修験道の時代」
 ー田中利典著述を振り返る271105

田中 一般に日本の仏教が庶民化したのは鎌倉仏教だと定説の様に言われている。私は修験道の出身ですから、そんなことはないだろうと思ってました。仏教伝来以来鎌倉期までずっと国家仏教でやってきたわけではなく、庶民レベルでいかされていたものがたくさんあり、そういう流れがあったからこそ、鎌倉新仏教も庶民の中に溶け込むことができたはず。

ところが、十数年前まではそういう視点を応援してくれるのは、私の周りでは久保田展弘さん(宗教研究家)一人だけだった。彼は山岳宗教の研究を長年やってこられましたから、日本の宗教・仏教・精神文化を支えてきた基層の部分には山岳信仰なり、役行者以来の修験道的なものが根底としてあったと主張していただいていた。そして最近は正木先生に大応援団になっていただき心強くしているところです。

正木 オウム問題から考えると、オウム裁判に関わって膨大な資料を読んできたんですけど、彼等は最終段階で一切の有機物を食物として摂取しないという方向を選び、全部無機物から合成しようとしていた。一切の有情を害することなく生きようという方向へ行った。その彼等がなぜ無差別テロに走ったか、この間の矛盾というのはすさまじいものです。その間のギャップは何か。やはりキーワードになってくるのは「自然」だと思う。

つまり彼等は自然と完全に切れた形で生きようとしたわけです。他の生命体を可能な限り傷つけないで生きたいけれど、他の生命体の犠牲の上にしか人間は生きられない。だからこそその痛みを直視しつつ生きるというのが、仏教の根本的な認識です。ところがオウムの場合はその根本的な認識がどこかではずれてしまった。自分達は一切のものを傷つけずに生きられるという妄念にとりつかれたために、それを邪魔する存在は無差別に殺しても何ら痛まないというとんでもない論理が導き出されたような気がするんです。
その意味で自然とどう関わっていくかということを考えた時に、日本には色んな宗派がありますが、自然との関わりが一番強く、かつ一番自然がなければ成立しないのは修験道でしょう。

私はもともとは国際法の宇宙法に関わっていまして論文も書いたのですが、21世紀の最大のテーマの一つはエコロジーなのです。そのエコロジーという観点から見た時、日本の仏教を総点検すると最有力の力になるのは修験道です。もちろん密教というのもありますが、具体的な基盤としては修験道。その意味で吉野・熊野・高野山が昨年7月1日、世界遺産に登録されたのも偶然ではないと思う。あの地域が、神と仏と自然が神道・密教・修験道という形で一体化したのは偶然ではないという気がしますし、21世紀という時代が求めていたものがそこに結集している。その意味で私は修験道に大変期待しています。

田中 私は亡父に導かれて山の修行をするようになりました。もし山伏にならなかったら一生山になんか行かなかったかもしれない。で、高校・大学と天台宗・浄土真宗という宗門系の学校で仏教を学びます。大学を出た後、山に何度か行くうちに、同じ道を同じ様に毎年歩く修行の中で、大学で学んだ仏教ではなしに、もうちょっと原初的な、心に沁み込んでくるようなものを感じます。エコロジーも息づいているし、原理的でないもっと日本人的な、感性に訴えてくるような、霊性に訴えてくるようなものが山にはあって、山に鍛えられることによって見えてきたものがありました。

オウムや引きこもりをはじめ、近年、日本社会の中で色んな問題が起きているけれども、自然から切り離され、神と仏から遠ざけられて、あたかも人間が独りで勝手に存在しているかの如き価値観をもってしまっているところに大きな原因がある。日本人は自然と深い関わりの中で自然の恵みに感謝しながら、自然の一部として生きていることを知っている民族であったし、常に神と仏を側において、聖と俗を行き来しながら生きてきた。現代の宗教で損なわれたものが山の宗教の中では体感できるのです。

今、たくさんの方が大峯の奥駈修行においでになります。例えば50歳まで大手商社で働いていた人が途中で辞めて山伏になったりします。そんな世界を飛び回るような仕事をしていた人も山修行をした時には、今までとは違う新しい自分に出会う、そういう力が山や修行の中にあるのです。

普通、伝統教団で何かの修行をする時は教団内での資格を問うわけですが、奥駈修行にしても入峯修行にしても特別な資格がなければ参加できないというものではない。誰でも発心があれば参加できる。参加型の、敷居の低い、プロとアマが行き来できるような部分がある。これはもしかすると修験道がもっている一番の特徴かもしれない。

山に行くと、頭の中で考えたことが全部とれてしまうほど身体をいじめる。ただいじめるだけでなく、そこに神仏がいることを前提に修行し、大自然の中で神仏が体験的に分かってしまう凄さがある。人間はややもすると脳だけで生きていると錯覚するところがあるが、決して脳だけで生きているわけではなく、身体を伴って生きている。その身体を変えることで心を変えることができる。心だけ変わろうとしても限界があるし、そういったことを山は体感させてくれるのです。

根本的には現代社会の中で自然と切り離されてしまった部分を、自然に入ってもう一度関わる。人間と自然とが同居する。もっと言うと、その自然は単なる自然ではなく、山伏の道場は神と仏がいることを前提としているわけですから、神仏がいて、しかも神と仏を分けない。神と仏と人間と自然が同居し、何かを自分の中に生んでくれる。

そういうことが修験道がもっている猥雑な部分と重なり合って、…明治の近代化以降は猥雑であることがさも低俗であるかのごとく扱われてきたことがあるけれど、それは人間の持っている多様性や、猥雑なものの中に人間の生き方の本質があるということだと思っています。そういう思いが、大きな声で今こそ修験道の時代だと私に言わせているのです・・・。
 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

***************

1日にアップした、正木先生との続きの対談です。これって、かなり長い対談なのです・・・。同じようなことをここ10年、ずっと言い続けているのがわかりますねえ。

日本「祈りと救いとこころ」学会 第2回学術研究大会

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*11月7日は日本「祈りと救いとこころ」学会 第2回学術研究大会*

自坊林南院の秋の大祭を終え、一段落ですが、実は今月は結構、怒濤の日々。
講演会やシンポの出演が目白押しなのです。有り難いことですね。
これの他にも東南院の秋季大祭出仕や、九州行きなどの予定もあり、久しぶりに頑張る一ケ月です。

以下、その予定。

・11/7  日本「祈りと救いのこころ」学会第2回学術大会講演 於東京
        △http://www.jpshm.jp/2ndmeeting/
・11/16 出雲・峰寺での講演 於島根県
・11/22 京都造形芸術大学秋の収穫祭での講演 於吉野山
・11/23 (一社)自然環境文化推進機構設立フォーラム出演 於京都・清水寺
・11/28  エコイニシアティブ学会出演 於東京・國學院大學
       △http://www.kokugakuin.ac.jp/oard/ken14_00032_271128.html
・11/29  誇り塾 於東京 (*誇り塾は会員限定です。)

このうち、日本「祈りと救いのこころ」学会第2回学術大会は当日の受付も行っています。私も初めての参加ですが、大変興味深い内容です。私は「こころの時代の修験道」と題して講演1時間、トークセッション30分の出演の依頼を受けています。

ちなみに写真は当日のパワポ。なんとか出来上がりました。

「僧侶がもどるべきところ・・・」

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「僧侶がもどるべきところ・・・」
 ー田中利典著述を振り返る271101

田中 少なくとも社会性を持つことが伝統教団に問われている。これだけ日本の社会が病んで来ているにもかかわらず、相変わらず法事と葬式ばかりで、内側しか見ていないのではしまいに誰にも相手にされなくなる。ただ社会性を持つことは社会に追随することではない。逆に言うと精神文化のリーダーとしての自覚をもって、おかしくなった日本の社会を自分達で変えていくんだというつもりでやらないといけない。リーダーたるべきあり方を問うていかなければいけない。

そうすると必然的に修行というのが欠かせない。修行性を持っていることは宗教者の根幹であり、行をする中でしか精神性を培えないものはありますから。もちろん真宗の聞法だってある種、行なのかもしれません。ただ教条主義に学ぶのではなくホントに自分の心の葛藤をそこでつくる。そういう意味では身体を伴った方がバランスをとりやすいと思います。身体を使って何かを見つけていく方がやさしいし、親切ですね。

正木 身体を使えば自ずとそうなるというのがありますから。私が考えていることはやはり祖師たちの生涯を振り返ってみるべきだと思うんですよ。念仏一本になった法然さんにしても親鸞さんにしても大変な苦労をされた。親鸞さんなんか14日間のお篭りをするわけです。そういう行の果てに専修念仏に辿りつき、その後迫害されて酷い目に遭いながらあちこち放浪するわけです。それはすさまじい行だったわけで、ですから安閑として南無阿弥陀仏だけ唱えていればいいというわけじゃないような気がするんです。

祖師の生涯はすべて共通して苦難の歴史ですよね。それは自ずから行と言わないまでも物凄い行になっている。そこに日本仏教がもう一度立ち戻る必要がある、そうすれば自ずと目に見えてくるものがある。社会性の問題でも社会に迎合することではないし、各宗派の独自性や歴史的伝統を見失うことでもない。各宗派が教義や歴史や祖師の生き方、行を生かしつつそれぞれが独自の行動をすべき。そのためにはお坊さんが自覚して欲しい。たぶん自覚するためには祖師の生き方と行へ戻らざるを得ないと思う。

また、ごく普通の人達が行をしたくて仕様がない。断食・座禅・写経・写仏、命がけに近い行もありますが、いわゆる宗教の素人さんが実際に行をやりたい時代に宗教のプロが何をしているかというのもある。南無阿弥陀仏だって凄い行でしょうし、その意味でいやおうなく実践している坊さんと実践していない坊さんに一般の方から淘汰が起こってくる。そうした活動をしている寺には人が集まり、そこの檀家となり墓をつくり法要を営んでもらうという意味で経済的に豊かになるでしょう。そういうことやっていないと今の人はドライですからどんどんみきられ冗談抜きに食えなくなる。

田中 家制度が壊れていますから、檀家制度も安閑としていると必ず壊れます。今ならそれに代わるものをちゃんと打ち出せばまだ間に合うでしょう。

 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

***************

若いといえば、このことは若かったように思う。10年前だからねえ・・・といっていまがとても老けているわけではない。問題意識は持ち続けている。
 ー田中利典著述を振り返る271101

田中 少なくとも社会性を持つことが伝統教団に問われている。これだけ日本の社会が病んで来ているにもかかわらず、相変わらず法事と葬式ばかりで、内側しか見ていないのではしまいに誰にも相手にされなくなる。ただ社会性を持つことは社会に追随することではない。逆に言うと精神文化のリーダーとしての自覚をもって、おかしくなった日本の社会を自分達で変えていくんだというつもりでやらないといけない。リーダーたるべきあり方を問うていかなければいけない。

そうすると必然的に修行というのが欠かせない。修行性を持っていることは宗教者の根幹であり、行をする中でしか精神性を培えないものはありますから。もちろん真宗の聞法だってある種、行なのかもしれません。ただ教条主義に学ぶのではなくホントに自分の心の葛藤をそこでつくる。そういう意味では身体を伴った方がバランスをとりやすいと思います。身体を使って何かを見つけていく方がやさしいし、親切ですね。

正木 身体を使えば自ずとそうなるというのがありますから。私が考えていることはやはり祖師たちの生涯を振り返ってみるべきだと思うんですよ。念仏一本になった法然さんにしても親鸞さんにしても大変な苦労をされた。親鸞さんなんか14日間のお篭りをするわけです。そういう行の果てに専修念仏に辿りつき、その後迫害されて酷い目に遭いながらあちこち放浪するわけです。それはすさまじい行だったわけで、ですから安閑として南無阿弥陀仏だけ唱えていればいいというわけじゃないような気がするんです。

祖師の生涯はすべて共通して苦難の歴史ですよね。それは自ずから行と言わないまでも物凄い行になっている。そこに日本仏教がもう一度立ち戻る必要がある、そうすれば自ずと目に見えてくるものがある。社会性の問題でも社会に迎合することではないし、各宗派の独自性や歴史的伝統を見失うことでもない。各宗派が教義や歴史や祖師の生き方、行を生かしつつそれぞれが独自の行動をすべき。そのためにはお坊さんが自覚して欲しい。たぶん自覚するためには祖師の生き方と行へ戻らざるを得ないと思う。

また、ごく普通の人達が行をしたくて仕様がない。断食・座禅・写経・写仏、命がけに近い行もありますが、いわゆる宗教の素人さんが実際に行をやりたい時代に宗教のプロが何をしているかというのもある。南無阿弥陀仏だって凄い行でしょうし、その意味でいやおうなく実践している坊さんと実践していない坊さんに一般の方から淘汰が起こってくる。そうした活動をしている寺には人が集まり、そこの檀家となり墓をつくり法要を営んでもらうという意味で経済的に豊かになるでしょう。そういうことやっていないと今の人はドライですからどんどんみきられ冗談抜きに食えなくなる。

田中 家制度が壊れていますから、檀家制度も安閑としていると必ず壊れます。今ならそれに代わるものをちゃんと打ち出せばまだ間に合うでしょう。

 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

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若いといえば、このことは若かったように思う。10年前だからねえ・・・といっていまがとても老けているわけではない。問題意識は持ち続けている。

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