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「僧侶がもどるべきところ・・・」

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「僧侶がもどるべきところ・・・」
 ー田中利典著述を振り返る271101

田中 少なくとも社会性を持つことが伝統教団に問われている。これだけ日本の社会が病んで来ているにもかかわらず、相変わらず法事と葬式ばかりで、内側しか見ていないのではしまいに誰にも相手にされなくなる。ただ社会性を持つことは社会に追随することではない。逆に言うと精神文化のリーダーとしての自覚をもって、おかしくなった日本の社会を自分達で変えていくんだというつもりでやらないといけない。リーダーたるべきあり方を問うていかなければいけない。

そうすると必然的に修行というのが欠かせない。修行性を持っていることは宗教者の根幹であり、行をする中でしか精神性を培えないものはありますから。もちろん真宗の聞法だってある種、行なのかもしれません。ただ教条主義に学ぶのではなくホントに自分の心の葛藤をそこでつくる。そういう意味では身体を伴った方がバランスをとりやすいと思います。身体を使って何かを見つけていく方がやさしいし、親切ですね。

正木 身体を使えば自ずとそうなるというのがありますから。私が考えていることはやはり祖師たちの生涯を振り返ってみるべきだと思うんですよ。念仏一本になった法然さんにしても親鸞さんにしても大変な苦労をされた。親鸞さんなんか14日間のお篭りをするわけです。そういう行の果てに専修念仏に辿りつき、その後迫害されて酷い目に遭いながらあちこち放浪するわけです。それはすさまじい行だったわけで、ですから安閑として南無阿弥陀仏だけ唱えていればいいというわけじゃないような気がするんです。

祖師の生涯はすべて共通して苦難の歴史ですよね。それは自ずから行と言わないまでも物凄い行になっている。そこに日本仏教がもう一度立ち戻る必要がある、そうすれば自ずと目に見えてくるものがある。社会性の問題でも社会に迎合することではないし、各宗派の独自性や歴史的伝統を見失うことでもない。各宗派が教義や歴史や祖師の生き方、行を生かしつつそれぞれが独自の行動をすべき。そのためにはお坊さんが自覚して欲しい。たぶん自覚するためには祖師の生き方と行へ戻らざるを得ないと思う。

また、ごく普通の人達が行をしたくて仕様がない。断食・座禅・写経・写仏、命がけに近い行もありますが、いわゆる宗教の素人さんが実際に行をやりたい時代に宗教のプロが何をしているかというのもある。南無阿弥陀仏だって凄い行でしょうし、その意味でいやおうなく実践している坊さんと実践していない坊さんに一般の方から淘汰が起こってくる。そうした活動をしている寺には人が集まり、そこの檀家となり墓をつくり法要を営んでもらうという意味で経済的に豊かになるでしょう。そういうことやっていないと今の人はドライですからどんどんみきられ冗談抜きに食えなくなる。

田中 家制度が壊れていますから、檀家制度も安閑としていると必ず壊れます。今ならそれに代わるものをちゃんと打ち出せばまだ間に合うでしょう。

 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

***************

若いといえば、このことは若かったように思う。10年前だからねえ・・・といっていまがとても老けているわけではない。問題意識は持ち続けている。
 ー田中利典著述を振り返る271101

田中 少なくとも社会性を持つことが伝統教団に問われている。これだけ日本の社会が病んで来ているにもかかわらず、相変わらず法事と葬式ばかりで、内側しか見ていないのではしまいに誰にも相手にされなくなる。ただ社会性を持つことは社会に追随することではない。逆に言うと精神文化のリーダーとしての自覚をもって、おかしくなった日本の社会を自分達で変えていくんだというつもりでやらないといけない。リーダーたるべきあり方を問うていかなければいけない。

そうすると必然的に修行というのが欠かせない。修行性を持っていることは宗教者の根幹であり、行をする中でしか精神性を培えないものはありますから。もちろん真宗の聞法だってある種、行なのかもしれません。ただ教条主義に学ぶのではなくホントに自分の心の葛藤をそこでつくる。そういう意味では身体を伴った方がバランスをとりやすいと思います。身体を使って何かを見つけていく方がやさしいし、親切ですね。

正木 身体を使えば自ずとそうなるというのがありますから。私が考えていることはやはり祖師たちの生涯を振り返ってみるべきだと思うんですよ。念仏一本になった法然さんにしても親鸞さんにしても大変な苦労をされた。親鸞さんなんか14日間のお篭りをするわけです。そういう行の果てに専修念仏に辿りつき、その後迫害されて酷い目に遭いながらあちこち放浪するわけです。それはすさまじい行だったわけで、ですから安閑として南無阿弥陀仏だけ唱えていればいいというわけじゃないような気がするんです。

祖師の生涯はすべて共通して苦難の歴史ですよね。それは自ずから行と言わないまでも物凄い行になっている。そこに日本仏教がもう一度立ち戻る必要がある、そうすれば自ずと目に見えてくるものがある。社会性の問題でも社会に迎合することではないし、各宗派の独自性や歴史的伝統を見失うことでもない。各宗派が教義や歴史や祖師の生き方、行を生かしつつそれぞれが独自の行動をすべき。そのためにはお坊さんが自覚して欲しい。たぶん自覚するためには祖師の生き方と行へ戻らざるを得ないと思う。

また、ごく普通の人達が行をしたくて仕様がない。断食・座禅・写経・写仏、命がけに近い行もありますが、いわゆる宗教の素人さんが実際に行をやりたい時代に宗教のプロが何をしているかというのもある。南無阿弥陀仏だって凄い行でしょうし、その意味でいやおうなく実践している坊さんと実践していない坊さんに一般の方から淘汰が起こってくる。そうした活動をしている寺には人が集まり、そこの檀家となり墓をつくり法要を営んでもらうという意味で経済的に豊かになるでしょう。そういうことやっていないと今の人はドライですからどんどんみきられ冗談抜きに食えなくなる。

田中 家制度が壊れていますから、檀家制度も安閑としていると必ず壊れます。今ならそれに代わるものをちゃんと打ち出せばまだ間に合うでしょう。

 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

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若いといえば、このことは若かったように思う。10年前だからねえ・・・といっていまがとても老けているわけではない。問題意識は持ち続けている。

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コメント

「葬式仏教は死なない」も読ませて頂いて、子供の時分に、法事のたびに、お坊さんや祖父らから、「古いおじいちゃんたちは総代(?)をして、お寺のことを一生懸命にした」というような話を聞いたことを思いだし、自分はお寺に何一つしないで嫁いだことを反省しています…お葬式や追善供養のときだけ…というような関係は、寂しく残念に思います…

豆しばさん、丁寧に読んで頂きありがとうございます。

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