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「修験道の時代」

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「修験道の時代」
 ー田中利典著述を振り返る271105

田中 一般に日本の仏教が庶民化したのは鎌倉仏教だと定説の様に言われている。私は修験道の出身ですから、そんなことはないだろうと思ってました。仏教伝来以来鎌倉期までずっと国家仏教でやってきたわけではなく、庶民レベルでいかされていたものがたくさんあり、そういう流れがあったからこそ、鎌倉新仏教も庶民の中に溶け込むことができたはず。

ところが、十数年前まではそういう視点を応援してくれるのは、私の周りでは久保田展弘さん(宗教研究家)一人だけだった。彼は山岳宗教の研究を長年やってこられましたから、日本の宗教・仏教・精神文化を支えてきた基層の部分には山岳信仰なり、役行者以来の修験道的なものが根底としてあったと主張していただいていた。そして最近は正木先生に大応援団になっていただき心強くしているところです。

正木 オウム問題から考えると、オウム裁判に関わって膨大な資料を読んできたんですけど、彼等は最終段階で一切の有機物を食物として摂取しないという方向を選び、全部無機物から合成しようとしていた。一切の有情を害することなく生きようという方向へ行った。その彼等がなぜ無差別テロに走ったか、この間の矛盾というのはすさまじいものです。その間のギャップは何か。やはりキーワードになってくるのは「自然」だと思う。

つまり彼等は自然と完全に切れた形で生きようとしたわけです。他の生命体を可能な限り傷つけないで生きたいけれど、他の生命体の犠牲の上にしか人間は生きられない。だからこそその痛みを直視しつつ生きるというのが、仏教の根本的な認識です。ところがオウムの場合はその根本的な認識がどこかではずれてしまった。自分達は一切のものを傷つけずに生きられるという妄念にとりつかれたために、それを邪魔する存在は無差別に殺しても何ら痛まないというとんでもない論理が導き出されたような気がするんです。
その意味で自然とどう関わっていくかということを考えた時に、日本には色んな宗派がありますが、自然との関わりが一番強く、かつ一番自然がなければ成立しないのは修験道でしょう。

私はもともとは国際法の宇宙法に関わっていまして論文も書いたのですが、21世紀の最大のテーマの一つはエコロジーなのです。そのエコロジーという観点から見た時、日本の仏教を総点検すると最有力の力になるのは修験道です。もちろん密教というのもありますが、具体的な基盤としては修験道。その意味で吉野・熊野・高野山が昨年7月1日、世界遺産に登録されたのも偶然ではないと思う。あの地域が、神と仏と自然が神道・密教・修験道という形で一体化したのは偶然ではないという気がしますし、21世紀という時代が求めていたものがそこに結集している。その意味で私は修験道に大変期待しています。

田中 私は亡父に導かれて山の修行をするようになりました。もし山伏にならなかったら一生山になんか行かなかったかもしれない。で、高校・大学と天台宗・浄土真宗という宗門系の学校で仏教を学びます。大学を出た後、山に何度か行くうちに、同じ道を同じ様に毎年歩く修行の中で、大学で学んだ仏教ではなしに、もうちょっと原初的な、心に沁み込んでくるようなものを感じます。エコロジーも息づいているし、原理的でないもっと日本人的な、感性に訴えてくるような、霊性に訴えてくるようなものが山にはあって、山に鍛えられることによって見えてきたものがありました。

オウムや引きこもりをはじめ、近年、日本社会の中で色んな問題が起きているけれども、自然から切り離され、神と仏から遠ざけられて、あたかも人間が独りで勝手に存在しているかの如き価値観をもってしまっているところに大きな原因がある。日本人は自然と深い関わりの中で自然の恵みに感謝しながら、自然の一部として生きていることを知っている民族であったし、常に神と仏を側において、聖と俗を行き来しながら生きてきた。現代の宗教で損なわれたものが山の宗教の中では体感できるのです。

今、たくさんの方が大峯の奥駈修行においでになります。例えば50歳まで大手商社で働いていた人が途中で辞めて山伏になったりします。そんな世界を飛び回るような仕事をしていた人も山修行をした時には、今までとは違う新しい自分に出会う、そういう力が山や修行の中にあるのです。

普通、伝統教団で何かの修行をする時は教団内での資格を問うわけですが、奥駈修行にしても入峯修行にしても特別な資格がなければ参加できないというものではない。誰でも発心があれば参加できる。参加型の、敷居の低い、プロとアマが行き来できるような部分がある。これはもしかすると修験道がもっている一番の特徴かもしれない。

山に行くと、頭の中で考えたことが全部とれてしまうほど身体をいじめる。ただいじめるだけでなく、そこに神仏がいることを前提に修行し、大自然の中で神仏が体験的に分かってしまう凄さがある。人間はややもすると脳だけで生きていると錯覚するところがあるが、決して脳だけで生きているわけではなく、身体を伴って生きている。その身体を変えることで心を変えることができる。心だけ変わろうとしても限界があるし、そういったことを山は体感させてくれるのです。

根本的には現代社会の中で自然と切り離されてしまった部分を、自然に入ってもう一度関わる。人間と自然とが同居する。もっと言うと、その自然は単なる自然ではなく、山伏の道場は神と仏がいることを前提としているわけですから、神仏がいて、しかも神と仏を分けない。神と仏と人間と自然が同居し、何かを自分の中に生んでくれる。

そういうことが修験道がもっている猥雑な部分と重なり合って、…明治の近代化以降は猥雑であることがさも低俗であるかのごとく扱われてきたことがあるけれど、それは人間の持っている多様性や、猥雑なものの中に人間の生き方の本質があるということだと思っています。そういう思いが、大きな声で今こそ修験道の時代だと私に言わせているのです・・・。
 ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」より

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1日にアップした、正木先生との続きの対談です。これって、かなり長い対談なのです・・・。同じようなことをここ10年、ずっと言い続けているのがわかりますねえ。

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コメント

私はお山の修行はできませんから、普段の生活では気づき難い大切なことを、りてんさんに教えていただいて…本当に、感謝の思いです。ありがとうございます。

私は修行ではないですがあちこちのお山に登ってます。「大自然の中で神仏が体験的」というのはよくわからないですが、山で道に迷ったりするとものすごく怖くてこれほど自分が生きるって事に必至になるって事が思い知る時があります。あとは虫に襲われたり、人間って無力だなーって思う時もあります。頂上から見た朝日とかは圧倒的なパワーでほんとに無力さを思い知るというか、自然の下に生き物は平等だなーって思う時もあります。それが神仏なんだろうかな~。

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