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「山の論理に学ぶ」

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「山の論理に学ぶ」
 ー田中利典著述集を振り返る271203

正木 都市生活をする人は、自然を実体験しがたい。そこで代わりにヨーガや瞑想などをする。或いはバーチャルリアリティに頼ろうとする。そういうふうに自然を擬似体験するというのは、どうかと質問されたことがあります。

私は、代替不能というところから出発すべきだと答えました。自然を都会にいて擬似体験できるという中途半端な発想はダメなのです。そんなことよりも、例えば東京なら高尾山へ都心から50分あれば行けるわけです。そこで滝行なりやろうと思えばできる。

そこまでしなくても山を歩くだけで得るものは多々ある。現代は交通機関が発達しているのだから、少し時間をかければ都市に住んでいても自然を体験できる。関西なら都心から1時間もかければ修験道の行場にだって行ける。都市だから自然は体験できないと言う必要はないのです。

田中 加えていうと都会の論理を自然の中に持ち込んでは自然との交わりにはなりません。都会の論理を捨てて山の論理を学ぶということでないと本当の自然との交わりにならない。都会の論理を当てはめようとするのはヨーロッパ的価値観です。

そうでなく自然の摂理の中に自分を置く、そういう関わりでないといけない。そういう関わり方の代替物はないと思う。バーチャルなもので済まそうとするのは都会の論理であり、自然の摂理は生きていない。自然との関わりでもなんでもないと私は思います。

自然というのはそこら中にある。日本の7割は山ですから。関わろうと思えばどこでも関われる。アフリカのケニアまで行かなければ関われないというのであれば一部の人しか関われないが、ちょっと行けば山はどこにでもあるわけですから。山伏が素晴らしいのは山の論理で修行をするから。都会の論理でいくら百名山を歩いても本当の自然とのかかわりは生まれない。

正木 以前、四輪駆動車で山の中を荒しまわるのが自然と関わることだと思っていた阿呆が山ほどいた。これは問題外です。今、私は関東地方のお坊さんたちにこう勧めている。関東一円の山々は里山から高い山まで修験や密教行者が歩いてきた歴史がある。名前を見れば分かります。密教、修験系の名が付いている。そこを歩く。形はハイキングでかまわない。

ただし奥駈にならって、「なびき」みたいな聖なる木や岩、川など霊性を感じさせるところに立ち止まって拝む。嫌なら深呼吸をするだけでもいい。とにかく何らかの宗教的な営みを組み込んで山を歩いたらいい。坊さん一人では無理ならば、何人かでネットワークをつくって、ぜひ実践して欲しいのです。

田中 昭和35年位までは地域社会で講が生きていた。都市部でも地域社会の先達がある程度の年になったらやっていた。連れていって体験させたものです。

正木 富士講なんか典型的ですよね。今でもけっこう残っています。

田中 講組織が高度経済成長の35年以降を境に急速に廃れてきたことによって、そういう仕掛けもなくなってきた。金峯山寺でも私が寺に入ってから提案して、蓮華入峯に一般の方の参加を募るようになったのですが、最近では山が空いている期間中は毎月、ミニ体験修行を始めている。

もともと寺が直接やることではなく、講がやっていたことで、寺はそれを迎え入れるだけだった。それが講が機能しなくなってきて、寺が直接関わっていかなければいけないようになったのです。これからは坊さんもそういうことをしていかなければいけない時代だという気がします。

それは、プロの自覚を持ってアマと共に行ずるという修験道的なあり方かも知れませんが…。(了)

ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」

****************

盟友正木晃先生との対談は5回にわたって、仏教タイムスで連載されたものですが、その抜粋を何回かにわけて掲載しました。昨日も書きましたが、10年経ってもなお古さを感じさせないのは、ある種、悲しいかもしれません。4年前には東日本大震災が起き、原発事故をはじめ、様々な問題を抱え、ますます世の中は混迷の中にあるのでしょうね。

自然との関わりが更に問われる現代社会です。

*写真は大峯奥駈修行、峯中で勤行する行者たち。

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コメント

家には、家電も三度の食事もあり、あたたくて便利な生活ですが、自然の中にどっぷり浸って自分の限界と向き合う修行に、とてもあこがれます。子育てが少し落ち着いて、心臓の運動負荷試験でも大丈夫だとおっしゃって頂けたら、修行体験したいです。
今は、物欲やら食欲やらに左右されないで、豊かな心を持って、顔を合わせる人たちと協調して、毎日一生懸命生きることを修行にしています(^^)

私は山登りが好きでした。百名山もいくつか登ってます。
最初は鳥の鳴き声を聞きに行きたかったからです。
でも鳥もいないお山の頂上には
お社や道の途中には磐座などもある所が
多くて、どんどん祈りの世界に興味が湧いて来ました。

朝日や北極星の延長上にあるお社を見ると
自然と手が合わさるようになって行きます。

私は修行はしていませんが
人間が命の有難さ(有り得なさ)や
自分自身のちっぽけさを知るのは
自然の中でしか感じられないだろうなぁと思います。

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