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「親友との夏」

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「親友との夏」
 ー田中利典著述を振り返る271204

夏が来る度に親友Sのことを思い出す。彼とは中学二年の時に出会った。同じクラスになって、しばらくして親友になった。確かボクから、まるで初恋の人に告白するように、「一生親友でいよう」と宣言したことを覚えている。そして宣言通り、ボク達は親友として中学時代を共に過ごした。

中学を卒業し、ボクだけが故郷を遠く離れた滋賀県の高校に進むのだが、その後もずーっと連絡を取り合い、親友でありつづけた。成人して、お互いの結婚式にも行ったし、家族ぐるみのつき合いもした。

その彼が平成四年の夏、突然に亡くなる。一生親友でいようと誓い合った二人の約束を反故にして、逝ったのである。海水浴中、一瞬の波に呑まれたのであった。三十八歳の短い人生。訃報を聞いて、涙で目の前をぐしゃぐしゃにしながら、彼のもとへと車を走らせたことを今でも昨日のように覚えている。

日蓮上人の言葉に「命は限りあることなり。すこしも驚くなかれ」(法華証明抄)とあるが、あの時の驚きと悲しみほど、胸を痛めたことはなかった。でもあの時の彼の死をもって、命に限りなることなし…という真理がボクの心にインプットされたのであった。彼はその時から、ボクの心に生き続けているともいえる。夏が来る度にそのことを思い出している。

人は誰でも、この世に生まれ出た瞬間から確実に死に向かって歩みを始めている。紛れのない真実である。といってそんなことを常に心に思って生きている人はまずいない。もし本当にそう思うのなら、この世は誠にせわしくて、とてつもなく切なくて、楽しくもなんともない世界になってしまうからだ。でも死はやはり突然に訪れるものなのである。

「覚悟はあるか」と聞かれたら、もう何十年も僧侶をしているくせに、なんとも頼りない自分を感じている。正直な気持ちである。親友Sに「あいかわらず情けないやっちゃな」と笑われているのかも知れないが、それも良しとしたい。

そんなことを思いつつ、今年も熱い夏を迎えることになるのだ。覚悟はないが、彼の忌日にまた「死に習う」ことができるのだから…。「死に習う」とはいつも死を心に置いて、一瞬一瞬を懸命に生きるということである。一生続く親友からのメッセージである。   

ー金峯山時報「蔵王清風」平成11年6月号掲載

*******************

今日はいつものカタイ文章ではなく、つれづれに書いたものです。

これを書いてからすでに16年。親友の死からはもう23年が過ぎました。あっというの間の月日です。

この春から故郷綾部に拠点を移しましたが、彼が生きていてくれたらと、改めて思う日々です。今だからこそ、地元でお互い、一緒にやれることがあったはずだから・・・。

そして、還暦を過ぎて、私自身が自分の「死」について、素直に向き合える歳にもなりました。時季外れですが、そんなことを思い、少しセンチメンタルな気分で、彼のことに書いた文章を読み返しています。

*写真は故郷綾部の里山が広がる、自宅の近くの風景です。

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コメント

大切なお話、本当にありがとうございます。
幼い息子も、不整脈がある私も、命があるものは皆、同級生みたいなものだなぁ…と思いました…。
今日も、感謝して生きます。

私も私の側からいなくなった人とは(そう表現します。)
心の中で話すようにしています。

どんな些細な事でも
あの人だったらどう返すだろうとか
あの人だったらどんな風に笑うだろうとか

そうすると目の前にその人が帰って来たような
気持ちになったりする事があります。

そんな時は自分の身に何か足りない物や事が見つかったりします。
死という物が何かは分かりませんが
足りない自分には何かを足していかないといけないと思うので
死は止でないというかそんな考えも浮かんだりします。
死んでみないとわからないですけど
今の私なら閻魔様にも正直に気持ちを話せそうな気がします。

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