「人間も自然の一部である」
「人間も自然の一部である」
ー田中利典著述集を振り返る271201
田中 人間も自然の一部で自然の摂理によって生きているにも関わらず、そこから離れているかのような錯覚に陥ってしまっている。それを取り戻す必要があるのではないか。それに気づくためには何が必要か。それは修験道だけとはいいませんが、修験道の中にはたくさんある。
正木 子育てを含め自然に対する感性などは、かつては見ず知らずのうちに教育され、伝承されてきた。その伝承が切れてしまうと赤ちゃんの抱き方から始まって本来人間が本能的にできると思っていたことができなくなる。つまり人間の行為の大半は、本能ではなく、文化伝承によって成り立ってきたのではないか。だからこそ、文化伝承が途絶えるととんでもないことになってしまうと思います。
田中 文化の伝承と自然の摂理から隔絶された人間を元に戻すようなことをみんなでやっていかなくてはならない。
正木 肥満児の問題が言われて久しいですが、相変わらず高カロリーの物を食べてしまってぶくぶく太ってしまう子が激増している。不登校・ひきこもりを例にあげると、以前は不登校・ひきこもりは感性の鋭い子がなった。でも、いま問題なのは、感性が余りよくない子が閉じこもって家の中でポテトチップを食べ、コーラをがぶ飲みし、ぶくぶく太ってみっともなくなって、それで外へ出られない例が増えてきている事実です。
かつては繊細で非常にナイーブな子が不登校・ひきこもりになっていたのに、最近はどうもそうとはいいきれない。もっと始末におえない子が不登校・ひきこもりになってきているのです。
田中 いわゆる霊性の欠如です。霊性が欠如してくるから物のような人間になってしまう。
正木 悪い意味で動物的ですね。欲望だけが肥大化してしまっています。
田中 霊性を培うものは人間を超えた聖なるものとの出会いを常に意識することであるし、日本人は聖と俗を行き来する中で生きてきた。その聖と俗を行き来する場として常に自然との関わりがあった。森があったり山があったり。そういうことを全部取り上げられてキリスト教社会がもってきた物と金の豊かさだけでやってきた。
アメリカだって病んでいますが、とはいえ、ある種キリスト教社会の価値観で制御されているものがある。ですけど、日本の場合、日本人を制御してきた霊性に訴えるような聖と俗を行き来する多神教的な中で培われた日本人の精神文化が壊れてくることによって、アメリカ以上にどうしようもなくなってきたと感じます。アメリカでさえああなっているわけですから…。決してアメリカの真似をしても幸せになれないのに、もっと深いところで壊してきて、それに代わるものを用意してこなかった。
いまもコミュニティを壊し、家制度を壊し、とことん壊してきて、それに代わるものを与えられてこなかったから、文化の伝承が途切れるし、伝承の中で営まれてきた人間の当然のことが損なわれる。自然からも隔絶され、神仏からも隔絶され、文化の伝承からも隔絶され、日本人はどこへ行こうとしているのか。いまどこにいるのかさえわからない。
で、最近、戦前の教育勅語のような、あるいは徴兵制度のようなものを取り戻せば日本はまた甦るとよく言われますが、梅原猛さんがしばしば書いておられるように、教育勅語も前近代的なものを否定した上に出てきたもので、本当に頼るべきものは、近代以前の日本人の姿にこそあり、そういうものを見ていくことが大事だと。そういう意味で少なくとも近代以前、神仏分離以前の神仏習合を真面目にやってきたのは修験道だけです。
神仏分離以前のもの見ていく一つの観点に深い自然との関わりがある。キリスト教などの一神教は自然との関わりが下手な宗教ですが、日本人は自然との関わりの中で多神教的なものを育んできたわけですから。多神教のような多様なものを認めていって、そして共存していく、その智慧を再び取り戻すべきなのです。
ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」
****************
あらためて読み返してみると、自他共に認め合う盟友正木晃先生との対談は10年経ってもなお古さを感じさせませんね。
*写真は大峯奥駈の最終地・熊野那智大社での飛瀧権現様御宝前勤行をする行者一行
« 「自然と交わる」 | トップページ | 水木さんの『幸福の七か条』 »
「随筆」カテゴリの記事
- 「父母への追慕抄~父母の恩重きこと天の極まりなきが如し」(2017.06.19)
- 「還暦となる君へ…」ー田中利典著述集290601(2017.06.01)
- 「仏教の普遍性について」(2017.05.28)
- 「師の教え」ー田中利典著述集290524(2017.05.24)
- 「一生懸命にお祈りをすることの意味」」ー田中利典著述集290523(2017.05.23)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
昔はコミュニティからも生活からも
今いる居場所から逃れる術が神仏に祈る場所しかなかったから。
今は現実逃避出来る場所も、日が落ちてからの時間も
自分が自由に使えるし。神仏に祈らなくても乗り越えられる事が
増えてしまったからなぁ。。。
私みたいに注射を打たなかったら1週間で死んでしまう人間も
生きてられるので^^;;;;
私みたいに死が身近にあったりする人は
神仏様がいらっしゃる事をすごく実感したりすると思いますが
何も困らなかったら祈る必要もなくなってしまうのかも。
生かされている神仏様への感謝というのは
生かされてると感じないと湧いてこないのかもしれません。。。
今日一日はもう二度と来ないのは全ての人も同じなのにねぇ。。。
投稿: にゃおちゃん | 2015年12月 1日 (火) 23時10分
にゃおさん。コメント、ありがとうございます。
一日一日、大事に生きたいものですね。
by 吉野山人
投稿: 吉野山人 | 2015年12月 2日 (水) 11時17分