「書が日本を救う②」~田中利典著述集280302
「書が日本を救う②」
~田中利典著述集280302
昨日の続きデス・・・
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本稿は書道ジャーナルという雑誌で「書のいまを問う」というテーマについて書いている。これを私流に解釈すると、書とは書道であり、そのいまを問うとは、筆書を通じて現代を語るということではないかと思う。
日本人はとかく「道」を極めたがる民族のようだ。華道、剣道、柔道、芸道などなど……ちなみに私は修験道の僧侶であるが…。
ここでいう「道」は、書なら書、茶なら茶を通してその道を究め、自分を高め、日本人的聖域を目指す、ということだろう。言葉を換えれば「道」を究めるとは「神人合一」の世界にまで、書なり茶なり剣なりを通じて至ることを目指すのであろう。
そういう意味で、名僧や高僧の書は、その字の巧拙を超えて、書道の世界で重きに置かれるところがあるのではないかと思う。揮毫した僧の境地が、その文字に如実に表れるからである。優れた境地の人の文字は、心に響くものである。弘法大師空海はいうまでもなく、江戸期の高僧慈雲尊者や昭和の山田無文老師などの書は、いつまでも見ていて飽きない。そして見るたびにほれぼれする。
僧侶の筆字が下手になったことは、日本文化の危機を表しているということを、ここまで指摘してきた。しかし、裏を返せば、日本文化の復権の手がかりも筆字にあるといえないだろうか。筆字の上達を図ることは日本文化の復権を図ることでもあるとすれば、書のいまは、きわめて重要な課題をになっているといえるのではないだろうか。
ー田中利典述「書のいまを問う」(『書道ジャーナル』/平成17年5月号)より
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えらそうなことを書いて11年。その間、考えてみるとちっとも私の悪筆は上達をしていない。いや、もう60才を越えて、いまさら飛躍的に上手になることはないだろう。若いときの研鑽は、やはり必要だったなあと反省をする次第である。
最近、うちの新管長が会う度に字がうまくなっているように思う。そういう意味では位が人を作るということなのかと思ったりしている。
わたしゃ、位ないもんなあ・・・。(T_T)
*写真は法楽寺さんのギャラリーから拝借した慈雲尊者の揮毫です。
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