「僧侶派遣業の是と非」
先々週から、中外日報で連載の始まった拙稿「随想随筆」全4回の第2回分です。
しばらく、東京・群馬・京都と連泊出張が続き、家を留守にしていて、記事をアップするのが遅くなりました。
例のAmazonの僧侶派遣業についても、書いています。
ちょっと甘い視点かもしれませんけど・・・。
よろしければご覧下さい。
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「僧侶派遣業の是と非」
昨年十二月、釈尊成道会の日にAmazonが僧侶派遣業務を開始して、仏教界内外で物議を醸し出した。宗教行為を商品化するとは何事かと仏教界から大反発があったが、一部の僧侶の中には歓迎するむきもある。
もうずいぶん前の話になるが、あるお寿司屋さんで、そこの大将が語った言葉に感心したことがある。
「回転寿司店がどんどん出来て、私たちが困ると思っている人がいるが、違うんだよ。子どもの頃からああしてお寿司を食べる習慣をつけてくれるのは嬉しいねえ。いつかは大人になってこっちに来てくれるようになるのだから…」というような話であった。
ものは考えようという単純な話ではない。何事も現実に起こることはその時代の要請なのだから、あらがいようがない。Amazonの僧侶派遣も善し悪しの問題ではなく、現実に社会の要請があって、物事は起こっているのである。
先祖代々のお寺と檀家との関係が壊れつつあるのは明白だ。そもそも檀家制度という日本独特の制度が出来たのは江戸時代のこと。当時の日本人の人口はせいぜい二千万人前後で、現在の日本の人口は一億二千万人を超えるから、わずか四百年ほどで約六倍の伸びを見せたわけである。
物事は三割四割の増加には内部努力で対応出来るが、五倍六倍となると、そんな程度ではなんともならない。制度自体、構造自体を作り直さないと対応など出来ようがないのである。
その点、檀家制度は明治の神仏分離や戦後の農地解放など激変期を乗り越え、よくぞここまで保ってきたモノだと関心さえする。
今までのあり方が全否定されたわけではない。檀那寺と関わりを持てない都会人が増え、檀家制度を支えてきた地域の共同体も喪われて行く中で、日本仏教が新たな要求に晒されているということだろう。
今までのあり方で通用するお寺もある。一方、過疎化のあおりを受けて、廃寺となる地方寺院もたくさんある。今まで以上に日本人の信仰心を問うような活動を仏教界が要求されていると思うことが肝要なのだ。
Amazonを通じて、葬祭をこなし、僧侶を呼んだ人は決して無宗教な人間ではない。寿司屋の話ではないが、大いに結構、いづれは本物の寿司を握っているウチに来るんだ、くらいの気持ちで、ドンとしていてもよいのではないだろうか。
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