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「チベット旅行記」② ー田中利典著述集を振り返る280831

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「チベット旅行記」② ー田中利典著述集を振り返る280831

昨日から始めた、10年前に綴ったチベット旅行記の2です。
主なきポタラ宮にたたずみ、正直に感じた当時の私がよみがえります。

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「主なきポタラ宮②」

ダライ・ラマ法王のインド亡命以来、主なき城となったポタラ宮殿は、今は中国政府によって博物館とされてしまった。

実際に目の当たりにしたのは、巡礼者たちを押しのけ、物見遊山の観光客に踏みにじられる観音菩薩の聖地・ポタラ宮だった。

チベットは中華人民共和国の成立と共に、チベットの歴史と文化の二つながら、大中国に飲み込まれ、文化大革命によって、大きな大きな打撃を受け、ついにはチベット人民の独立すら奪われてしまった。そしてその精神的支柱のチベット仏教は極度に疲弊したのである。その象徴が主なきポタラ宮殿であり、博物館と化した聖庁なのだ。

私は吉野修験に属する山伏であるが、翻ってわが修験道を考えるとき、このチベット仏教が歩んだ運命にある種の親近感を覚える。

明治期、わが国は欧米化政策の一環として神仏分離を施策し、日本古来の宗教心の象徴である権現信仰の禁止と、修験道という宗教の廃止を断行する。この災禍によって権現信仰の法城であるわが吉野山・金峯山寺は、一時期廃寺とされるが、のちに復帰し、日本全土の修験寺院が廃絶される中、奇跡的にその法脈を保った。それは偏に当時の人々の信仰心に支えられた抵抗運動の賜物であった。

ポタラ宮殿の存続は博物館としての継承では意味がない。宮殿内に祀られる歴代ダライ・ラマ法王の嘆きやいかばかりであろうか…。だからこそ、チベット人民の信仰心の継続に、いずれ迎える新たなよき時代を拓く鍵がある、そんな思いを持ったのである。

宮殿内の豪華な陳列物に饗応する中国人観光客に罪はないが、その信仰なき、無節操な態度に忍びがたい不快感を覚えたのは私だけではないだろう。                     

ー仏教タイムス2006年9月掲載「チベット旅行記」より

*写真はこの時の旅行主催者である正木晃先生とのポタラ宮前ツーショット

「チベット旅行記」① ー田中利典著述集を振り返る280830

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「チベット旅行記」① ー田中利典著述集を振り返る280830

もう10年前になる。ちょうどチベットに、西寧とを結ぶ青蔵鉄道が開業する直前のラサの町を、盟友の正木晃先生一行とともに訪れたのだった。先生はもう6度目か7度目のチベット訪問だったように聞いている。

稚拙ながらそのときの旅行記を、仏教タイムスに連載させていただいた。

心が痛むのだが、あれから、チベットはますます混迷を深めている。鉄道が敷延されたことで、それまで以上に漢族が大量に流入し、チベット民族への圧政は更にひどくなり、命を持って抗議の焼身自殺が繰り返されるチベット僧の数はすでに百数十人にのぼるという。最近は中国当局が隠すので、数すら把握出来なくなっているようだ。

そういう状況への危惧は、10年前にすでに予見される私の旅行記だったと思う。

今、スーパーサンガと称して、有志の僧侶たちとともに「宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会」(http://www.supersamgha.jp/about/)という活動に加わっているが、それもこのときのチベット行きがきっかけとなっている。

今のチベットの惨状を考えると、いささか、のんきな面もある旅行記になっているので、顰蹙をかうところもあるかもしれないが、あえて加筆訂正などせず、そのまま載せようと思う。よろしければ読んでください。全9回である。

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「主なきポタラ宮」

今年6月、宗教学者正木晃氏らに同行して秘境の国チベットの仏教寺院を巡った。以下はそのチベット仏教見聞録である。

チベットといってまず最初に思い浮かぶのは世界遺産「ポタラ宮殿」であろう。私の憧れの地でもある。私たちはラサ市に入り、真っ先にこの地を訪れた。

ラサ市の西の端に位置するポタラ宮は歴代ダライ・ラマ法王の元居城である。この国の古建築を代表する宮殿式建築群は、どこまでも高く、青く澄んだ空を背にして、思い描いたとおり、ラサの市内を睥睨してそびえ立っていた。

「ポタラ」とは、「観音菩薩が住まう地」の意味で、観音菩薩とは、その化身たるダライ・ラマのこと。チベット仏教独特の転生活仏の信仰である。13階建ての巨大な宮殿は政治施設の白宮と宗教施設の紅宮に分かれ、紅宮が白宮に支えられるように、中央部分の8階以上の高層を占めている。

1959年、主であるべきダライ・ラマ14世は、中国の、チベット併合ともいえる侵攻政策による弾圧を避けインドに亡命し、以後、インド北部のダラムサラに亡命政府を樹立して、国の外からチベットの独立運動を展開されているのはつとに知られるところ。

ただ、漢人たちのチベット流入を含め、中国政府が行っているこの国への介入を思うとき、ダライ・ラマ法王が法王として、二度とこの地にお戻りになることはないだろうなあと…漫然と思ったのであった。   

ー仏教タイムス2006年9月掲載「チベット旅行記」より

*写真はポタラ宮である。

「またまた中外誌に登場!」

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「またまた中外誌に登場!」

8月26日付けの中外日報誌の「いきいき健康」というコーナーに、またまた紹介をされました。

先日、わざわざ自坊まで取材にきていただき、いまの生活や、宗務総長時代のことなどをお話ししつつ、健康法とはいうにはほど遠いながら、私なりの生活リズムについて、お話ししました。

不健康きわまりない私の健康法などというのはホントに怪しいのですが、まあ、奥駈にしろ、蓮華入峰の修行にしろ、ふだんの生活を考えると、夏が来るたび繰り返してきたむちゃともいえるほど身体に負担をかけることが、長い目で見るとここ40年来の、私の健康法だったのかもしれませんね。

山伏のみなさんも、きっと首肯していただけるのではと思います。

よろしければご覧ください。

「みなさん、ありがとう!!」

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「みなさん、ありがとう!!」

今日は今日の零時から、誕生日おめでとうメールと、コメントを山のようにいただきました。今年は全部にお返事をしようと頑張りましたが、今の時点で、FBのタイムラインは200人を越え、それからメールやコメントなど、全部で400人近い方に、お祝いのお言葉をいただきました。人生最大のお祝いだったかもしれません。・・・さすがに、全部の方にお返事できたかどうか、ちょっと怪しいくらいです。

つくづくと、ありがたいなあと思っています。

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「つながりの中にこそ、人が生きる真実がある」と常々私は思っていて、ご先祖、家族、友人、会社、共同体、都道府県、国・・・そして世界につながりは広がっていて、21世紀に生きる幸せを享受しています。

ついつい、実は足下を見失いやすい現代ですが、、そこも含めて、いまの自分を正直にいきていく大きな力をいただいたような、61年目のお誕生日でした。

写真はさきほど、家族で祝ったお誕生日ケーキです。感謝ですね。

みなさん、ほんとにありがとう!!!

「吉野というところ・・・④」ー田中利典著述集280827

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「吉野というところ・・・④」ー田中利典著述集280827

ご好評いただいた、21日から書き始めた記事の最終回です・・・

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「吉野というところ・・・④」

いよいよ話は本題のテーマに関わる、後醍醐天皇、南北朝時代を迎えます。

後醍醐天皇は建武の中興という、鎌倉方を討ち破って天皇親政の政治を取り戻しますが、しかし建武の中興はわずか2年数ヶ月で敗れて、後醍醐天皇は足利尊氏に京の都を追われ、この吉野に逃げておいでになるわけであります。これも義経の時に申し上げましたように、後醍醐天皇はなにも花見がしたいから吉野に来たわけではなくて、この吉野の持っている金峯山寺の経済力と軍事力と、それから山伏という全国に網羅されたネットワークと、そういった勢力を頼りにこの吉野においでになるわけであります。このあと、南朝のことは本題なので詳しくお話しますが、今日は70分しかないので、この調子でしゃべると3時間位になりそうですから、少し先を急ぎます。

時代を先に進め、豊臣秀吉の時代のお話に移ります。ちょうど今年のNHK大河ドラマの『軍師官兵衛』で今、放送しているのは第一次朝鮮出兵のころですが、この第一次朝鮮出兵が終わった文禄3年(西暦1594年)に、戦国大名の勝ち残り全員を引き連れて、秀吉は吉野に花見に参ります。ちょうど現在の蔵王堂が再建されたばかりの頃です。

秀吉の花見というと、「醍醐の花見」が有名ですが、実は「醍醐の花見」は、吉野の花見をした後、そのときの花見が非常に良くて心に残っていたのですが、もう吉野には行くだけの体力気力が秀吉になかった。それで、京都の醍醐でやったというのが「醍醐の花見」。つまり、いわば本家は吉野です。

それはさておき、秀吉は吉野で大花見の饗宴を催します。徳川家康、伊達政宗、前田利家・・・戦国大名の勝ち残り、五千人が集まって花見をしたのです。で、花見っていうと今や、春になれば皆がやりますが、花見を一般の人がするようになるのは、結構新しいんですね。皆さんの大好きな「暴れん坊将軍」の時代からなのです。

このあいだ、松平健さんが取材に吉野においでになり、私とツーショットの写真撮りました。案外大きな人でしたね。その松平健さんの演じた「暴れん坊将軍」徳川吉宗の時代に、江戸の庶民が、火事や飢饉や、いろんな改革で疲れ果てていて、街は治安が悪くなっていた。そこで江戸の庶民に楽しみを持たせることも大事だろうということで、隅田川の堤など、江戸のいろんなところに桜を植えた。そして庶民に花見をすることを奨励して、以降、庶民が花見を楽しむようになるんだそうです。だからそれ以前は、庶民が花見をするようなことはなかったのですが、それよりもはるか前に秀吉は、吉野で大花見の宴会を行ったのです。大々的な花見の嚆矢ともいわれています。

ところで、この花見が問題なんですが、吉野山は桜で有名で、「吉野即桜」のイメージなのですね。ただ実はこの桜は、・・・江戸の隅田川の堤とか久度山とか,そんなところの桜は吉宗が人々に花見をさせるために植たのですが・・・吉野の桜は違うわけです。人が花見をするために植えたわけではない。これは後で詳しく申し上げます。私は後で申し上げると言いながら、よく申し上げないことがある。そのときはお許しください(笑)。

次に本居宣長も吉野に3度参詣しております。本居宣長は、吉野の一山の水分神社と関係が深い方です。水分神社はもともとは分水嶺、農作に由来する水の神様ですが、この「水を分ける」と書くので、「みくまり」が「みくまり・みくもり・みこもり・・・こもり」とって、日本人特有の言霊信仰から、「みくまり神社」を「子守神社」というようになり、子授けの神様になっていきます。本居宣長は、子供が出来ないことを悩んでいたお父さんとお母さんがこの子守神社の神様に願をかけて生まれた子供なのです。それで宣長自身生涯3度もおいでになった。金峯山寺は明治までは、神様と仏さまが同居していました。水分神社も一山の中の神社でした。

また西行の足跡を慕って、俳人芭蕉は生涯に2度吉野に訪れています。これも桜の吉野が文学性を持った歴史のひとつ。こうやってみると、ずいぶんいろんな人がおいでになっている。良寛をはじめ、まだまだ他にもおいでになります。いつだったか吉野山で時代行列をするとするなら、古代の神武帝から幕末の吉村寅太郎の時代くらいまで、吉野を訪れた人たちだけでものすごい行列ができるなと話したことがあります。残念ながらお金がないので吉野町ではできてません。(本稿終わり)

 ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より

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写真は暴れん坊将軍です。

「ハッピーバースデー!!」

「ハッピーバースデー!!」
 
今日は61回目の誕生日。
 
今から61年前の今日、今は亡き父母のもとに生まれた。
今日は父母に墓参して、生んでいただいたお礼を言わなければと思っている。
 
思えば、未だなすべきこともなさず、無為に61年を過ぎこしてきたようにも思う。少し、反省も込めて、これからが人生の本番だと思うことにしよう。
 
還暦から数えると、満1歳。
今まで多くの人々から与えていただいた力やご縁を、世の中にお返ししていければと、強く願うのみである。
 
すでにたくさんの方から、お誕生日祝いのメッセージをいただいている。
改めて61年を振り返り、もうあまり交渉のなくなった方、いまが盛りで繋がっている方、多くの方に感謝いたします。

「大工事になってしまいました・・・」

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「大工事になってしまいました・・・」

7月3日に地鎭式を行い、翌日から始まった自坊の改修工事であるが、トイレの水洗化施設工事は水道屋さんいわく「まあ2週間ほどですから・・・」というので着手。ところが土用に入る19日を過ぎても、まだ3分の1くらいの進捗状況。水道屋さんいわく、水道の施設と、木工事は別なので・・・。

シロウトの私は、期間も予算金額も含めて、水道屋さんの言うことを目安にしていたのが、大きな間違い。地面を掘り返してみると、水道管やガス管やいろなんなものが出来てきて、「腐ってきていますが、どおうします?」と聞かれるたびに、「そっとしておいて・・・」などと言えるわけもなく、直してください!やりかえてください!となるわけです。

また木工事に関わるトイレの内装や外壁などの改修はだんだんたいそうになってきて、実は2つのうちの庫裡側にあたる方はようやく終わったけど、表周りのトイレはいまが最中。おまけに、犬走りも、配管工事の関係で掘り返して、きれい施設してもらったせいで、手を触れていない玄関のひび割れた部分がやけに目立つことになって、ついでだからと、ここもやりかえてもらい、はたまた、荒神さまの社は仮説トイレ設置の関連で急遽遷座することになるなど、もう大変な工事なってしまいました。

たぶん2ヶ月たっても完成してないかも・・・。

そうこうするうちに、9月初旬からは床下の改修工事を別の大工さんに依頼しているので、水道工事と一緒に始まってしまいそうな雰囲気。簡単に考えていた工事がえらいことになってしまっています。第1、当初の見積もりが吹っ飛ぶことも太心配です。

「なんでうちのトイレはシャーって水でながれへんの?」と当時小学3年の息子に言われて、ようやく、約束を果たすことになった水洗化工事であるが、なかなか大変ですねえ。

秋の大祭まで、工事の音が鳴り止まない、戦々恐々の自坊生活となりそうです。ま、長年ほったらかしにしていた罪滅ぼしなのでしょう。とほほ・・・

写真は見本のトイレの写真で、うちのものではありません。

「吉野というところ・・・③」ー田中利典著述集280826

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「吉野というところ・・・③」ー田中利典著述集280826

21日から書き始めた記事の続き、その③です・・・

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「吉野というところ・・・③」

それからもう少し時代が下ると鎌倉期には、文治2年(西暦1186年)11月に、源義経が、兄の頼朝と不仲になって、頼朝に追われて全国を逃げ回るのですが、愛妾静を連れて吉野にやって来る。

今、11月に来たと言いました。『吉野千本桜』という戯曲があります。いわゆる、歌舞伎や文楽で、後々この義経が吉野に逃げてきたことが物語に描かれるわけでありますが、歌舞伎の『吉野千本桜』通し狂言・・・大変長いお話ですけれども、そこで終わり方に吉野山の場というのがございます。そこは蔵王堂の前が舞台になっています。その時の蔵王堂は桜満開の、豪華絢爛に大変美しい舞台が描かれます。

しかし実際には、義経が来たのは旧暦の11月ですから真冬であります。桜が咲いてる時期に来たわけではなのです。吉野山=桜という演出で満開の吉野山が登場しているのです。

・・・で、吉野で一行は4日間滞在するんですが、吉野の宗徒は鎌倉方の追手を恐れて、義経に味方をしません。それで義経は、ここで静と別れて打ち退くということになります。

その別れの時、義経は今から山上ヶ岳へ逃げるので、山上ヶ岳というのは女人禁制であるから、女の人は連れて行けないので、ここで静と別れるみたいなことを描いてありますが、実は嘘でありまして、義経は女人禁制の山上ヶ岳へは行っていません。静を吉野に置いて山を下りて逃れるわけです。冬枯れした時期ですから、足手まといになる静は邪魔だったのでしょう。その時に静のお腹の中には赤ちゃんがいたといいます。大変悲しい話がここで行われたわけでありますね。

この義経の物語は52回くらい、映画とかドラマになっているそうです。そして、今から10年ほど前に、ジャニーズの男前で、タッキーこと、滝沢秀明君という役者さんが『義経』というNHKの大河ドラマに出ました。

あの時にね、ちょっとだけ感激したことがあります。それまでの義経のいろんな物語は、兄頼朝に追われて吉野山に逃げてくるにあたって、「吉野山へ逃げよう」とか、「吉野へ行こう」とか、大体そういう表現なんですね。ところが滝沢君はこのとき、こう言ったんです。「金峯山寺に参ろう!」と。

これは実に正しいのです。義経は確かに吉野に来たのですが、吉野山に来たのではないのです。別に花見がしたいから来たわけでもないのです。金峯山寺という、役行者以来の修験の勢力、その経済力、ネットワーク、それから、昔の寺というのは軍隊を持ってましたからね。

今NHKの大河ドラマで『軍師官兵衛』やっていますね、あの織豊時代に、信長・秀吉の施策によって、お寺が武装解除させられるのですが、それまではお寺みんなは軍隊持ってたんです。ですから石山本願寺は織田信長と戦うし、比叡山が全山を焼かれることになる・・・というのは実はあの『軍師官兵衛』の時代までは、お寺はみんな軍隊持ってたからなのです。

今でもイスラムは、軍隊持ってるでしょ。キリスト教は十字軍の時代がありますが、日本は近世の初めにお寺が武装放棄してるから、今の日本人には宗教が軍隊を持っているという感覚はないんですね。しかしそれまでは持ってたんです。今でも世界中持ってるところは、いまでもたくさんあるわけです。

で、それまで、たぶん、特に室町時代なんていうのは、国という機関はあってないようなもので、政府もあってないような時代でしたから、それぞれが自分たちを守るためには軍隊を持っていたわけです。寺もたくさんの荘園、たくさんのものを抱えていましたから、軍隊も持っていたし、国が国の体を成していなかった分だけ、お寺というのが非常にその、国が持っているような部門をたくさん持っていた。

たとえば、今は大蔵省がお酒の税金取っていますけども、中世はお酒の税金って寺が取っていた。油の販売権も寺が持っていた。今となっては、国がやっていることが当たり前なことが、実は当たり前でなかった時代の方が長かったわけです。

だから、当然軍隊も持っていた。武士階級はそこから生まれて来たのですからね。金峯山寺もまた、役行者以降、寺の発展とともに中世にかけては大変大きな勢力となった。大きな軍事力を持っていました。そういう力を頼って、実は義経はやって来たわけで、あの人たちは吉野に来たわけではなくて、義経一行が「金峯山寺に参ろう」といったのは、極めて正しいことなのです。

ただまあ、金峯山寺という名前が明治以降ほとんど誰も知らなくなったので、意味わからんな、ということで、大方の物語では「吉野山に行こう」ということになっているんでしょうけどもね。今でも比叡山とか高野山とか、そういうような意味で、吉野山=金峯山寺という関係性というのがあるのですけれども、そういう歴史があるのも金峯山寺という修験の信仰を拠点とする勢力があったからということであります。

 ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より

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写真は源義経です。

主題が後嵯峨天皇や南朝に繋がる吉野と嵐山についての講演録なので、本題はこの先長いのですが、吉野というところという、前書きにあたる部分は次回で終わりです。

思い出の1曲・・・シグナルの「二十歳のめぐり逢い」

思い出の1曲・・・シグナルの「二十歳のめぐり逢い」

https://www.youtube.com/watch?v=Nz33LR-mBwI

私には中学時代からの親友がいた。「生涯の親友になろう」と中学1年のとき、私から声をかけて、友情がはじまった大好きなやつだった。互いの結婚式にも呼んで呼ばれた。

その彼は38歳のとき、奥さんと子供2人を残して、この世を去った。神崎海岸という水死事故の多いことで悪名高い海水浴場に友人と泳ぎに行き、高波にのまれ、溺死したのであった。悲しい悲しい、親友との別れとなった。

シグナルというグループは、その彼の友人の、友人がいたという。三人のうちの、誰のことなのか知らないのだが、この唄を聞くと、親友のことを、亡くして20年以上たっても思い出している。夏が来るたびに思い出す唄でもある。

「吉野というところ・・・②」ー田中利典著述集280825

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「吉野というところ・・・②」ー田中利典著述集280825

21日アップ記事の続きです・・・

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「吉野というところ・・・②」

さてそういう古代にもたくさんの歴史があるこの地に役行者という、後々には修験道を開祖と崇められる行者様が修行にお入りになります。そして蔵王権現という修験独特のご本尊を祈りだし、修験道という信仰を始めらます。もともと神仙境であった吉野ですが、そこに修験道という信仰が始まったことが、後々さまざまな歴史に深くかかわってくるとことになります。この辺はこの後ゆっくりお話をいたします。

平安時代には空海さんもおいでになっています。空海さんの孫弟子になる聖宝理源大師もおいでになった。宇多上皇もおいでになって、宇多上皇に伴って菅原道真公もおいでになった。

あまり皆さんはご存じないでしょうが、日本で一番古い菅原道真を祀った天神さんというのが一体どこにあるかというと、実は吉野にあるんです。北野天満宮よりも歴史、神歴の古い神社です。

吉野に来て頂くとわたしども金峯山寺本堂蔵王堂の向かって左側に、威徳天満宮というのがあります。これは北野天満宮の来歴をしめした『北野縁起』よりもなお古い『日蔵上人冥土記』に由来する神社で、その冥土記に出てくる菅原道真公が、神として祀られるもっとも古い形の天神さまと言われています。

由来の話はこうです。大峰峯中に、笙の窟という場所があります。ここで日蔵道賢という金峯山寺のお坊さんが参籠修行をしていると、前後不覚に陥って、冥土へ行くわけです。その冥土に行った先で、菅原道真公の怨霊に苦しむ醍醐天皇の御霊に出会い、どうかあなたが蘇生してあの世からこの世に戻ったら、道真公のことを祀ってくれと日蔵は頼まれる。そうすることで醍醐天皇への祟りは薄れるから、というようなお申し付けを授かって日蔵は蘇生し、吉野山に天神(菅原道真)さまをお祀りした、という縁起なのです。

さきほど申しましたように道真公も宇多上皇とともに、生前、吉野においでになっています。この天皇さまや豪族がこぞって吉野においでになる時期がありました。最も有名なのは今から千年前、寛弘4年(西暦1007年)に、京都から藤原道長~時の関白太政大臣がお見えになった。『御堂関白記』に詳しく載っていますが、42歳の時に「御嶽詣」と称して、蔵王権現にお参りになっている。さらには白河法皇も「御嶽詣」している。法皇の「熊野詣」は有名ですが、「熊野詣」に先立つ形で吉野の「御嶽詣」をなさっているのです。また、西行という歌人が、吉野に、吉野の桜を愛して3年の侘び住まいをしている。ちょうど今、西行の侘び住まいをした西行庵が紅葉の見頃になっているころです。

 ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より

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写真は菅原道真公です。

「春日大社元権宮司岡本先生登場!」

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「春日大社元権宮司岡本先生登場!」

今日もお昼の地元綾部FMいかる「とれたてワイド763」に出演します。

放送時間は正午から午後2時半までの生放送です。よろしければ、お聞きください。

今日は先日、ならどっとFMで収録の、元春日大社権宮司の岡本彰夫先生におでましいただいた「りてんさんの知人友人探訪」を午後1時頃からお送りします。

岡本さんは奈良県内では知らない人がいないというほど、いろんな方面で活躍をされた方で、私も10年前くらいから、様々な奈良県の取り組み事業でご一緒し、吉野下山後の最近は盟友として、東京で一緒に私塾を開いているという特別に懇意な関係の方です。

今まで数多くの有名な神社の神職の方とお出会いしましたが、岡本先生はその中でも図抜けて優秀で、とても素敵な方です。また、トークの達人です。先生の生い立ちを始め、興味深いお話満載の回です。大いにご期待ください。

午後1時半過ぎからは「りてんさんの今日の1曲」です。今日の1曲というか、今日の吉田拓郎・・・というような感じですけど。

今日は吉田拓郎さんの「王様たちのハイキング」。

そう・・・拓郎ファンでは有名なことですが、拓郎さんがおかあさんに、あんな下品な歌は絶対歌うな!というわれて、以来、ライブでは封印されたという秘曲??です。ですが、私は大好きで、真夏に聞くにふさわしい、ぶっ飛んだ秀曲です。お楽しみに。

ラジオ放送は https://t.co/L4W7W6zSNO←こちらで全国どこでも、リアルタイムにに聴くことが出来ます。

奈良での放送を聞き逃した方も是非!!

*写真は8/12に「りてんさんの知人友人探訪」で、岡本先生をお招きして、ならどっとFMで収録している様子です。

「吉野というところ・・・①」ー田中利典著述集280821

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「吉野というところ・・・①」ー田中利典著述集280821

吉野は古代からずっと日本の歴史上に現れ続けるんですが、それは吉野で活躍した人、あるいは吉野を訪れた人たちの歴史が、日本の歴史の中で大きな意味をなすことがたくさんあったのでそうなったわけであります。ですから、まず吉野を訪れた人々はどんな人があるのかなという所から見ていこうと思います。

第一番目は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)。正確に言うと、皇子の前にも訪れた有名人はいます。古事記、日本書紀にも出てまいりますように、神話の世界ですが、神武天皇が大和にお入りになるのに、初め大阪からお入りになった。ただ、その道は土俗の人々の抵抗に会い、上手くいかなくて、それで改めて熊野から、紀伊半島の山々を越えて吉野に入り、それから大和に入る。吉野は神武様がお通りになったというような歴史があるのです。日本の歴史に関わる大きな足跡ですね。

しかしまあ正しく、正史と言われる中で出てくるのは、古人大兄皇子という、舒明天皇の第一皇子で、蘇我馬子の娘の子が最初です。蘇我入鹿が、山背大兄王・・・聖徳太子の息子さんです・・・を殺して、古人大兄皇子が天皇の跡継ぎになる。ところが645年に大化の改新で、中大兄皇子に蘇我氏が滅ぼされ、蘇我氏後ろ盾を失った古人大兄皇子は吉野に隠棲するのです。隠棲されるんですが、大化の改新の後、わずか3か月後には吉野で殺されてしまいます。ここで注目するのは吉野に舒明天皇の第一皇子が逃げてこられたという事実。その辺から吉野というのは、都に対して「逃げる場所」的な、そういう場所であることがわかる。

斉明天皇という舒明天皇の奥さん、重訴して皇極天皇という名前もお持ちですが、この斉明天皇も吉野に、吉野宮というのを営んで、おいでになりました。有名な額田王が斉明天皇に連れ添って、吉野に来て、歌を残したということもあります。

その斉明天皇のお子様たちが、天智天皇・天武天皇。中大兄皇子が天智で、大海人皇子が天武天皇です。大化の改新を経て、中大兄皇子は天智天皇として即位されたのは少し後なのですが、いずれにしろ、大化の改新を経て天皇家が蘇我氏から政権を取り戻したという話ですね。天智天皇は近江京で天皇親政の世界をお造りになった。そしてその跡継ぎ問題でもめた時に、天智天皇の弟の大海人皇子は、「天智天皇はどうせ自分の息子の大友皇子に譲りたいだろうから、自分の身があぶない」というので、また吉野に逃げてこられ、吉野から挙兵して、天智天皇の息子の大友皇子を破って、天皇となられた。天武天皇となられたわけです。これが壬申の乱であります。

で、そういう背景のもとに、吉野を拠点に天武政権はできたので、その天武天皇の奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という方は、なんと吉野に31回巡幸・行幸をされている。鵜野讃良皇女、後の持統天皇ですが、彼女を主役に描いた『天上の虹』という里中満智子さんの長い漫画があります。この漫画はこの辺の所から物語が始まります。あの漫画、そろそろ完結したんですかね。今年の4月にラジオ収録で里中先生とご一緒しましたが、そのとき、完結しますっておっしゃってました。

それはともかく、そういう時代があって、吉野は古代から天皇や豪族が逃げてきたり、挙兵したりという場所であった。それは何かというと、吉野は古代から、幽玄の地、幽境の地、神仙の地という、なんか、よみがえりの地というべきなにかがあり、そこに行ってパワーをもらうという、そういう場所であった。

 ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より

「五輪症候群・・・」

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「五輪症候群・・・」

今年の五輪はいつも以上にテレビの前に座っている。

水泳、体操の大活躍、サッカーは盛り上がらなかったけど、卓球にバトミントン、そして昨日からは女子レスリング。 もう寝る間がないというくらいの毎日である。

6.7月は出張が続いたが、お盆前からは自坊生活が続いているので、なまじっかテレビをみる時間があるのが、どうなんだろうとは思うが、生来のテレビっ子なので、ついつい見てしまう。

それにしても今回の日本チームは大活躍である。やはり次回の東京オリンピック開催が、大きな起爆剤となっているような気がする。

東京五輪はいまだに賛否両論があり、巨額な開催予算の裏側には既得権益をむさぼる日本の大きな闇の存在も見え隠れしていて、ホントに五輪開催など必要なのかと思うところもある。東北の復興やうち続く大災害の対応、さらには将来の首都防災などへの施策の方が優先されるべき現状であることは明白である。原発を含めて、エネルギー問題も緊急課題のはずである。まさに五輪祭りに狂騒している場合なのだろうかと危惧をしてやまない。

が、日本チームの活躍、個々の選手のがんばりをみていると、思わず涙腺を緩くして感動をしてしまうし、「よーし!次は自国開催だ!」と意気軒昂となっているのは私だけではあるまい。

「世間虚仮」と仏教では教えているが、虚仮とは知りつつ、目の前の感動に左右され、大事な物をしばし忘れるひとときをお許し願いたい。

「南朝と後醍醐天皇と嵐山と吉野山」 ~田中利典著述集280817

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「南朝と後醍醐天皇と嵐山と吉野山」 ~田中利典著述集280817

役行者は厳しい蔵王権現のお姿を山桜の木に刻んで本尊とされ、大峯山上と吉野山にお祀りされ、山桜は蔵王権現のご神木となりました。一枝切ったものは指一本を切ると言われるほどに大切にしたことで、吉野は桜の名所になりました。

その吉野の桜を、嵐山に移植されたのが後嵯峨上皇です。

「五代帝王記」に「院は西郊亀山の麓に御所を立て亀山殿と名付、常にわたらせ給ふ。大井河 嵐の山に向ひて桟敷を造て、向の山には吉野山の桜を移し植られたり。自然の風流、求めさるに眼を養ふ。まことに昔より名をえたる勝地と見たり」とあります。

また、亀山の仙洞(亀山殿)に吉野山の桜をあまた移し植ゑ侍りしが花の咲けるをみて 「春ことに 思ひやられし 三吉野の 花はけふこそ 宿に咲けれ」      ~(『続古今和歌集』第二 後嵯峨上皇御製)とも出ています。

あの有名な能楽「嵐山」は後嵯峨上皇・亀山上皇の時代がモチーフになっており、吉野の神である「子守」「勝手」の神と蔵王権現が登場します。

後嵯峨上皇は、桜だけではなく蔵王権現を勧請し、地名も移しました。吉野の下千本駐車場あたりの山の名前が「嵐山」です。また隣接するほおづき尾という地名が保津峡となったようです。本家より分家の方が有名になることはよくあることで、山形の蔵王も吉野の蔵王堂が本家です。私も実は最近まで知らなかったのですが、嵐山には今も蔵王堂があり、「嵐山もみじ祭」は蔵王権現に感謝する行事でもあるということでした。

斎王制度の最後の天皇、後醍醐天皇が吉野朝=南朝を開かれたのは一三三六年。金峯山寺西側の本坊実城寺(後の金輪寺)を皇居とされました。これより前には、護良親王が吉野山で挙兵して蔵王堂に立て籠もり、鎌倉幕府軍と対決しています。

その後醍醐天皇が吉野山で亡くなられ、帝を弔うために宿敵足利尊氏によって嵯峨野に天龍寺が建立されますが、その地はもとの仙洞亀山殿が建っていたところでした。後醍醐帝は後嵯峨上皇の曾孫に当たります。吉野と嵐山の深いえにしを感じます。

ー平成23年9月4日 「第13回斎宮セミナー講演録・吉野と嵐山 蔵王権現、桜、後醍醐天皇ー抜粋 於嵯峨野・京都年金基金センターらんざん 
 

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斎王の神社で有名な京都嵯峨野の野宮神社。そこの宮司さまであるK先生から依頼を受けて講演した記録からの抜粋である。

実は吉野山と後嵯峨・亀山上皇との深い関わりは、何となく知っていたが、人前で話すとなるといい加減なことを言うてはいけないというので、少し勉強をした。そうしたら、なんと後醍醐天皇にまで繋がる縁を知るところとなった。

大変、学びになった講演会である。

*写真は後嵯峨上皇と後醍醐天皇

「自然に善悪はない」 ~田中利典著述集280816

「自然に善悪はない」  ~田中利典著述集280816

思い起こせば、2011年3月に東日本を襲った大震災、そしてそれに続く福島第一原子力発電所の事故について、当時のマスコミ等の報道では何度も何度も「想定外」と表現されていました。しかし、これっておかしなことです。

そもそも自然が起こす地震や津波を人間が止めることなどできるわけがありません。東日本大震災以降も、日本列島は豪雨や竜巻、台風災害など、毎年毎年、たくさんの自然災害に見舞われています。そのほとんどが予測すらできないのが実情です。これに対して、想定外という言葉に潜むのは、人知の範囲の話、たとえば政治上の駆け引きや経済的な計画などについて使われるべきものであり、自然に対する畏怖の心があるならば、地震や津波や台風に対して使われるべきものではないのです。

私たち山伏に言わせれば、自然にはもとより善悪はなく、津波が起きて原発が壊れようが、台風によって大雨がもたらされようが、大雪で交通がマヒしようが、それは自然が悪いのではなく、自然を甘く見たことの報いであると考えるべきなのです。どこかで自然を自分たちの都合で取り扱ってきたことの裏返しではないでしょうか。

 ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』(2014,5刊)より
http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%93%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BF%83%E3%82%92%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%81%E3%82%8B-%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%88%A9%E5%85%B8/dp/4087207382/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1400665951&sr=8-1&keywords=%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80

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この「自然に善悪はない」のフレーズは盟友の正木晃先生からいただいた言葉ですが、私はとても気に入っていて、東日本大震災を契機に、いろんなところでお話をしました。

東日本大震災以降も、たくさんの地震災害や台風、洪水、噴火など、うち続く災禍に日本列島は災害列島化しています。長い目でみればここ半世紀以上、日本列島は少し平穏な時代だったのかもしれません。鴨長明の「方丈記」を読むと、都の市中に死体がごろごろしていたような時代が何度もあったわけで、この国はさまざまな自然災害とともに生きて来たのです。

そんなことに思いを巡らせて書いた一文です。

*写真はかの大震災で一番私の心に残った写真です。

「SMAP解散の真相・・・」

「SMAP解散・・・」

ホントはどうでもいいことだとわかっているのですが、生来のミーハーな吉野山人さんは気になって仕方がない「SMAP解散」

で、ネットで私が言いたいと思うような意見ばかりを拾ってみました。

...

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007
メリーさん、おめでとう。 2016/8/14 10:45

あなたの希望通り、SMAPは分解して解散になりました。
あなたが文春記者の前で飯塚マネージャーに罵倒した時から、こうなるシナリオだったはずです。
ジャニーズ事務所幹部は、所属タレントやファンをただの金づるとしか思っていないことがわかり今までのような芸能界での権力は、徐々に無くなっていくでしょう。
ジャニーズ事務所幹部の権力闘争の結果、国民的アイドルグループを潰したのです。ジャニーズ事務所所属タレントの後輩にも影響があるでしょう。
ジャニーズ事務所にはうんざりです。

011
本当だな、ゆんさんの 2016/8/14 11:44

言われた通り、どうでも良いこと。そうなることは端から分かっていたこと。年内解散に引っ張ること自体さもしいし下らない。ファン心理を考えたら8番の方のコメントも納得がいくが。全てはジャニーズ事務所の筋書き通りに事が運んだだけのSMAP解散。干し肉さんの言う通り、残留を良いことに助かろうと考えた木村拓哉の思惑は飛んでもない方向へ向かいつつある。ま、一事が万事の意味を知らない勘違い野郎らしい結末が待っていることは聞くに及ばないが。

014

笑 2016/8/14 12:23
一番の読みどころ?
そりゃあ、ジャニーズ事務所の発表のタイミングの巧妙さでしょう!
  世間はオリンピック一色で、おそらくワイドショーで活躍する芸能リポーター諸氏も開店休業状態。おまけに土曜日から日曜日に日付が変わった直後という深夜に、ただでさえワイドショー番組の少ない日曜日の朝だから、あんまり大々的に報じる番組もないだろうと踏んでの発表だわ!
ついでに各週刊誌もお盆で合併号でやってるから、
  記事を出そうにもちょい先になっちゃうとかで、騒動を最小限に抑えるには、
  絶好のタイミングというべきか!

019
通りがかりの野次馬 2016/8/14 18:30

ジャニーズ事務所は、自分たちはさもがんばったがダメだった空気感を出したコメントになっているが、そもそも今年始めの解散騒動が、事務所としてのマネジメントの失態だろう?
  事務所の中で、誰と誰がモメようと勝手だが、どっちを向いて仕事をしてたんだ?って話だ。
  今回の解散発表でも、けさのスポーツ新聞は関係者の話と称してどこまでホントかわからない情報が渦巻いているんだが、メンバーの誰がどんな話をしたとか言ったって、所詮は「憶測」だよね!
メンバーの誰が悪いってゆうより、そもそも事務所のマネジメントが決定的におかしいんだから、メンバー個別へのバッシングは気の毒だ!
よそうよ!

020
いまさら感 2016/8/14 20:19
一月の時点で解散していれば何も問題が無く、お互いにここまで傷つく事がなかったんじゃないかな、なにもかもジャニーズ事務所のご都合主義でマネジメントの失敗だしSMAPこそ良い被害者だね。それに年末までひっぱる意味が解せないし、メンバー数名の意向だなんて事務所がコメントするかね、まるで犯人捜しをして晒し者にするのですか?まるでブラック企業まるだしですね。

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まあ、私もだいたい同じような意見です・・・。

でも、ま、シロウトの私には真相はわからんし、とりあえずは、本当にどーでもいいことではあります。

りてんさん・・・9月4日に東京/奈良まほろば館に再登場!

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9月4日に東京・奈良まほろば館に再登場!

[金峯山寺蔵王堂「日本最大秘仏  金剛蔵王権現特別ご開帳」展
 ~観光特急「青の交響曲(シンフォニー)」運行慶讃~イベント連携講演]

★平成28年9月4日 14:00~...
  講師:金峯山寺長臈 田中 利典 師
  演題:修験講話「蔵王権現、青の慈悲・青の救済」

会 場 : 奈良まほろば館2階

資料代等: 無料

定 員 : 70名(先着順)

申込方法:
・ハガキまたはFAX
   必要事項(講演名・講演日・希望時間(部)・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送りください。
・ホームページ
 サイトの「申込フォーム」からお申し込みください。
http://www.mahoroba-kan.jp/course.html

お問い合わせ先
   奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
   電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932

※聴講券等の発行はいたしません。定員に達し、お断りする場合のみご連絡いたします。
※申込後にキャンセルされる場合は事前にお知らせください。

○「ならどっとFM」に第二回目、出演のお知らせ・・

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○「ならどっとFM」に第二回目、出演のお知らせ・・

地元綾部のコミュニティラジオ・FMいかるでコメンテーターを始めましたが、その中で「りてんさんの知人友人探訪」というコーナーを放送しています。

そのコーナーを7月から、FMいかると、ならどっとFMさんとのコラボによって、奈良局での収録を行うことになり、7/8には興福寺副貫首の森谷英俊猊下にお出ましをいただきました。

その第二回目が今日、8/12午後3時から放送されます。生放送です。

今回は元春日大社権宮司、現在、奈良県立大学客員教授をお勤めの岡本彰夫先生。自他共に盟友を自認する仲です。是非、お聞きくださいく。

奈良の方はFM(78.4MHz)で聞けますが、サイマルラジオで全国どこでも聞けます。奈良ドットFM公式サイト →  http://narafm.jp/

FMいかるは来来週の水曜日の放送です。

奈良ドットFMでは生放送なので、今日午後3時から4時までの放送となります・・・。

よろしければ是非お聞きください。

*写真は森谷さんの回の収録時のものです。

「水まつり法話会ー水に感謝」備忘録

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「水まつり法話会ー水に感謝」備忘録

長崎県島原市の水まつり前夜祭の法話会に呼ばれて、8月4ー5日と島原に行った。はじめての訪問である。いろんなご縁での法話会だったが、「松島弁才天さま」に呼ばれていったような感じがしてならなかった。・・・せっかくの機会だったので、備忘録を書いておく。

まず、法話会をするにあたり、島原の歴史などを勉強してたくさんのことを学んだ。

第一はキリシタン弾圧と島原の乱のこと。忌まわしくも悲しいこの地の過去である。それから「眉山大崩れー島原大変肥後迷惑」のこと。2万名もの犠牲者が出た大災害である。そして、眉山大崩れで土地が埋まって繋がった松島と、そこに弁財天が祀られている大師堂と天如塔のこと。そこには廣田言証師と「からゆきさん」の深い関わりもあった。「からゆきさん」は山崎朋子の「サンダカン八番娼館」で有名になったが、全世界に身売りされた女性たちの哀史である。

 *廣田言証(ごんしょう)弁天山開山
岡山県真庭郡久世町に生まれ、40歳のとき商売に失敗。難病で治療の手立てが無いことを医者に告げられのを機に跣(はだし)跣(はだし)の誓願を立て、素足で四国八十八カ所の霊場を巡拝(修験道)。弘法大師の霊験によって、病が癒え、明治20年、四国八十八カ所第五十二番札所太山寺で出家し、僧名「言証」を授かる。以来、素足で全国仏蹟地を巡り、明治28年雲仙普賢岳にて修行。島原に下山し、お大師様の霊験を錫(しゃく)錫(しゃく)杖(じょう)杖(じょう)に受け、幾多の病人を平癒し、多くの信徒の帰依を得て、太山寺教会所として大師堂を建立。また、島原半島を一円に鎮西八十八ヶ所の霊場を建立した。
明治39年、2年半単身インドの仏跡巡礼し、帰路ラングーンの寺で大理石の如来像を贈られ、帰国後寄進された浄財で塔を建立。最上階に安置し、天竺(てんじく)天竺(てんじく)(インド)の如来像であることから「天如塔」と命名した。浄財の多くは、師が東南アジアで出会った、からゆきさんからであった。
  
そして1991年(平成3年)6月3日の雲仙普賢岳噴火。43名の命が奪われた大災害だった。

そういう話の全部が、法話会の会場となった弁天山大師堂にはが詰まっていたのだった。深い思いをもっての法話会だった。そこでお話をしたのは以下のようなこと・・・。

①水まつりの本質。
祭りの本質とは・・イベントと祭りの違い
祭りの中心には神仏がいる・・祭りとは神祭りのこと。
神祭りなきまつりは単なるイベント。
前夜祭で弁天山大師堂で祈願祭と法話会があるのは素晴らしい!
そのために私は弁天様に呼ばれたのだとわかった。

水まつりHP開催趣旨から
 何気なく、毎日不自由なく使っている
 島原の宝・・・「湧水」
 この「湧水」がなくなってしまった時のことを考えることがありますか・・・?
 何気なく、毎日不自由なく使っていた「水」
 人は、この「水」に襲われ、生きるために不可欠な「水」を絶たれた。
 何気ないものから、生きるためのものへと「水」の必要性をあらためて感じさせられた。
 水に恵まれた島原。
 水の大切さを改めて感じた今だからこそ、
 水について考え、水の大切さを知る。
 そんな日があってもいいと思う。
 「水」を飲み、「水」と戯れ、改めて「水」に感謝する。
 そんなひとときをこの「水まつり」で感じてみませんか?

上記、開催の趣旨に、神まつりが欠落しているのが残念。
水への感謝の奥にある自然への畏敬とそれを体現する神仏への祈りが大事。
だから今年から前夜祭として、ここ松島の弁天様の前で開催されることが大変意義がある。
弁天様にそのことを伝えなさいと言われて、ここに来た気がしている。

といって、イベントがダメというのではない。人の営みは素晴らしい
明日本番の催し竹灯篭点灯・番傘点灯など楽しみだし、それは人間しかやらない
犬や猫ではない人間しかやらないものの中に人間の本質がある
他者の命を奪い、子孫を作るのは人間同様に犬も猫もする
イベントのように集団で催し物をするのは人間だけ・・・素晴らしい。
そして犬や猫ではない最高の行為が神への祈り、他者への感謝である。
そのまつり、祈り、感謝の象徴が「水」、弁天さまへの感謝である

②祭りはハレの行為である。ハレとケを行き来して生きて来た日本人

③自然に善悪はない。自然の恩恵、そして驚異を忘れてはいけない。島原大変肥後迷惑にみる自然の驚異。そして水の都島原が生まれた。

④風土と歴史を大切に。 島原の特異性の中に、日本の大切なものが語られる…特異でないと語れない。
島原の歴史とは
キリシタンを受け入れてきた日本の多様性
貧困による女性の不幸ーからゆきさんと生んだ背景
島原大変肥後迷惑にみる自然との共生
 
⑤最後にOMAの勧め・・・
O 水のおかげさま
M 水がもったいない
A 水がありがたい

**************

だいたい、どんな依頼も断らないというのが私の主義である。だから、今まで、JAXAや富士山の世界遺産登録国際シンポジュウム、「森里川海プロジェクト大会」など、まあ、私の力をおよそ越えたような集まりにも出かけている。

いつも行ってから後悔したり、悪戦苦闘をすることになるが、今回の水まつり前夜祭法話会もかなり手こずったものとなった。

でも弁天様の思し召しと思って、いろいろ勉強出来たし、楽しく過ごさせていただいた法話会だった。

*写真はFB「島原水まつり」さんから拝借しました。
 自分の写真は自分で撮れませんので(>_<)。

「修験道ルネサンス」 ~田中利典著述集280811

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「修験道ルネサンス」 ~田中利典著述集280811

暑ければ冷房、寒ければ暖房、移動は車や飛行機で、電子レンジに冷蔵庫……便利なもの、体が楽をできるものばかりが増えました。高度な物質文明社会の発展は肉体が楽することばかりを優先する結果、主であるべき精神が肉体に隷属する社会を現出させています。肉体の楽を優先する社会は心が置き去りにされる社会でもあります。そしてついには魂をもって生きている現実感さえ喪失させてしまいます。

山に入って過酷な日々を行ずると、日常生活が怠惰であればあるほど、肉体の痛みや苦しみを伴います。峻厳な山や谷を駆け抜けるとき、肉体と心が対峙して葛藤する。それが高まると、自分の存在を超えた神仏や曼荼羅の世界が目の前に出現します。そこで初めて、人間の命のありがたさやその肯定が始まるのです。

大峯奥駈への参加希望者の多くは、日常からの現実逃避ではなく、息苦しい現代社会の中で自分を前向きに変えたい、打開したいという気持ちからの参加です。「心の時代」と言われて久しい中で、私は「修験道ルネサンス」を提唱してきました。ポスト近代への、生命と魂の反撃が始まったのだと感じます。

修験道の賞味期限はまだまだ切れていません。物質文明社会が行き詰まり、自然が猛威を振るう今の時代だからこそ、その精神が求められていると私は思っています。
 
ー朝日新聞奈良総局版「人生あおによし」(平成27年11月29日掲載)掲載

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こういうことばかり、もう20年以上、訴え続けてきました。身内からもなかなか支持されなかった孤独な活動だった気もしますが、外からの応援団はたくさん得ることが出来ました。こういった新聞取材などもまさにその証左です。おかげで少しは修験道全般に対する世間の評価は上がってきたように思います。

でもまだまだですね。その真ん中で情報発信する立場にはありませんが、これからも私なりに頑張って行ければと思います。

*写真は奥駈修行の峯中のものです。

「身体感覚と修験道」 ~田中利典著述集

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修験道でもっとも大切なことは、「実修実験」です。実際に実地で修行を行い、たしかに「験(しるし)」を体得することです。それがすでに感想をご紹介した「入峰修行」です。

山は修験者にとって、たんなる山ではありません。神仏のおわす世界そのものであり、修験者には、大自然そのものがご本尊なのです。霊威にみちあふれた山に入るのは、まさに神仏に抱かれたような心地がいたします。

修験者は深山幽谷を跋渉して大自然と一体となることによって、わが身の穢れをはらおうとするのです。身・口・意の三業がつくってきたケガレをはらうのです。

俗なもの、ケガレたもの、そういう自身の罪業は一度死んで、大自然という神仏によって新たないのちを授かって再生するのです。そして、生まれかわった清浄な身心となって山を出る。それが、入峰修行の極意です。

また、入峰修行は、一度だけ体験すればそれでよいというものではありません。

修験者は、毎年、同じ山に入り、同じ道を通って登ります。同じ山に分け入るというのは、修行には効果的なのです。初めての山ではどうしても景色にとらわれますし、道に迷ったりしないかといらぬ心配もします。ところが、五回、十回と同じ道を登っていますと、道はすべて頭に入っていますから、周囲の景色を見ながらも自然に気持ちが統一されてきます。

吸う息・吐く息、足の運び、体幹の動き、ひとつひとつの動作に感覚は研ぎ澄まされていきます。余計なことは考えません。ただただ、いまの自分の動き、我が身のいまの心を観ています。いわゆる「歩く禅」のような境地を体得できるのです。そこに入峰修行の極意があります。

何度も同じ道を入峰修行している中に、いろいろなことが見えてきます。気づかされるのです。「人生どうあるべきか」ということも、自分なりに自得されていきます。

山中の草木すべてのものは、自分をことさら主張することなく、他と較べることもなく、まさに「おのずからあるもの」として、それぞれの時季がくれば花を咲かせ、それぞれの命をまっとうしている。そういうことが、山の修行では時として「まさにそのとおりだなあ」「ありがたいなあ」と実感されます。

 ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』(2014,5刊)より
http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%93%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BF%83%E3%82%92%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%81%E3%82%8B-%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%88%A9%E5%85%B8/dp/4087207382/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1400665951&sr=8-1&keywords=%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80

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*写真は奥駈の峯中です。

「懺悔して身心を正常にする」 ~田中利典著述集280809

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「懺悔して身心を正常にする」 ~田中利典著述集280810

入峰修行では、修行者は声を合わせて山坂に来るたびに「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら足を進めます。

体の芯から声を出していきます。声を出して歩いていくことで、次第に余計なことが消えていき、なにも考えられなくなります。頭も空っぽになっていくのです。

「懺悔」は「さんげ」と仏教では読みます。キリスト教の「懺悔(ざんげ)」とは、同じ字句ですが、仏典には「ただ懺悔の力のみ、よく積罪を滅す」と示されています。

「あらたむるにおそきことなし」です。生きていくとは、二度と履(ふ)み行うまいと、仏の前に頭を垂れなければならないことのいかに多いことか、そのことに気づかされます。山を歩いていると、まことに懺悔懺悔の連続なのです。このように、身をもって懺悔し、自己を見つめていくことが、すなわち身心を清浄にしていくことになるのです。

私は、そもそも懺悔こそが宗教心の基本ではないかと思います。罪悪深重のおのれに目覚めることこそが、慈悲の心をつちかい、広く人々の幸せを願う生き方になるのだと思います。それを身体から実感させていただく入峰修行は、まことにありがたいと感じます。

 ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』(2014,5刊)より
http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%93%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BF%83%E3%82%92%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%81%E3%82%8B-%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%88%A9%E5%85%B8/dp/4087207382/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1400665951&sr=8-1&keywords=%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80

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*写真は奥駈の峯中:聖宝の宿です。

「里の行と山の行の循環」

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「里の行と山の行の循環」
  ・・・田中利典著述集280808

さまざまな個人の悩み・願いに対応する山伏修験者。そのために厳しい山修行で培う行力・法力が必要になるのです。また、悩みを抱えた人、困った人にばかりに対応していると、自分自身の気も奪われ、力がなくなっていきます。ですから、自らが邪気をはらい、いっそうの法力を高めるためにも山修行が必要になるのです。

つまり、山伏の山修行とは、自分の力を高めるため、市井の人たちに応えるためのものなのです。自分の力を修行によって高めることはもちろん大事ですが、人とどうかかわっていくか、あるいは人に対応したがゆえの気の濁りのようなものを山修行でリセットすること。これが山伏修行の大きなテーマです。

つねに山の修行と里の行を循環する。それが、山伏の活動の基本スタイルなのです。

 ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』(2014,5刊)より
http://www.amazon.co.jp/%E4%BD%93%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%BF%83%E3%82%92%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%81%E3%82%8B-%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%88%A9%E5%85%B8/dp/4087207382/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1400665951&sr=8-1&keywords=%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E5%85%A5%E9%96%80

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「里の行」・・・言うはヤスし、行うがガタし・・・ですね。

昨年春に山を下りて、自坊の綾部での里山伏暮らしになり、すでに1年余。大した世のおお役にもたてないまま、1年数ヶ月が過ぎました。少し反省を込めて、自著を紹介しました。

ま、ともかくご依頼を受ければ断らないという姿勢はひたすら守って、お声掛けいただいたところには場所をいとわず、行かせていただいています。

先日は長崎県島原の水まつりの前夜祭法話会に出向き、またからゆきさん由縁の天女塔にも上がらせていただきました。翌日には熊本の菊池市にある本宗末の教会(菊池大師堂)へも出向かせていただきました。

今月は、8/22に東京ビックサイトで、壇蜜さんとのトークセッションにも伺います。仕事を選ばず、世のため人のためと思う日々です。これはちょっと役得な感じもするオファーですが。

なにぶんともよろしくお願いいたします。

*写真は菊池大師堂さまでのお勤めの様子です。

「山伏の山修行」ー田中利典著述を振り返る280801

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「山伏の山修行」
 ー田中利典著述を振り返る280801

○田中利典 講演のときも申し上げましたけれども、山の修行は危険を伴うわけであります。ややもすると、いまの人たちというのは自分たちが持っている原理をそのまま山に持ち込もうとしますから、これは非常に危険なことが生まれます。

ですから、山の修行をするときは、やっぱり山の原理に自分たちが合わせるということが、まず心構えとして欠かせないわけで、自分たちの勝手でいくんなら、山伏修行ではなく、よそで勝手に行ってもらったらいい。私どもが責任を持って山の修行をしてもらう以上は、山の原理に合わせるということを、まず前提としているわけであります。そのためには、自分たちが持っている原理でないものに、まず染まるということが大事であります。

金峯山寺の体験修行は実は私がつくったシステムです。このシステムをなぜつくったかというと、蓮華入峰とか、奥駈入峰とか、正式な入峰をしたときに、今までなら連れていってはいけないような一般の人が申し込んできて、連れていくようになって、どんどん自分たちの勝手な気持ちではいって来る人が増えてくるわけです。

そうすると、山伏の修行というものを、よく理解しておかないと、危険が伴うわけであり、いまの、まして自我が増大した現代人を連れて行くのは問題がある。本当に、言い方はわるいですが、ばかみたいなやつが、いっぱい来ますからね。

ですから、ばかみたいなやつが少し、まともになるような、訓練としての体験修行が必要になってくる。「もう私は歩けませんから帰ります」という人は初めから来るなという話になるわけでね。

金峯山寺は極めて親切で、その分、よく怒られる修行だと思います。 蓮華入峰に東京の有名なお寺の偉い人がおいでになったのですが、彼曰く「坊さんになってから、こんなに怒られたことはないです、というぐらい怒られた」と。それぐらい怒るんです。

何で怒るかというと、怒ることによって、まあ、彼の場合は心構えができていたんですが、かたちとして、それができなかったので、たぶん叱られた。

まず自分たちが持っている原理をいったん捨てて、山の修行に入るというのは最低限の参加のルールですから。自分たちが自分たちのルールのままで歩くのなら自分たちで勝手に歩けばいいわけでね、ただし、山伏として歩く以上は、われわれのルールに従っていただくことになります。

われわれが最低限、守ってほしいというのは、先達の言うことを聞くことと、地下足袋で歩くということ。登山靴ではなく、まあわらじという時代ではないので、せめて地下足袋で、足の裏から山の力、自然の力を感じていただく。そういうことを身に染ませるために、いろいろやかましく言うわけで、そういう決められた山の原理に従ったルールの中で歩く中で、縦軸というのは個人の問題だと思います。

修験の修行を私がすごく素晴らしいと思うのは、私は山が大嫌いなので、山伏でなかったら、山なんかへは行かないわけですけれども・・・

○鎌田東二 ほんとですか。

○田中 ほんとですよ。大嫌い。私は修行以外で山に行ったことがない。ハイキングとかでは山に行かない人なんですよ。

何がいいかというと、大きな気持ちで来た人にも、小さな気持ちで来た人にも、それぞれに応じて何か、その行を通じて感じられるものがある。何も期待を持ってこなかった人にさえ、その行を通じてなにかしら感じてもらえるものがある。
それが、人によっては縦軸として、神を見たとか、聖なる気持ちになったとか、そういうことがあるかもしれないし、そんなところまでいかなくても、とても清浄にしていただいた程度のことかもしれないけれども、そういう、それなりのものがあるというのが山の修行のすごさだなと思います。

ただ、一番危険なのは、「私は百日歩いて、千日歩いて、人の気配が分かるようになった」とか、「神の存在が分かるようになった」とか言い出すと、それはちょっと心配なことで、病気になったんじゃないかなと思いますね。

人間というものには誰だって、そういうことはあるわけであって、ただ、修行をすると、そういうものがないといけないような気持ちなるのも人間で、そこのところに魔が入りこむ間があるわけです。そこは気を付けないといけません。

もし、そういうものがあったとしても、経験したことを軽々しく人に言うべきものでもなく、自分の中にそっと置いておいたらいいことだと思うわけです。私は、あまり縦なるものを宣伝するのはどうなのかなと思っています。それは自分の宗教的体験の世界に置いておけばいいことです。

人によって大きい小さいはあっても、それなりに得られるものがあるのが山の修行のすごさではないかと私は思います。以上です。

ー「2014.11.20 科研・身心変容技法の比較宗教学:大荒行シンポジュウム」質疑応答から転用

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