« 思い出の1曲・・・シグナルの「二十歳のめぐり逢い」 | トップページ | 「大工事になってしまいました・・・」 »

「吉野というところ・・・③」ー田中利典著述集280826

Img_6

「吉野というところ・・・③」ー田中利典著述集280826

21日から書き始めた記事の続き、その③です・・・

***********************

「吉野というところ・・・③」

それからもう少し時代が下ると鎌倉期には、文治2年(西暦1186年)11月に、源義経が、兄の頼朝と不仲になって、頼朝に追われて全国を逃げ回るのですが、愛妾静を連れて吉野にやって来る。

今、11月に来たと言いました。『吉野千本桜』という戯曲があります。いわゆる、歌舞伎や文楽で、後々この義経が吉野に逃げてきたことが物語に描かれるわけでありますが、歌舞伎の『吉野千本桜』通し狂言・・・大変長いお話ですけれども、そこで終わり方に吉野山の場というのがございます。そこは蔵王堂の前が舞台になっています。その時の蔵王堂は桜満開の、豪華絢爛に大変美しい舞台が描かれます。

しかし実際には、義経が来たのは旧暦の11月ですから真冬であります。桜が咲いてる時期に来たわけではなのです。吉野山=桜という演出で満開の吉野山が登場しているのです。

・・・で、吉野で一行は4日間滞在するんですが、吉野の宗徒は鎌倉方の追手を恐れて、義経に味方をしません。それで義経は、ここで静と別れて打ち退くということになります。

その別れの時、義経は今から山上ヶ岳へ逃げるので、山上ヶ岳というのは女人禁制であるから、女の人は連れて行けないので、ここで静と別れるみたいなことを描いてありますが、実は嘘でありまして、義経は女人禁制の山上ヶ岳へは行っていません。静を吉野に置いて山を下りて逃れるわけです。冬枯れした時期ですから、足手まといになる静は邪魔だったのでしょう。その時に静のお腹の中には赤ちゃんがいたといいます。大変悲しい話がここで行われたわけでありますね。

この義経の物語は52回くらい、映画とかドラマになっているそうです。そして、今から10年ほど前に、ジャニーズの男前で、タッキーこと、滝沢秀明君という役者さんが『義経』というNHKの大河ドラマに出ました。

あの時にね、ちょっとだけ感激したことがあります。それまでの義経のいろんな物語は、兄頼朝に追われて吉野山に逃げてくるにあたって、「吉野山へ逃げよう」とか、「吉野へ行こう」とか、大体そういう表現なんですね。ところが滝沢君はこのとき、こう言ったんです。「金峯山寺に参ろう!」と。

これは実に正しいのです。義経は確かに吉野に来たのですが、吉野山に来たのではないのです。別に花見がしたいから来たわけでもないのです。金峯山寺という、役行者以来の修験の勢力、その経済力、ネットワーク、それから、昔の寺というのは軍隊を持ってましたからね。

今NHKの大河ドラマで『軍師官兵衛』やっていますね、あの織豊時代に、信長・秀吉の施策によって、お寺が武装解除させられるのですが、それまではお寺みんなは軍隊持ってたんです。ですから石山本願寺は織田信長と戦うし、比叡山が全山を焼かれることになる・・・というのは実はあの『軍師官兵衛』の時代までは、お寺はみんな軍隊持ってたからなのです。

今でもイスラムは、軍隊持ってるでしょ。キリスト教は十字軍の時代がありますが、日本は近世の初めにお寺が武装放棄してるから、今の日本人には宗教が軍隊を持っているという感覚はないんですね。しかしそれまでは持ってたんです。今でも世界中持ってるところは、いまでもたくさんあるわけです。

で、それまで、たぶん、特に室町時代なんていうのは、国という機関はあってないようなもので、政府もあってないような時代でしたから、それぞれが自分たちを守るためには軍隊を持っていたわけです。寺もたくさんの荘園、たくさんのものを抱えていましたから、軍隊も持っていたし、国が国の体を成していなかった分だけ、お寺というのが非常にその、国が持っているような部門をたくさん持っていた。

たとえば、今は大蔵省がお酒の税金取っていますけども、中世はお酒の税金って寺が取っていた。油の販売権も寺が持っていた。今となっては、国がやっていることが当たり前なことが、実は当たり前でなかった時代の方が長かったわけです。

だから、当然軍隊も持っていた。武士階級はそこから生まれて来たのですからね。金峯山寺もまた、役行者以降、寺の発展とともに中世にかけては大変大きな勢力となった。大きな軍事力を持っていました。そういう力を頼って、実は義経はやって来たわけで、あの人たちは吉野に来たわけではなくて、義経一行が「金峯山寺に参ろう」といったのは、極めて正しいことなのです。

ただまあ、金峯山寺という名前が明治以降ほとんど誰も知らなくなったので、意味わからんな、ということで、大方の物語では「吉野山に行こう」ということになっているんでしょうけどもね。今でも比叡山とか高野山とか、そういうような意味で、吉野山=金峯山寺という関係性というのがあるのですけれども、そういう歴史があるのも金峯山寺という修験の信仰を拠点とする勢力があったからということであります。

 ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より

*****************

写真は源義経です。

主題が後嵯峨天皇や南朝に繋がる吉野と嵐山についての講演録なので、本題はこの先長いのですが、吉野というところという、前書きにあたる部分は次回で終わりです。

« 思い出の1曲・・・シグナルの「二十歳のめぐり逢い」 | トップページ | 「大工事になってしまいました・・・」 »

講演」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

本・著作

最近のトラックバック

Twitter

  • Follow me
  • Twitter
    TwitterPowered by 119
2022年4月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ