「身体感覚と修験道」 ~田中利典著述集
「身体感覚と修験道」 ~田中利典著述集280810
修験道でもっとも大切なことは、「実修実験」です。実際に実地で修行を行い、たしかに「験(しるし)」を体得することです。それがすでに感想をご紹介した「入峰修行」です。
山は修験者にとって、たんなる山ではありません。神仏のおわす世界そのものであり、修験者には、大自然そのものがご本尊なのです。霊威にみちあふれた山に入るのは、まさに神仏に抱かれたような心地がいたします。
修験者は深山幽谷を跋渉して大自然と一体となることによって、わが身の穢れをはらおうとするのです。身・口・意の三業がつくってきたケガレをはらうのです。
俗なもの、ケガレたもの、そういう自身の罪業は一度死んで、大自然という神仏によって新たないのちを授かって再生するのです。そして、生まれかわった清浄な身心となって山を出る。それが、入峰修行の極意です。
また、入峰修行は、一度だけ体験すればそれでよいというものではありません。
修験者は、毎年、同じ山に入り、同じ道を通って登ります。同じ山に分け入るというのは、修行には効果的なのです。初めての山ではどうしても景色にとらわれますし、道に迷ったりしないかといらぬ心配もします。ところが、五回、十回と同じ道を登っていますと、道はすべて頭に入っていますから、周囲の景色を見ながらも自然に気持ちが統一されてきます。
吸う息・吐く息、足の運び、体幹の動き、ひとつひとつの動作に感覚は研ぎ澄まされていきます。余計なことは考えません。ただただ、いまの自分の動き、我が身のいまの心を観ています。いわゆる「歩く禅」のような境地を体得できるのです。そこに入峰修行の極意があります。
何度も同じ道を入峰修行している中に、いろいろなことが見えてきます。気づかされるのです。「人生どうあるべきか」ということも、自分なりに自得されていきます。
山中の草木すべてのものは、自分をことさら主張することなく、他と較べることもなく、まさに「おのずからあるもの」として、それぞれの時季がくれば花を咲かせ、それぞれの命をまっとうしている。そういうことが、山の修行では時として「まさにそのとおりだなあ」「ありがたいなあ」と実感されます。
ー拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』(2014,5刊)より
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