「吉野というところ・・・①」ー田中利典著述集280821
「吉野というところ・・・①」ー田中利典著述集280821
吉野は古代からずっと日本の歴史上に現れ続けるんですが、それは吉野で活躍した人、あるいは吉野を訪れた人たちの歴史が、日本の歴史の中で大きな意味をなすことがたくさんあったのでそうなったわけであります。ですから、まず吉野を訪れた人々はどんな人があるのかなという所から見ていこうと思います。
第一番目は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)。正確に言うと、皇子の前にも訪れた有名人はいます。古事記、日本書紀にも出てまいりますように、神話の世界ですが、神武天皇が大和にお入りになるのに、初め大阪からお入りになった。ただ、その道は土俗の人々の抵抗に会い、上手くいかなくて、それで改めて熊野から、紀伊半島の山々を越えて吉野に入り、それから大和に入る。吉野は神武様がお通りになったというような歴史があるのです。日本の歴史に関わる大きな足跡ですね。
しかしまあ正しく、正史と言われる中で出てくるのは、古人大兄皇子という、舒明天皇の第一皇子で、蘇我馬子の娘の子が最初です。蘇我入鹿が、山背大兄王・・・聖徳太子の息子さんです・・・を殺して、古人大兄皇子が天皇の跡継ぎになる。ところが645年に大化の改新で、中大兄皇子に蘇我氏が滅ぼされ、蘇我氏後ろ盾を失った古人大兄皇子は吉野に隠棲するのです。隠棲されるんですが、大化の改新の後、わずか3か月後には吉野で殺されてしまいます。ここで注目するのは吉野に舒明天皇の第一皇子が逃げてこられたという事実。その辺から吉野というのは、都に対して「逃げる場所」的な、そういう場所であることがわかる。
斉明天皇という舒明天皇の奥さん、重訴して皇極天皇という名前もお持ちですが、この斉明天皇も吉野に、吉野宮というのを営んで、おいでになりました。有名な額田王が斉明天皇に連れ添って、吉野に来て、歌を残したということもあります。
その斉明天皇のお子様たちが、天智天皇・天武天皇。中大兄皇子が天智で、大海人皇子が天武天皇です。大化の改新を経て、中大兄皇子は天智天皇として即位されたのは少し後なのですが、いずれにしろ、大化の改新を経て天皇家が蘇我氏から政権を取り戻したという話ですね。天智天皇は近江京で天皇親政の世界をお造りになった。そしてその跡継ぎ問題でもめた時に、天智天皇の弟の大海人皇子は、「天智天皇はどうせ自分の息子の大友皇子に譲りたいだろうから、自分の身があぶない」というので、また吉野に逃げてこられ、吉野から挙兵して、天智天皇の息子の大友皇子を破って、天皇となられた。天武天皇となられたわけです。これが壬申の乱であります。
で、そういう背景のもとに、吉野を拠点に天武政権はできたので、その天武天皇の奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という方は、なんと吉野に31回巡幸・行幸をされている。鵜野讃良皇女、後の持統天皇ですが、彼女を主役に描いた『天上の虹』という里中満智子さんの長い漫画があります。この漫画はこの辺の所から物語が始まります。あの漫画、そろそろ完結したんですかね。今年の4月にラジオ収録で里中先生とご一緒しましたが、そのとき、完結しますっておっしゃってました。
それはともかく、そういう時代があって、吉野は古代から天皇や豪族が逃げてきたり、挙兵したりという場所であった。それは何かというと、吉野は古代から、幽玄の地、幽境の地、神仙の地という、なんか、よみがえりの地というべきなにかがあり、そこに行ってパワーをもらうという、そういう場所であった。
ー連続講演「伝えたい世界遺産『吉野』の魅力」(第6回)平成26年11月22日/奈良まほろぼ館講座「吉野と嵐山の縁(えにし)~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山~」より
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