「南朝と後醍醐天皇と嵐山と吉野山」 ~田中利典著述集280817
「南朝と後醍醐天皇と嵐山と吉野山」 ~田中利典著述集280817
役行者は厳しい蔵王権現のお姿を山桜の木に刻んで本尊とされ、大峯山上と吉野山にお祀りされ、山桜は蔵王権現のご神木となりました。一枝切ったものは指一本を切ると言われるほどに大切にしたことで、吉野は桜の名所になりました。
その吉野の桜を、嵐山に移植されたのが後嵯峨上皇です。
「五代帝王記」に「院は西郊亀山の麓に御所を立て亀山殿と名付、常にわたらせ給ふ。大井河 嵐の山に向ひて桟敷を造て、向の山には吉野山の桜を移し植られたり。自然の風流、求めさるに眼を養ふ。まことに昔より名をえたる勝地と見たり」とあります。
また、亀山の仙洞(亀山殿)に吉野山の桜をあまた移し植ゑ侍りしが花の咲けるをみて 「春ことに 思ひやられし 三吉野の 花はけふこそ 宿に咲けれ」 ~(『続古今和歌集』第二 後嵯峨上皇御製)とも出ています。
あの有名な能楽「嵐山」は後嵯峨上皇・亀山上皇の時代がモチーフになっており、吉野の神である「子守」「勝手」の神と蔵王権現が登場します。
後嵯峨上皇は、桜だけではなく蔵王権現を勧請し、地名も移しました。吉野の下千本駐車場あたりの山の名前が「嵐山」です。また隣接するほおづき尾という地名が保津峡となったようです。本家より分家の方が有名になることはよくあることで、山形の蔵王も吉野の蔵王堂が本家です。私も実は最近まで知らなかったのですが、嵐山には今も蔵王堂があり、「嵐山もみじ祭」は蔵王権現に感謝する行事でもあるということでした。
斎王制度の最後の天皇、後醍醐天皇が吉野朝=南朝を開かれたのは一三三六年。金峯山寺西側の本坊実城寺(後の金輪寺)を皇居とされました。これより前には、護良親王が吉野山で挙兵して蔵王堂に立て籠もり、鎌倉幕府軍と対決しています。
その後醍醐天皇が吉野山で亡くなられ、帝を弔うために宿敵足利尊氏によって嵯峨野に天龍寺が建立されますが、その地はもとの仙洞亀山殿が建っていたところでした。後醍醐帝は後嵯峨上皇の曾孫に当たります。吉野と嵐山の深いえにしを感じます。
ー平成23年9月4日 「第13回斎宮セミナー講演録・吉野と嵐山 蔵王権現、桜、後醍醐天皇ー抜粋 於嵯峨野・京都年金基金センターらんざん
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斎王の神社で有名な京都嵯峨野の野宮神社。そこの宮司さまであるK先生から依頼を受けて講演した記録からの抜粋である。
実は吉野山と後嵯峨・亀山上皇との深い関わりは、何となく知っていたが、人前で話すとなるといい加減なことを言うてはいけないというので、少し勉強をした。そうしたら、なんと後醍醐天皇にまで繋がる縁を知るところとなった。
大変、学びになった講演会である。
*写真は後嵯峨上皇と後醍醐天皇
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