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「金峯山寺と修験道⑥」ー田中利典著述集2801026

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「金峯山寺と修験道⑥」ー田中利典著述集2801026

昨年10月に開催された三井記念美術館での展覧会図録に執筆した原稿からの転載、その6です・・・

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「金峯山寺と蔵王権現(1)」

金峯山寺の根本資料のひとつ『金峯山秘密伝』によれば、「役行者は金峯山上に於いて一千日の修行に入られ、衆生救済の道を求められて、濁れた世の中に最もふさわしいご本尊仏の出現を祈られたところ、最初に釈迦如来が出現された。行者は、世の中は乱れており、我が国の人々には釈迦如来の本当のお姿は見ることが出来ないと考えられ、祈りを続けられると、次に柔和なお姿の千手千眼観世音菩薩が出現された。

しかし行者は、末法悪世の人々にはなおふさわしくないとして、更に祈りを続けられると、今度は弥勒菩薩が出現されたのであるが、行者は、願わくば悪魔を降伏させる御姿を示して頂きたいと、なおも祈られたところ、天地がにわかに揺れ動き、ものすごい雷鳴とともに盤石を割って大地の間から、忿怒の相もすさまじい金剛蔵王権現が出現された。行者は、これこそ末世の民衆を救うために求めていた守護仏だと大いに悦び、そのお姿をお祀りされたのである」と伝えています。

釈迦如来・千手千眼観世音菩薩・弥勒菩薩の三体が蔵王権現の本地仏(もとの姿)であり、本地仏が役行者の願いに権化して、権(か)りの姿で現れたのが蔵王権現だというのであります。釈迦は過去世、観音は現在世、弥勒は未来世、過去・現在・未来の三世にわたって衆生を救済しようという役行者の誓願が、三世一体の権現仏となって出現されるところとなった、とするのです。

「権現」とは、権(かりに)現(あらわれる)という意味です。ほんとうの姿(本地)そのものが現れるのではなく、その時代、その国土、その地域の人々の心の状態に応じた「仮の姿で現れる」、それを「権現」といいます。現代風にいえばアバター(化身)でしょうか。さまざまな姿で現れるのは、衆生を救済するためです。仏が衆生のために、さまざまな神の姿となって現れた、あるいは、仏が神のかたちで現われた、それが権現です。修験道の本尊は、神とも言えるし仏とも言えるのです。

ー三井記念美術館「特別展・蔵王権現と修験の秘宝」図録所収、田中利典著「金峯山寺と修験道」より

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*写真は金剛蔵王権現像(金峯山寺蔵)です。

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