「金峯山寺と修験道⑤」ー田中利典著述集2801025
「金峯山寺と修験道⑤」ー田中利典著述集2801025
昨年10月に開催された三井記念美術館での展覧会図録に執筆した原稿からの転載、その5です・・・
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「修験道廃止、そして復興」
明治初年、明治維新によって発足した新政府は、近代化を進める一方で、わが国固有の精神文化のよりどころである神仏習合を解体するために神仏分離令を施行し、更に明治五年(一八七二)には権現信仰の禁止、修験道廃止令を発令し、神仏習合を旨とする修験道を全面的に禁止することに至ります。
その流れの中、金峯山寺一山も全山を挙げて抵抗しますが、その功なく、明治七年(一八七四)六月には廃寺とされ、諸社塔頭を入れて数十ヶ寺で維持されていた一山体制が瓦解し、多くの僧侶が還俗させられると共に、一山の要であった山上本堂は地主神金峯神社の奥の宮、山下本堂は口の宮として、十三年間にわたり復飾神勤を強いられることになります。
しかしながら廃寺後も、仏寺復興への粘り強い運動は続けられ、明治十二年(一八七九)には山内塔頭寺院の東南院がまず最初に天台宗末の仏寺に復し、同十三年(一八八〇)には桜本坊、竹林院があいついで復興し、国の施策の変更も手伝って、同十九年(一八八六)には金峯山寺も天台宗末としてその寺号を取り戻すこととなりました。但しこの時以来、山上本堂は旧金峯山寺とは別個のものとなり(現在は大峯山寺)、山下本堂の吉野山蔵王堂のみが金峯山寺の寺号に復したのでした。
第二次世界大戦敗戦後、信仰の自由が保障されると、昭和二十三年(一九四八)四月、山下の吉野山蔵王堂(国宝)を総本山に、現代的な修験教団の設立を目指して天台宗から離脱し、金峯山寺は一宗を立て、金峯山修験本宗という修験道本来の教団としての姿を開創します。
また平成十六年(二〇〇四)に金峯山寺及び大峯山寺を含む吉野大峯と大峯奥駈道は「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、明治の修験道廃止以来、苦難の道を強いられ続けた修験道の新たな門出を果たすことになりました。
ー三井記念美術館「特別展・蔵王権現と修験の秘宝」図録所収、田中利典著「金峯山寺と修験道」より
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*写真は神仏分離・金峯山寺廃寺以前の金峯山一山全図(金峯山寺蔵)
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