「豈に旧を守りて、化道を壅(ふせ)べけんや」
「豈に旧を守りて、化道を壅(ふせ)べけんや」ー田中利典著述集281030
昨日からですが,過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。今日のは、ちょうど15年前、金峯山寺の宗務総長に就任した年に書いた、とても青い文章です。青いなあ・・・。
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「豈に旧を守りて、化道を壅(ふせ)べけんや」
ちょっと難しい聖句を紹介する。「豈に旧を守りて、化道を壅(ふせ)べけんや」。
中国天台の祖・天台大師智顗の言である。意味は、既成概念に固執して、社会実践の工夫をおこたってはならない、というようなことであるが、人間というものは元来が頑固で、しかも保守的・保身的気質を持っており、一度やりだしたことはなかなか変えようとしない。昨日やったことは今日も出来ると思っている。しかしそれは大間違いなのだと、千四百年も昔の天台大師の言葉が、それを教えている。
とりわけ二十一世紀が始まって、ご承知のように、テロ多発事件、アフガン戦争など、世界の情勢は大激変する中、日本社会もその渦中にあり、それら様々な変化に応じた我々の生き方もまた、緊迫感を持って問われ直す時代を迎えているのである。教化を待つ衆生の変化に対応した、教化の方法が行われなければならない。
管長猊下特命を以てこの四月に宗務の統括に当たる総長職を担当して半年になるが、なかなか沿革の時を迎えられないでいる。宗内の体制が整わないこともあるが、危機認識が欠如しているのが一番の原因ではないかと思っている。
アメリカの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、宗教には権威主義的宗教と人間主義的宗教の二通りあるとする。前者は人間を超越した権威に対する屈伏を本質的要素とし、後者は人間を中心とし、その力を十分に展開することによって自己実現をはかる。そこでは神は、超人間的な力ではなく人間自身の力の象徴である…と説いているが、ここに筆者は仏教の可能性を見るのである。
権威主義的宗教とは正に唯一絶対の神を頂く、ユダヤ・キリスト・イスラムの一神教宗教であろう。これに対して、仏教は絶対神を立てず、人間が有する仏性を前提として修行が展開される。人間が覚って仏陀となる教えが仏教なのである。人間にとって宗教は不可欠のものと筆者は思っているが、宗教の有り様が二通りに分けられるとするフロムの説に大変興味をもつのである。
閑話休題。本論に戻そう。ついこの前まで世界は安定していると思っていた。それもつかの間、権威主義的宗教同士のぶつかり合いによって、大きく揺るぎ出している。筆者では予見の付かない大激動が必ず来るだろう。その危機感を知るところからしか、激動に対応できる生活は生まれないのである。しかしながら仏教徒にとって最も大事なことは実は別になる。世の中がどうかわろうと、自らを灯火とし、法を灯火としつつ、我が人生苦の克服を第一義とするのが、仏教徒のあるべき生き方なのである。
世界の混乱は、宗教とはなんぞや、ということを突き詰めて問いかけている。ただ手を合わせていたらよい、というようなことでは説得力を持てない時代なのだ。そういう意味合いからこそ、人間主義的宗教が必要とされていると堂々というべき認識がいると思っている。自分の仏性を磨き、人々の仏性を認め合うーそういう宗教活動によってしか、世界の平和はもたらされない。そして修験道にはそれがあると、意識するところに、激動の時代に耐えうる教化活動が生まれるのではなかろうか。そういう想いが筆者を突き動かすのである。
ー「金峯山時報平成13年11月号所収、蔵王清風」より
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本文でも書いているとおり、えらい意気込みであるが、この意気込みのまま、14年の総長生活を駆け抜けたのは事実である。成果があったかどうか、「自分で言うな!」と、常から人に戒められるので、ここでは触れないでおこう。
ま、まだまだ私の人生は終わったわけではないのだし、還暦をすぎて、新たに生き直している今は、なおまだ「人生を語らず」でありたいと思う。
*写真は天台大師智顗さま。
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