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「金峯山寺と修験道③」ー田中利典著述集2801023

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「金峯山寺と修験道③」ー田中利典著述集2801023

昨年10月に開催された三井記念美術館での展覧会図録に執筆した原稿からの転載、その3です・・・

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「金峯山寺の歩み」

爾来、役行者の蔵王権現感得という由緒によって、金峯山寺は修験道と山岳信仰の根本道場として名を高めます。吉野・大峯の地には神祇、道教、仏教などの宗教者が数多く修行に入り、奈良時代から平安期には空海や相応、聖宝など高名な修行者も集めました。特に醍醐寺の開基で、当山派修験の派祖である聖宝(理源大師)は役行者以来途絶えていた大峯修行を再興し、金峯山の堂社を修復して、仏像を造り、柳の渡しを設けたともいわれ、このころから金峯山は隆盛期を迎えることになります。

平安期には宇多上皇や藤原道長・師通に代表される皇族や貴族たちがこぞってこの地に参詣する金峯山詣(御嶽詣)が流行し、御嶽精進といわれる厳格な精進潔斎ののち、登拝修行が行われました。

当時の詳しい様子は遠く中国まで聞こえたようで、中国に於いて成立した『義楚六帖』(九五四年)にも「本国都城ノ南五百余里ニ金峯山有リ。頂上ニ金剛蔵王菩薩有リ。第一ノ霊異ナリ。山ニ松桧名花軟草有リ。大小ノ寺数百、節行高道ノ者コレニ居ス。曽テ女人有リテ上ルコトヲ得ズ。今ニ至リテ男子上ント欲スレバ、三月酒肉欲色ヲ断ツ」と記しています。

寛弘四年(一〇〇七)、御嶽詣を果たした藤原道長は自ら写経した法華経や弥勒経などを入れた金銅製の経筒を金峯山に埋納しました。この金銅経筒は江戸時代に出土し、日本一の経塚「金峯山経塚」の埋経品として現在に伝わっています。

また昭和五十九年(一九八四)に山上ヶ岳より二体の純金仏などが発掘され世間の耳目を集めましたが、一説には宇多上皇が埋納したものとされており、往時の様子をうかがい知る貴重な発掘となりました。

平安期末から中世期かけて一山形式が整い、天台系(寺僧方)と真言系(満堂方)の僧侶を中心に、子守・勝手宮などの吉野八社明神等の社僧・神主などによって神仏習合の一山が営まれ、壮大な荘園も要し、寺域には百数十の寺社塔頭を持つ一大宗教聖地として栄えます。当時は奈良の興福寺配下にあり、興福寺の僧が金峯山検校職に補され、金峯山では別当がその実務を掌握しました。

またこの一山の寺勢を頼りに南北朝時代には後醍醐天皇が吉野朝廷(南朝)を営むに及んだのでした。

建武新政が短期間に破れた後醍醐天皇は、建武三年(延元元年・一三三六)に吉野山金峯山寺に潜行されます。ここに半世紀に及ぶ南北朝時代が始まりました。南朝の御所は、現在の南朝妙法殿が建っているところ、元金峯山寺の本坊・実城寺とされました。正平三年(一三四八)、吉野行宮は足利方高師直の大攻撃を受け、ときの後村上天皇は吉野を落ち延びられます。このとき金峯山寺一山は大破し、一時衰微しますが、徐々に寺盛を取り戻すところとなりました。

江戸期に入ると幕藩体制の下、全国の修験勢力がその統治下に置かれ、金峯山寺も天台僧天海僧正が初代の管領となってその支配を受け、以来、日光輪王寺宮及び比叡山延暦寺と深い繋がりを持つこととなります。天海を初代とする金峯山寺管領職はその後も継承し、現在で三十一世を数えています。

江戸幕府から認められた金峯山一山の朱印地は千十三石二斗のみでしたが、庶民信仰の流行とともに、講を結んで、大峯山上へ参詣する人々が増大し、また本山派修験、当山派修験という修験両派もこぞって金峯山への入峰修行を行い、院坊は修行者・参詣者の宿坊として大いに栄えました。

ー三井記念美術館「特別展・蔵王権現と修験の秘宝」図録所収、田中利典著「金峯山寺と修験道」より

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*写真は道長が金峯山に奉納した「国宝・経筒」

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