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「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」

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「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」ー田中利典著述集281110

過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。

今日は「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」ー。これは7年前の文章だが、ここに書いた通り、昨年の高野山開創1200年記念事業には、この弘法大師開創の道がみごとに開闢され、記念年の事業に花を添えた。

私は記念年にはすでに山を下りて、その直接の慶事に参加出来なかったが、それに至るまで7年間のはじまりに際して、私なりの熱い思いがあったことが伝わってくる一文である。

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「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」

過日「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」が正式に立ち上がった。昨年の五月から高野山金剛峯寺と金峯山寺との間で、発足に向けての準備話し合いが始まり、奈良県や和歌山県の県庁はじめ関係市町村などの観光担当者も巻き込んで、大きな広がりを持った取り組みを行ってきた。

平成二十七年に高野山は高野開創千二百年記念の年を迎える。弘法大師空海が弘仁七年(八一六)、真言密教の根本道場とするために、時の帝、嵯峨天皇に高野山下賜の請願を上奏し、これに対し嵯峨天皇は高野山下賜の太政官符を下し、七里四方の山林が与えられることになった。高野山の歴史の始まりである。その開創千二百年に当たる平成二十七年に向けて、金峯山寺も協力して連携するところとなった。

「空海、少年の日、好んで山水を渉覧す。吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かいて去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都の郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤(じんしょう)蹊(みち)絶えたり」…。この一文は空海選による「性霊集」に記述される有名な文言で、空海が高野を見つけるに至る経緯を明らかにしている。

若き日の少年空海は、吉野から大峯を経て、高野へとたどり着くのである。これは単に道筋だけの問題ではなく、役行者という山林修行者の世界と、空海という真言密教者の世界が根底で繋がっていたという日本文化史、日本宗教史上の問題提起でもある、と私は捉えている。

近年、吉野大峯の世界遺産登録や修験道ルネッサンスの提唱などの活動を通じて、修験道が脚光をあびつつあるが、私から見ればまだまだその本質が正当に評価されているとは思えない。日本仏教の源流に山岳信仰や修験道の果たした役割は極めて大きいというのが私の持論だが、今回の高野の道プロジェクトも弘法大師の足跡をたどる活動を通じて、如何に山岳信仰、山林修行の世界が重大な意義を持っていたのか、見直されるきっかけにしたいと思っているのである。

そして平成の御代に、この高野山開創の道がふたたび甦えり、現代の人々に歩いていただくことで、その世界の持つ素晴らしさや聖なる体験の場を作っていきたいと願っているのだ。 

ー「金峯山時報平成22年11月号所収、蔵王清風」より

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読み返すといろんな思いがよみがえるが、ひとえに運のよい、素晴らしい人との巡り合わせを感じています。

綾部人である、当時の金剛峯寺村上保寿先生との邂逅がなければ出来ていない事業であるし、奈良県庁の福野主査の力添えがあってこそのプロジェクト事業だった。「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録と並んで、不可思議な人の縁が、私に身の丈を遙かにこえた事業成功の道を導いてくれたのであった。

私は15才で比叡山との縁を得て、その後、伝教大師に連なるたくさんの天台僧と若くして知己を得たが、この弘法大師プロジェクトを前後して以降は、真言宗のお坊様とも広くのご縁をいただくことになった。この11月からは弘法大師が設立された日本で一番歴史のある「種智院大学」に客員教授として招かれ講義を受け持つことになるが、弘法大師の冥加をつくづくと感じている今日この頃である。

*写真は弘法大師空海さま。

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