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この秋11~12月に開催する私の講演会、フォーラム、イベントのご案内です。
①11月19日:綾部講演会
あやべ限定情報・・・11月19日午後2時~3時あやべ松壽苑にて講演会をさせていただきます。よろしければ、おいでください。入場は無料。講演後には、握手会+著書サイン会も行います。
②11月21日:大阪紀伊山地三霊場会議フォーラム
紀伊山地三霊場フォーラム「日本の宗教と自然環境」
…講師に仏教学者山折哲雄先生と金剛峯寺前座主の松長有慶猊下などをお招きし、
日本の宗教文化と自然環境保全についてお話を伺います。
日時:11月21日(月)14:30〜17:00(開場14:00)
会場:あべのハルカス25F「大会議室」
入場料:1,000円
基調講演1
「吉野の自然と土倉庄三郎・岸田日出雄」
講師:池田淳氏(吉野歴史資料館館長)
基調講演2
「役行者・空海・一遍と紀伊山地の自然〜環境保全と日本の宗教」
講師:山折哲雄氏
(宗教学者/一般社団法人自然環境文化推進機構代表理事)
対談「紀伊山地の宗教文化と環境保全」
山折哲雄氏、松長有慶前金剛峯寺座主(紀伊山地三霊場会議顧問)
〔司会〕田中利典金峯山寺長臈(紀伊山地三霊場会議顧問)
**ただし、もう申し込みはソウルドアウトしました。
③種智院大学講座 「寺院運営論」ゲストスピーカー
「修験道の世界①~修験道とは?」
日時:11月22日午後4時半~
会場:種智院大学
**ただし、一般未公開
④映画『躍る旅人−能楽師・津村禮次郎の肖像』関西上映会
京都シネマ12/3 上映後のトークイベント
12/4田中利典(修験僧)×津村禮次郎×三宅流
趣旨:
「津村禮次郎さんがバリのガムラン及びバリ舞踊とのコラボレーションを行ないました。10日間ほどかけて交流しながら創作しました。
能とバリ舞踊の持つ様式や身体性の差異と共通点、そしてガムラン音楽と能のお囃子の差異と共通点、互いにリスペクトし合い、その中で交感を深めていき、最後はあたかもそういう芸能が最初から存在したかのように、びっくりするほど融合していく姿は感動的です。また突然のスコールや停電、鶏や犬やとかげが稽古中にも紛れ込み、自然と人間の境界線が緩やかになっているのも魅力的です」
*詳しくは以下参照 http://www.odorutabibito.com/
⑤種智院大学講座 「寺院運営論」ゲストスピーカー
「修験道の世界②~山の行より里の行」
日時:12月6日午後4時半~
会場:種智院大学
**ただし、一般未公開
⑥誇り塾講話会
12月18日(日):東京国立博物館 黒田記念館 午後2時開講
(一部)田中塾頭講話 (テーマ)利典さんの仏教講座1 仏教とはなんぞや?
(二部)仏教学者正木晃先生講話 (テーマ)仮題:世界の中の仏教
(三部)田中vs正木座談会
会費:5000円 ・・・会員さん以外も体験的に参加できます。
申し込みその他は yosino32@gmail.com までお問い合わせください。
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11月12月の時期はなにかと講演会などの依頼も多い。今年も過去の例年並みに、お声をかけていただいている。金峯山寺を勇退して、激減するかと思われたが、まあまあ、お声がけをいただけるのはありがたいことである。
種智院大学はこの5月から客員教授に招かれたが、今年はゲストスキーカーとして2講座を担当させていただいている。実に、金峯山寺時代よりははるかに時間はたくさんあるので、もう少しご依頼があればありがたい次第である。
「山伏健康法」ー田中利典著述集281116
10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いた駄文を折に触れて転記していますが、今日はちょうど2年前に書いた比較的新しい文章。
山伏健康法と題したが、もうほぼ山修行は引退に近い毎日で、正直、書いた当時よりも更に怠惰な生活をいまは送っている。ほんと、少しは身体を動かさないといけないなあと、つくづく思う。
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「山伏健康法」
今年はどうも体調がよくない。還暦前だし、年齢的にはまあ体の変調は当たり前かも知れないが、それでもいろいろと原因を考えてみて、ふと気づいたことがある。今年は山の修行が足りないのではないかということだ。
今年も自坊で行く山上ヶ岳団体登拝には引率して行じたが、ここ三十数年続けてきた蓮華入峰には諸般の事情で行けなかった。また、数年前に大峯奥駈修行を引退して、代わりに始めた富士山修行にも今年は参加出来なかった。本格的な山歩きは、五月末の「吉野ー高野の道開闢修行」を行じたくらいで、通年と較べると極めて少ない。
そもそもが、山伏のくせに山の修行はあまり好きではない筆者である。好きではないが、修行だから、その時期が来れば行じてきた。「よくその足で行じてますねえ」と鍼灸の先生に言われることもあったし、運動不足は甚だしい身なるが故に、そうとう無理した山修行ではあったが、それでも衰えた体に鞭打って山の修行を重ねてきたのであった。
山嫌いなので正直、心の片隅で「こんな無茶な修行はきっと体には悪いなあ」と思っていたが、それがどうやら違ったようなのだ。少々、足や膝に悪くても、怠惰な生活に終始する運動不足の我が身には、一年に何度か、無理してでも、へとへとになるほど山を歩き、汗まみれになって全身で行じるのがよい。いや、それが私にとっての、ここ三十年以上続けてきた山伏健康法だったのかもしれない。
「我々の修行は大自然の中に曼荼羅世界を見て、神と仏を拝みながら歩くのであるが、山修行のよいところは、聖なるものに包まれる中で、心と体のバランスを取り戻すところにあるのではないだろうか。都会生活ではいろんな場面で心に疎外感を持たされるが、山修行に没頭すると、実感として、心と身体のバランスを取り戻し、魂と肉体の一体感を感受するのである・・・」(拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門 』(集英社新書)』)などと、外に向かっては山修行の効能を喧しく伝え続けてきたが、そんな難しい意味ではなく、山伏にとっては山修行自体が「山伏健康法」なのではないかと、つくづく思い当たったのである。
みなさん、健康を保つためにも山の修行に行きましょうね。
ー「金峯山時報平成26年11月号所収、蔵王清風」より
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吉野での八千枚大護摩供修行に随喜して一昼夜の間、行者さんと一緒に毎座ごとの「蔵王権現供養法」を脇壇で行じたが、なまった体にはたった一昼夜だけの徹夜なのに、3日たった今でもまだ応えている。山伏健康法は確かに言えていると思う。
*写真は現役で大峯奥駈修行を行じていた頃の筆者。両脇は同行した私のお弟子さんたち。
「古い船をいま 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう・・・」
昨日、無事に金峯山寺「万民安楽とも祈りの行・八千枚大護摩供修行」が満行しました。行者である第31世金峯山寺管領猊下も、すこぶるお元気にその時を迎えました。総本数2万2千数百本のお祈りの護摩木が秘仏ご本尊金剛蔵王権現様の御前で見事に梵焼され、結願の法要には約500名にのぼる方々に随喜いただきました。
52歳という「若き管長の船出」ともいえる素晴らしいお行となったのでした。
今から40年まえ、第28世五條順教管長猊下は3年にわたる大行を発願され、昭和49年に四無行、翌年には十万枚大護摩供、そして翌昭和51年に八千枚の大護摩供修行を果たされましたが、そのとき、大行の助法の列に繋がり、今回また八千枚大護摩供のお行に出仕した人間は、私と成就院住職を含めて3人のみで、また助法の主役は新しい人たちで担われ、古い水夫たる私たちは陰で支えるお役でした。
まさに金峯山寺という(古い船・・・)伝統ある修験の法頭には、新しい管長(船長)を支える新しい行者(水夫)が集い、40年ぶりの大行が果たされることになりました。
今回は「とも祈り」の行として、行者さんだけではなく、大行に連なったすべての人の祈りが万民安楽に繋がる大きな祈りとなりました。心より感謝申し上げます。
素晴らしい門出のときを迎えたと、随喜の列に連なりながら、感涙ひとしおの昨日でした。
少し不謹慎かとは思いましたが、敬愛する吉田拓郎さんの初期の名曲を彷彿する一日となったのでした。
「…古い船には 新しい水夫が乗り込んで 行くだろう
古い船をいま 動かせるのは
古い水夫じゃ ないだろう
なぜなら 古い船も
新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は 知っているのサ
新しい海の こわさを 」(イメージの詩より)
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混迷をきわめる現代社会という新しい海に、修験道の伝統ある古い船は新しい門出を迎えました。
そして私にとってもまたいろんな意味で、大きな学びを得させていただいくお行となったのでした。写真は八千枚大護摩の行中。
「慈母のごとき・・・」ー田中利典著述集281111
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日は今年11月で三回忌をお迎えになる吉野山・東南院前ご母堂さまのこと。感謝を込めて書いた2年前の文章です。
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「慈母のごとき・・・」
私は比叡山高校に入る前、十五才のときに第二八世金峯山寺管領故順教猊下のもとで得度受戒し、その後、夏になるとご自坊の東南院にお手伝いに上がった。あの頃の東南院は林間学校の生徒で一杯で、連日とても忙しかったことが懐かしい。
高校卒業後は一年間、東南院で随身し、その間に四度加行も履修させていただいた。一年後には龍谷大学に入ったが、夏になるとやはり東南院の手伝いに帰山した。私にとっては東南院はまさに第二の故郷であり、事実、東南院に戻る度に奥様からは「おかえりなさい」と言っていただいていた。その奥様が先月逝去された。九十三才の生涯を閉じられたのである。またひとつ故郷を亡くしたような、漠々たる寂しさを禁じ得ない。
私は今でも東南院のお内仏(仏壇)に、ことある度にお参りさせていただいている。縁あって弟が東南院の住職に就いたことも関係なくはないが、それよりも私自身が長く東南院での随身生活を送り、このお寺で僧侶にしていただいたという思いがあるからである。その随身生活にはいつも奥様がおいでになった。奥様に物心ともにお世話になったお蔭で、今の私があるのは間違いない。故に、なにほどの恩返しも出来ないまま、今生の別れとなったと思うと、ただ寂しいだけではなく、申し訳ない思いで胸が一杯になる。
奥様は南満州国でお生まれになり、終戦を経て、満州からの引き上げ後は、神職をされていた父君とともに、橿原神宮、丹生川上中社と居を変えられた。そんな中で、五條順教猊下とご縁を得られ、ご令室として東南院に入られたのである。以後、六十数年、東南院の護持経営とその発展に身を尽くされ、また順教猊下を支えて宗門の隆盛にも大いに力を果たされた。
私のこと、弟のことを思うにつけ、東南院さまと私どもとのご縁は深いが、そこにはいつも奥様の存在があった。優しい眼差しの奥にある真実を見通す涼やかな目、そしてその慈母の如き慈しみに満ちたご尊顔。順教猊下の恩徳とともに生涯忘れずに感謝申しあげたいと思っている。
ー「金峯山時報平成26年12月号所収、蔵王清風」より
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*写真は春の東南院多宝塔。この風景の中には常に慈母のごとき親奥様の姿があった。
「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」ー田中利典著述集281110
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日は「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」ー。これは7年前の文章だが、ここに書いた通り、昨年の高野山開創1200年記念事業には、この弘法大師開創の道がみごとに開闢され、記念年の事業に花を添えた。
私は記念年にはすでに山を下りて、その直接の慶事に参加出来なかったが、それに至るまで7年間のはじまりに際して、私なりの熱い思いがあったことが伝わってくる一文である。
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「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」
過日「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」が正式に立ち上がった。昨年の五月から高野山金剛峯寺と金峯山寺との間で、発足に向けての準備話し合いが始まり、奈良県や和歌山県の県庁はじめ関係市町村などの観光担当者も巻き込んで、大きな広がりを持った取り組みを行ってきた。
平成二十七年に高野山は高野開創千二百年記念の年を迎える。弘法大師空海が弘仁七年(八一六)、真言密教の根本道場とするために、時の帝、嵯峨天皇に高野山下賜の請願を上奏し、これに対し嵯峨天皇は高野山下賜の太政官符を下し、七里四方の山林が与えられることになった。高野山の歴史の始まりである。その開創千二百年に当たる平成二十七年に向けて、金峯山寺も協力して連携するところとなった。
「空海、少年の日、好んで山水を渉覧す。吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かいて去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都の郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤(じんしょう)蹊(みち)絶えたり」…。この一文は空海選による「性霊集」に記述される有名な文言で、空海が高野を見つけるに至る経緯を明らかにしている。
若き日の少年空海は、吉野から大峯を経て、高野へとたどり着くのである。これは単に道筋だけの問題ではなく、役行者という山林修行者の世界と、空海という真言密教者の世界が根底で繋がっていたという日本文化史、日本宗教史上の問題提起でもある、と私は捉えている。
近年、吉野大峯の世界遺産登録や修験道ルネッサンスの提唱などの活動を通じて、修験道が脚光をあびつつあるが、私から見ればまだまだその本質が正当に評価されているとは思えない。日本仏教の源流に山岳信仰や修験道の果たした役割は極めて大きいというのが私の持論だが、今回の高野の道プロジェクトも弘法大師の足跡をたどる活動を通じて、如何に山岳信仰、山林修行の世界が重大な意義を持っていたのか、見直されるきっかけにしたいと思っているのである。
そして平成の御代に、この高野山開創の道がふたたび甦えり、現代の人々に歩いていただくことで、その世界の持つ素晴らしさや聖なる体験の場を作っていきたいと願っているのだ。
ー「金峯山時報平成22年11月号所収、蔵王清風」より
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読み返すといろんな思いがよみがえるが、ひとえに運のよい、素晴らしい人との巡り合わせを感じています。
綾部人である、当時の金剛峯寺村上保寿先生との邂逅がなければ出来ていない事業であるし、奈良県庁の福野主査の力添えがあってこそのプロジェクト事業だった。「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録と並んで、不可思議な人の縁が、私に身の丈を遙かにこえた事業成功の道を導いてくれたのであった。
私は15才で比叡山との縁を得て、その後、伝教大師に連なるたくさんの天台僧と若くして知己を得たが、この弘法大師プロジェクトを前後して以降は、真言宗のお坊様とも広くのご縁をいただくことになった。この11月からは弘法大師が設立された日本で一番歴史のある「種智院大学」に客員教授として招かれ講義を受け持つことになるが、弘法大師の冥加をつくづくと感じている今日この頃である。
*写真は弘法大師空海さま。
「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」ー田中利典著述集281109
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日は父母のことを少し思い出して書いてみた文章。4年前になります。
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「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」
私の父はずいぶんと頭の良い人だった。頭の回転が速かった。その分、鋭すぎるところがあった。母は馬鹿ではなかったが、どちらかというと、ちまちましたことが嫌いで、おおらかな人だった。幼い頃から苦労をしたわりに、自分勝手なところはあったが、度量の大きい人だった。
私は父ほど頭の回転は速くないし、母ほどの度量があるわけではないが、ほどほどに二人の血を受け継いでいるように思う。父はケチで、そういうところは私の方が受け継いで、弟は母の気前のよさを受け継いでいるが、全体を見ると、最近は弟の方が父に似てきて、私の方が母に似て来ているような気がする。たぶん、弟は弟で、気前の良さはみとめるにしても、私と反対のことを思っているかも知れない。いづれにしても、「血」というのは嘘をつかないと、父と母を亡くしてみて、時間が過ぎゆくほどに、つくづくそう思う。
父は今の私の年齢で、新寺の建立を発願して、成し遂げた。ちょうど寺建立の寄進活動の最中にオイルショックがあり、大変苦労したようだ。そういう意味では父も母も一生涯、お金に縁のない人生を送った。その辺は遺伝ではないはずだが、呑気に暮らす弟と違って、私だけ貧乏性を受け継いでしまったようだ。
とはいえ、父も母も上々の人生を送ったのではないかと思う。ほかのことは似ていなくても、そういう人生を受け継ぐことが出来たら、なによりの幸せなのだろう。
仏教では本来あまり血筋のことはとやかく言わない。「血」などというものは何代にもわたると、膨大な広がりを見せる。たとえば三十代さかのぼるだけで、何と十一億人にもなるのだから血筋などは意味をなさないことになる。
それよりも仏教で大事にするのは「血脈」である。血脈とは、教法が師から弟子に伝えられること(師資相承)で,身体の血管に血が流れるのにたとえて,その持続性と同一性をあらわすものを指す。教法の相承を「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」などと表現するほどである。
私たち行者は肉身を両親から受けたが、人生を生きる真実の法を収める心は蔵王権現さまや役行者さまからいただいた。身体も心も両方が大切であるのはいうまでもない。故にその両方を大切にしながら、凡夫の生涯であるとしても、身心ともに上々の人生を送れたらと願わずにはいられない。
ー「金峯山時報平成24年11月号所収、蔵王清風」より
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*写真は小学生の頃に大峰参りをしたときの父とのツーショット(蔵王堂前)。
驚きの地方創生「京都・あやべスタイル」…ほんまにほんま、驚いた!
11月はじめに出版された『驚きの地方創生「京都・あやべスタイル」』 を先日Amazonで取り寄せ、昨日から読み出したのだが、表題どおり、ホントに驚いた。
本書ではわがふるさと綾部が持っている大きな力ー大本教、グンゼ、世界連邦都市宣言第一号の街、日東精工、半農半X、水源の里などなど、その魅力を余すところなく綴られているが、なにより驚いたのは74ページに至って、なんと私の名前が掲載されていたのである。予想もしなかった記述であった。
その部分を以下引用する。
~綾部にはそんな「大本」の思想、あすいは第二章で取り上げるグンゼ・波多野鶴吉が洗礼を受けたキリスト教(プロテスタント)等、さまざまな宗教が共存しています。同じキリスト教でもカトリックですが、吉川茂仁香という綾部出身の修道女もいます。皇后陛下や作家の曽野綾子さん、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんの恩師で、聖心女子大学の学長になった人です。ほかにも-たとえば世界遺産、奈良県吉野の金峯山修験本宗(修験道)の本山、金峯山寺の宗務総長を一五年務められた田中利典さんは、現在、綾部市渕垣にある林南院の住職です。ー『驚きの地方創生「京都・あやべスタイル」』 (扶桑社新書) 蒲田 正樹 (著)
いやー、昨年春に金峯山寺を勇退以来、「山の行より里の行」と意気込みをもって帰郷したものの、自坊の寺門は一向に栄えず、また吉野を離れてみて、地元での無名さ、無力さをほとほと実感するこの1年半であった。この春から地元綾部のコミュニティラジオエフエムいかるで、コメンテーターとして出演するようになったのも、そういう状況を少しでも打開できればと思って始めたのだが、なかなか思うような成果には繋がっていないのが正直なところ・・・。
そんな中、本書で私がまさか紹介されているとは思いもよらなかったのである。しかも大本さんや波多野鶴吉さん、吉川茂仁香さんなど、蒼々たる方々の記述に続いての、紹介である。恐縮至極、冷汗三斗の思いであった。
更に驚いたのはこの本書の作者蒲田正樹さんとは数年前に吉野で出会ったいたという。私は失念していたが、元参議院のドン村上正邦さんと日本のラスプーチン・元外交官の佐藤優さんが吉野で開催されていた「一滴の会」という勉強会での出会いだったらしい。一滴の会では5年間、私も講師を務めたのだが、そのときに本書の編集者田中亨氏と一緒に参加されていたという。
本書を陰で支えられた元綾部市長の四方八洲男さんは私が綾部に帰って来て以来、なにかと応援をしていただいているが、そういうご縁や吉野での蒲田さんとの知己もあって、紹介をされたのではないだろうかと思い至ったが、それにしても、ほんとにほんと、驚いたのだった。
それはそれとして本書はまさに私がふるさと綾部に抱いていた「グローバルからローカリズムへ」の活動にふさわしい場所であることが、詳細に書かれている。
聖地吉野から、ふるさと綾部に活動のスタンスが移ったいまの私にとって、大変大きな力をいただいた玉著であった。
綾部人必読の書であるとともに、地方創世の時代にふさわしい全国的におすすめ出来る一冊である。
『驚きの地方創生「京都・あやべスタイル」』 (扶桑社新書) 蒲田 正樹 (著)
「私の愛する吉野の紅葉」 ー田中利典著述集281107
いよいよ紅葉の季節を迎えている。長い夏のせいか、心配された今年の紅葉だったが、各地でそろそろ色づきかけたようで。
吉野山の紅葉もそろそろ時節を迎える頃であろう。金峯山寺八千枚大護摩供修行が11月12日からはじまるので、それに合わせて帰山するが、その頃には蔵王堂の4本桜も色づき始めていると思う。
今日は少し前ですが、淡交社から出た『奈良を愉しむー奈良 大和路の紅葉』(H26年10月刊)に寄稿させていただいた文章を転記する。よろしければご覧ください。
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「私の愛する吉野の紅葉」
紅葉の名所と言えば大方が楓の紅葉である。日本中に美しい楓の紅葉名所は点在する。
ところが吉野山の紅葉というと、楓ではなく、全山を覆う山桜の紅葉が主役となる。
楓と違って山桜は、毎年そんなに上手に色づくわけではなく、年ごとの気候に左右されるため風景が変則で、またその紅葉も、眩しいばかりの錦秋というより、可憐で深い色合いとなる。そこに他の名所とは異なる、吉野独特の風情を感じるのは私だけではあるまい。
吉野山にも幾ばくかの美しい楓の名木はあるし、秋には綺麗な紅葉や黄葉に彩られるが、全山を覆うのは山桜ばかりなのである。
これにはわけがある。
今から約千三百年前、我が国固有の山岳宗教・修験道の開祖と尊崇される役行者が、吉野の山深く修行に入られ、大峯山山上ヶ岳で一千日の修行をされた。その難行苦行の末、忿怒の形相も凄まじい悪魔降伏の尊・金剛蔵王権現という修験独特の御本尊を祈り出されたと、金峯山寺では伝えている。そしてそのお姿を役行者は山桜の木に刻んで、山上ヶ岳の山頂と、麓の吉野山にお祀りされたのが金峯山寺の始まりであり、以来、吉野山では山桜は蔵王権現のご神木として尊んできた。
役行者は「桜は蔵王権現の神木だから切ってはならぬ」と里人に諭されたともいわれ、吉野山では「桜は枯枝さえも焚火にすると罰があたる」といって、大切に大切に守られてきたのである。江戸時代には「桜一本首一つ、枝一本指一つ」といわれるほどに、厳しく伐採が戒められたほどであった。
また更に、当地を訪れる人たちが蔵王権現への信仰の証として、千年以上にわたって山桜を献木しつづけ、吉野山は山も谷も、ご神木の山桜に埋め尽くされることとなる。ゆえに吉野山は日本一の桜の名勝地となったのである。
桜を慕う西行が吉野の奥に三年のわび住まいをし、太閤秀吉が徳川家康、伊達政宗、前田利家といった戦国大名の勝ち残り組五千人を引き連れて日本で最初の大花見の宴を催し、芭蕉をはじめ多くの文人墨客が時間と空間をこえて、吉野の桜に魅了されたのであった。
しかしそれは桜花爛漫の春の話。
花を散らせ、深緑の季節を過ごし、秋の寒風に桜葉が色づいて、また春とは違う佇まいに姿を変えるのが初冬の吉野。その景色に、深い信仰と長い時間を刻んだ歴史を感じるのが吉野山の紅葉鑑賞の醍醐味である。
紅葉の色合いばかりに目を奪われるのではなく、その風景の背後に潜む聖なる営みに心を寄せてこそ、紅葉の吉野の、真の素晴らしさに出会えるのである。
私の愛する吉野の紅葉はうつろう人の命の営みと、蔵王権現の聖なる命の有り難さと重なりあって、今年もきっと紅い冥加に燃えることであろう。
ー『奈良を愉しむー奈良 大和路の紅葉』所収の「私の愛する吉野の紅葉」より
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*写真は『奈良を愉しむー奈良 大和路の紅葉』。吉野のほか、奈良県下の紅葉の名所が美しい写真と共に紹介されています。
「善とは、悪とは?」
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日は仏教における善とはなにか?悪とはなにかについて2年前に書いた文章。私の持論であるが、よろしければお読みください。
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「善とは、悪とは?」
仏教、すなわち仏の教えとは何か?という唐代の詩人白居易の質問に対して、有名な七仏通戒偈を以て「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(諸の悪をやめ、善をなし、自らの心を浄化の努めること、これが時空を越えた仏の教えである)と明快に答えたのは禅僧・鳥窠道林である。では「善をなすという、その善とは?・・・仏教における善とは何か、悪とはなにか、というと、これがなかなか難しいが、実はこちらこそが重要なことなのである。
大乗仏教者における「善」とは菩薩道の実践である。つまり「上求菩提下化衆生」。この上求菩提下化衆生の精神に叶うことが善であり、それに反することが全て悪なのである。
ま、これは私の持論なのだが。
上求菩提下化衆生とは上には自分自身の菩提を求め、下には衆生を共に救うべき働きをすることである。しかもこの上求菩提と下化衆生は別個のものではなく、両者は「即」でないといけないという。まず自分が救われてから人々を救おうというふうに別々に考えるのは菩薩道ではないのだ。
私も未だ救われていないけれども、私が高まることが衆生を救うことになるし、衆生のために働くことがすなわち自分自身の上求菩提の修行になる…そういうものでないといけないというのである。筆者は上求菩提下化衆生を、「上求菩提が下化衆生になり、下化衆生が上求菩提になる」と読み替えて、説明している。それが菩薩行なのである。
そう考えると何が善で、何が悪のなのか、明確になるだろう。たとえばモノを盗んだり、人を傷つけたりすることで、自分が高まることはないし、人を導くことにもならない。だから悪なのである。またたとえば和顔愛語を実践することによって自分のこころも修行し、他人をも幸せな気持ちにする。だから菩薩行の善なのである。
われわれ修験行者の使命は菩薩行である。是非、善と悪とを、そういう上求菩提下化衆生に照らして考えてみて頂きたいと願う。信者のさまざまな懇請に対して、菩薩行として行うとき、それは全て善であり、自分の金銭的欲求や目先の欲で関わるのなら、それは悪業を積み重ねることになる。毎日のお参り、護摩修法や加持作法、それぞれの場面、それぞれの実践の場に即して、自らの心根を計っておきたいモノである。
ー「金峯山時報2014年7月号所収、蔵王清風」より
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*写真は禅僧・鳥窠道林の画像。
林南院秋季大祭、今年もみなさまのお力添えで無事、終えることが出来ました。ありがとうございました。
今朝からテントのかたずけや、護摩道場のお掃除など、居残りでお手伝いをいただいたみなさまで、午前中には終えていただきました。
またお申し込みいただいた特別祈願のお札の荷造りも先ほどようやくおえて、夕方には郵送いたします。
...ほっとするひとときです。
毎年、大護摩と火渡りの行法をさせていただいていますが、本当にありがたいことだと思っております。たくさんの方のお力添えがあってこその大祭執行です。なかなか大変なのですが、こうして、今年も執行出来たことを心から感謝申し上げます。
*写真は地元の「綾部市民新聞」で取材いただいた記事です。残念ながら、どえらい誤植があります。いやはや、ですが・・・。(^_^;)
「仏法は時によるべし」ー田中利典著述集281102
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日のは、これも古いエッセイです。平成12年に行われた役行者1300年遠忌を終えての感想で、日蓮聖人の文言をお借りしてます。
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役行者大遠忌遠忌事業を終えて四ヶ月。山上ヶ岳の合同法要から早一ヶ月半。色んな思いで過ぎ越してきた役行者遠忌の日々を今は思い返してしている。
「仏法は時によるべし」とは日蓮上人の言であるが、このミレニアムの二千年紀に役行者一三〇〇年大遠忌を迎えたことには、正に「時」を得たという思いを強く感じている。たとえば三本山御遠忌連絡会というのがある。筆者は立ち上げ当初から関わらせていただいたが、これなどは正に時を得たからこそ、歴史的な醍醐寺・聖護院・金峯山寺の修験三本山合同法要や数々の共同事業が成し遂げられることとなった。時を得た人との出会いは繋がりを拡げ、次々に伸展していったのである。
奈良県と吉野町と一緒に行った「役行者ルネッサンス実行委員会」などという、かつてない外からの遠忌法要を推進する力を得ることも出来た。私一人の力など知れているのである。多くの人々の力の結実があったからこそ、評価に値するようなことが成し得られるのである。時を得たから、人を得ることが出来たのであった。これを役行者の思し召しと言わずしてなんと言おうか。
筆者は何度も実感した。現代社会は役行者を、そして修験道の持つ世界観を、枯渇した大地が水を待つように欲していると。枯渇しているからこそ、今回の遠忌が多くの人々に受け入れられ、また多くの力を得るところとなったのである。正に「仏法は時によるべし」の、その「時」であったのである。
反省は受け入れ側に沢山の課題を抱えていることであった。現代の日本は何処の組織、何処の社会をとっても、共通してそうであるように、時代の変革について行けていない。固定化し、老朽化したまま、昨日出来たことは今日も出来ると勘違いして、足下からわき上がってきている変化に気づいていない。しかしながら悔やんでばかりいるのではない。そういう認識が生まれたことが大きな進歩であり、遠忌の余禄とも言える成果であったとも思っている。これもまた役行者の思し召しなのであろうか。
当初から今回の遠忌行事は変革への第一歩だと位置づけてきた。しかし行く先の道の長さを思い知らされたのも事実である。そんなふうに悲喜こもごも、過ぎ越してきた日々を思い眺めている。
ー「金峯山時報370号(平成12年10月号)所収、蔵王清風」より
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「修験道ルネッサンス」活動にこのあと私は邁進するが、その大きなきっかけと成った役行者1300年大遠忌。役行者ルネッサンスが修験道ルネッサンスを大きく動かしていった。読み返すほどに、懐かしい文章である。
*写真は日蓮聖人さま。
「衣食の中に道心なし、道心の中に衣食あり」ー田中利典著述集281101
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日は伝教大師のお言葉を借りて、サラ金と拝金主義に一言。10数年前の執筆だが、あまり世の中は変わっていない。「サラ金が日本の優良収益企業のベストテンの半数近くを何年も占めている」・・・という社会は終わって、確かにサラ金は規制されたが、大手銀行が逆に表立ってサラ金業務をしているかの時代にさえなっているのだから・・。
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「衣食の中に道心なし、道心の中に衣食あり」
世の中、腹の立つことは多いが、ここ数年ずーと腹が立っていることがある。それはサラ金のテレビコマーシャルである。各社、それぞれに多彩なものを繰り出して、あの手この手で消費?意欲というか、借り手の心に怪しく誘う。しかし所詮はサラ金なのである。利息制限法を越えた暴利で金を貸し付けて、弱者からなけなしのものを搾取し、苦しめるのである。
もちろん借り手の責任が一番であるとはいえ、そんな不当なものを、あたかも真っ当であるかのように、親切そうなコマーシャルリズムに乗せて、テレビにたれ流すなど、この国の品性を疑ってしまう。さもしい国になったものだ。
しかもあろうことか、そのサラ金が日本の優良収益企業のベストテンの半数近くを何年も占めているのだから呆れてしまう。またそんなサラ金に融資しているのが大手銀行であり、近頃は大手銀行までが直接サラ金まがいの融資を始めたのだから、呆れを通り越して、憤りを感じる(ま、銀行の諸悪はこんな程度ではなく、官僚と政治家とぐるになって、とんでもないことをやってきたんだけど…。最近銀行の諸悪を題材にした内田康夫著の浅見光彦シリーズ『中央構造帯』を読んだ。みなさん必読ものです。
それはともかく、本当にいつからこんな品性のない国になったのだろうか。国民一人一人の品性の問題とはいえ、そういう国に、国を挙げて導いてきた感が戦後の行政や日本社会のあり方には見え隠れする。いわゆる拝金主義の横行である。ま、そういう筆者もひとのことを言えた義理でもなく、どこか拝金主義に犯されているかもしれない。お金がなければ始まらない。お金あってこその、今の豊かな生活であり、家庭であり、自分である…という所を自覚もする。そういう教育を受けてきたし、そういった生活に長年に亘り、飼い慣らされてきた感がある。
でももうそろそろ国民みんなが気がついてもいいのではなかろうか?戦後の夢、右肩上がりの経済発展は終焉を迎えている。戦時中の「贅沢は敵だ!」から、「消費は美徳だ!」に変わり、拝金主義に踊らされてきたノーてんきな私たちであったが、サラ金問題だけでなく、社会生活のあらゆる分野で、充分にその災禍を実感したのではなかろうか。殺伐とした事件が毎日のように起こっているが、その裏では拝金主義に陥って恥の文化を捨て、思いやりの心を捨てた日本人の品性のなさを見る思いがする。
「衣食の中に道心なし、道心の中に衣食あり」とは伝教大師のお言葉であるが、品性をなくさせた責任は宗教家にもある。拝金主義を殴打し、真に人間的に生きることの意味や、その大切さをこんな世の中だからこそ説いていかなければならない。少なくとも僧侶自らが拝金主義を抜け出て道心の中に衣食がある生活を取り戻さなくてはならないだろう。自戒を込めて、伝教大師の聖句を反芻している。
ー「金峯山時報平成14年11月号所収、蔵王清風」より
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拝金主義はますます横行をしてますねえ。でもお金がないとしんどいのも事実。とはいえ、やはり「衣食の中に道心なし、道心の中に衣食あり」・・・と、ならなくてはいけません。
*写真は伝教大師最澄さま。
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