「慈母のごとき・・・」
「慈母のごとき・・・」ー田中利典著述集281111
過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。
今日は今年11月で三回忌をお迎えになる吉野山・東南院前ご母堂さまのこと。感謝を込めて書いた2年前の文章です。
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「慈母のごとき・・・」
私は比叡山高校に入る前、十五才のときに第二八世金峯山寺管領故順教猊下のもとで得度受戒し、その後、夏になるとご自坊の東南院にお手伝いに上がった。あの頃の東南院は林間学校の生徒で一杯で、連日とても忙しかったことが懐かしい。
高校卒業後は一年間、東南院で随身し、その間に四度加行も履修させていただいた。一年後には龍谷大学に入ったが、夏になるとやはり東南院の手伝いに帰山した。私にとっては東南院はまさに第二の故郷であり、事実、東南院に戻る度に奥様からは「おかえりなさい」と言っていただいていた。その奥様が先月逝去された。九十三才の生涯を閉じられたのである。またひとつ故郷を亡くしたような、漠々たる寂しさを禁じ得ない。
私は今でも東南院のお内仏(仏壇)に、ことある度にお参りさせていただいている。縁あって弟が東南院の住職に就いたことも関係なくはないが、それよりも私自身が長く東南院での随身生活を送り、このお寺で僧侶にしていただいたという思いがあるからである。その随身生活にはいつも奥様がおいでになった。奥様に物心ともにお世話になったお蔭で、今の私があるのは間違いない。故に、なにほどの恩返しも出来ないまま、今生の別れとなったと思うと、ただ寂しいだけではなく、申し訳ない思いで胸が一杯になる。
奥様は南満州国でお生まれになり、終戦を経て、満州からの引き上げ後は、神職をされていた父君とともに、橿原神宮、丹生川上中社と居を変えられた。そんな中で、五條順教猊下とご縁を得られ、ご令室として東南院に入られたのである。以後、六十数年、東南院の護持経営とその発展に身を尽くされ、また順教猊下を支えて宗門の隆盛にも大いに力を果たされた。
私のこと、弟のことを思うにつけ、東南院さまと私どもとのご縁は深いが、そこにはいつも奥様の存在があった。優しい眼差しの奥にある真実を見通す涼やかな目、そしてその慈母の如き慈しみに満ちたご尊顔。順教猊下の恩徳とともに生涯忘れずに感謝申しあげたいと思っている。
ー「金峯山時報平成26年12月号所収、蔵王清風」より
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*写真は春の東南院多宝塔。この風景の中には常に慈母のごとき親奥様の姿があった。
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