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「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」

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「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」ー田中利典著述集281109

過去に掲載した金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて拙文を本稿で転記しています。

今日は父母のことを少し思い出して書いてみた文章。4年前になります。

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「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」

私の父はずいぶんと頭の良い人だった。頭の回転が速かった。その分、鋭すぎるところがあった。母は馬鹿ではなかったが、どちらかというと、ちまちましたことが嫌いで、おおらかな人だった。幼い頃から苦労をしたわりに、自分勝手なところはあったが、度量の大きい人だった。

私は父ほど頭の回転は速くないし、母ほどの度量があるわけではないが、ほどほどに二人の血を受け継いでいるように思う。父はケチで、そういうところは私の方が受け継いで、弟は母の気前のよさを受け継いでいるが、全体を見ると、最近は弟の方が父に似てきて、私の方が母に似て来ているような気がする。たぶん、弟は弟で、気前の良さはみとめるにしても、私と反対のことを思っているかも知れない。いづれにしても、「血」というのは嘘をつかないと、父と母を亡くしてみて、時間が過ぎゆくほどに、つくづくそう思う。

父は今の私の年齢で、新寺の建立を発願して、成し遂げた。ちょうど寺建立の寄進活動の最中にオイルショックがあり、大変苦労したようだ。そういう意味では父も母も一生涯、お金に縁のない人生を送った。その辺は遺伝ではないはずだが、呑気に暮らす弟と違って、私だけ貧乏性を受け継いでしまったようだ。

とはいえ、父も母も上々の人生を送ったのではないかと思う。ほかのことは似ていなくても、そういう人生を受け継ぐことが出来たら、なによりの幸せなのだろう。

仏教では本来あまり血筋のことはとやかく言わない。「血」などというものは何代にもわたると、膨大な広がりを見せる。たとえば三十代さかのぼるだけで、何と十一億人にもなるのだから血筋などは意味をなさないことになる。

それよりも仏教で大事にするのは「血脈」である。血脈とは、教法が師から弟子に伝えられること(師資相承)で,身体の血管に血が流れるのにたとえて,その持続性と同一性をあらわすものを指す。教法の相承を「血脈を白骨にとどめ,口伝を耳底に納む」などと表現するほどである。

私たち行者は肉身を両親から受けたが、人生を生きる真実の法を収める心は蔵王権現さまや役行者さまからいただいた。身体も心も両方が大切であるのはいうまでもない。故にその両方を大切にしながら、凡夫の生涯であるとしても、身心ともに上々の人生を送れたらと願わずにはいられない。               

ー「金峯山時報平成24年11月号所収、蔵王清風」より

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*写真は小学生の頃に大峰参りをしたときの父とのツーショット(蔵王堂前)。

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