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「2月5日(日) 林南院節分会大祭のご案内」

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「2月5日(日) 林南院節分会大祭のご案内」 

私の自坊林南院では、本年も星供祈祷壇護摩供を以て、今年一年の開運厄除除災招福を祈念する 「林南院節分会大祭」 を厳修いたします。

今年は2月の第1日曜日である2月5日(日)午前10時30分から執り行います。

当日は例年通り、午前中には日数心経会として全員で般若心経をお唱えし、引き続き今年一年の運勢解説と法話を住職が行います。また今年から新しく福引き付き特製「脳天飴」の恵授も行います。

そして、メインの午後の護摩供では本堂ご宝前にて、参拝者一人一人に無病息災開運厄よけの特別霊杖加持を修法します。身も心も清浄になりましょう。

なお、法要後には、境内にて古札のお焚きあげを行います。古いお札をお持ち下さい。

万障繰り合わせの上、ご参拝下さいますよう、ご案内申し上げます。 合 掌

*当日は混雑致しますので特別祈祷、特別大札祈祷、脳天のぼりの奉納、および護摩木を別紙申込み書によりお申し込み下さい。
また今年より新たに一年間・半年間の長日祈祷も申し受けています。

○ 節 分 会 大 祭 執 行 要 項

日 時 2月5日(日) 午前10時半より

厳修方
・午前10時半:日数心経(開運を祈り、全員で唱えます)                     ▽住職講話[今年の運勢のお話]
        ▽破魔矢などの景品付き「脳天飴」の恵授配布
・正  午 :昼食(田舎弁当を用意しています)
・午後1時 :幸せを呼ぶ星供採灯護摩供厳修 *本堂で修法します
       …護摩中、参拝者全員に特別加持を行います
      引き続き、古札発遣・古札焚き(境内外の浄壇で梵焼します)
・ 午後三時頃:お札授与、甘酒接待             
 
◎当山にて粗昼食を準備しております故、早々とご来山下さい。

「日本の多様性について」 ・・・田中利典著述集290125

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「日本の多様性について」 ・・・田中利典著述集290125

私たちは明治以降、「近代合理主義」に少し洗脳されてきたのではないでしょうか?

面白いことに、日本人は生まれたら宮参りを、お盆やお彼岸には墓参りを、そしてお正月には初詣をします。結婚式に至っては、八割方がキリスト教式か、神式です。その上、クリスマスにはキリスト生誕のお祝いをし、死んだらおおかたの人がお坊さんを呼んで葬式を出します。

...

そんなことをしているにも関わらず、「あなたは宗教を信じていますか?」と人から尋ねられると「いえ、私は無宗教です」とか、「私は無信心です」と言うでしょう?

これはおかしいと思いませんか? 本当に無宗教(無信心)の人ならば、そんなことはしません。では、何故、皆このように答えるのでしょうか? 確かに、一神教を信ずる人たちから見れば、「宮参りをし、クリスマスを祝い、法事をするような」無節操な人々は無信心です。けれども、それは一神教を信じる人々の価値観であって、日本人はずっとそういうことをやってきた訳です。

明治維新から約百五十年が経とうとしています。確かに、日本は経済発展を遂げましたが、現在の日本人のこころの依りどころ、もしくはこころの有り様というのは、既に取り去られて久しい気がいたします。梅原猛さんがおっしゃった「明治以前の取り戻すべき感性」があるとすれば、まずそういったことを見直すところから入っていかなければなりません。

私は修験道の立場から発言しますから、修験者として言っていますが、私は別段、「修験道だけが優れている」と思っている訳ではありません。確かに、修験道には、今日申し上げたように、たくさんのキーワードが残されていますが、同様に、神道にも仏教にも数多くのキーワードが残されているのです。ただし、近代合理主義の弊害に気付きがないと、なかなか元々からあった、日本人の多様な精神文化を取り戻すことは叶わないように思います。

「宮参りもするが、墓参りもする」日本人の心情というのは、決して卑下するものではないと思います。一神教を信じる人たちが行っているように、ひとつの価値観で物事を括ろうとしている限り、いつまで経っても争いは絶えません。

日本においては、イスラム教徒とキリスト教徒が喧嘩しているのを、私はついぞ見たことがありません。日本人が全てを受け入れてきたように、「多様なものを持っている」ということが大事です。

「多様性」とは、単に宗教だけを指すのではなく、自然との関わり、人との関わりの中で育まれるものでもあります。「日本には四季があり、豊かな自然環境がある」また「地震や台風など、自然災害が多い国」と言われますが、もし、日本がもう少し北に位置していれば北方文化(大陸・遊牧文化)になったでしょうし、もう少し南に位置すれば南方文化(海洋・漁労文化)になっていったのです。

しかし、日本は、中国や韓国から(儒教や仏教や道教といった高度に体系化された)文化が入ってくる一方、北方及び南方からも、それぞれ独自な文化が入ってくる反面、南東側は地球で一番広い太平洋だけが広がっている・・・・・・すなわち、諸文化の集積地だった訳です。それが、多様な文化を並立して育んできたのです。

更にですが、この限られた日本列島の下には、全地球上の一割にあたる八十いくつかの活火山があります。そういった自然からの驚異もあるが、同時に多様な自然からもたらされる豊かな恩恵もある・・・・・・。われわれの感性は、そういう自然条件と様々な文化が交わった中から育まれてきたものなんですから、そんなに卑下する必要はないんです。

むしろ、こうも言えるのではないでしょうか。「もしかすると、ひとつの価値観で括ろうとすることで衝突が起こり、自然をもの(対象物)として見ることで破壊を進めてきた二十世紀の反省を促す、あるいは提言を与えられるような価値観を日本の歴史・文化は持っているのではないか」と・・・・・・。

ぜひ、宗教者のほうから、今後そういった提言を続けていくことが、大切なのではないか? と思います。

今の日本は、何処に立っているのか? これから何処へ行こうとしているのか? 明治以降、宗教者もある種そういう価値観(近代合理主義)に手を貸し、共に歩んできた面があったと思います。しかし、もう一度明治以前の価値観を見直すことを自らの教えの中に見出すことが、より日本を活性化させることに繋がるのではないかと思います

  ー大阪国際宗教同志会:平成17年5月23日、「愛・地球博」長久手会場「地球市民村」において開催/国際シンポジウム基調講演・田中利典『水・森・いのち』より

**************

私はもう4-500回くらいの講演やシンポに出させていただきました。その中で多くの講演録、シンポ録がありますが、その中でも1,2を競う素晴らしい講演録だと思います。

なお、この講演録は知友の三宅義信先生の手が入ったものです。全文は ↓ ここにあります。ご参考まで・・・。

http://www.relnet.co.jp/expo/event_31riten.htm

*写真はイメージです。

「りてんさんの知人友人探訪予告!」

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りてんさんの知人友人探訪予告!」
 
明日のならどってFMのラジオ出演のゲストは奈良県庁の辻本観光局長です。
 
ご存じのとおり、地元綾部のコミュニティラジオ・FMいかるでこの4月よりコメンテーターを始めましたが、その中で「りてんさんの知人友人探訪」というコーナーを放送しています。
 
また最近は、ならどっとFMさんと、FMいかるとの共同で制作をしていただき、奈良のみなさんにも聞いてもらっていますが、明日はならドットFMさんで、今年最初の収録をします。
 
ならどっとFMでの放送は第2金曜日の午後3時から4時までの生放送。その中で、毎回、奈良の知人友人をお招きして対談させていただいています。
 
今回は私の金峯山寺時代に、吉野の所轄だった南部東部振興の振興監としてお世話になった今の辻本観光局長さま。地方創世の話などをお聞きしようと思います。
 
奈良局での収録では過去、興福寺副貫首の森谷英俊猊下や岡本彰夫元春日大社権宮司さまはじめ、薬師寺の村上太胤管長さまなど、多彩な方々に出て頂いています。
 
明日の3時から4時、奈良の方はどっとFMで聞いてください。
http://www.jcbasimul.com/?radio=narafm
 
奈良市以外の方は、サイマルラジオで全世界で聞けます→http://www.jcbasimul.com/?radio=fmikaru 
 
なお、過去の収録分は順次、私の新しい公式サイト→ http://www.tanakariten.com/ でアップさせていただきます。
 
*写真は前回の金峯山寺管長五條良知さんとの収録時のものです。

小椋佳「歌談 老猿の会 コンサート」 2017

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椋佳  「歌談 老猿の会 コンサート」 2017 ・・・に行ってきました!
 
先日(7日)、京都のロームシアターで行われた小椋佳の「歌談 老猿の会 コンサート」に独りで行った。ひとりでコンサートに行くのは30年ほど前の、山崎ハコのコンサートと、10年ほど前に行った井上陽水のコンサート以来である。
 
さすがに歌い手の年齢を考えると、頷けるような世代の人ばかりで、私の少し上から少し下の年代ばかりであった。夫婦連れか、おばさんのペアが多かった。男の二人連れというのはほとんどなかった(笑)が、独りというのもいささか肩身が狭かった。
 
実は小椋佳のコンサートははじめてである。一度、蔵王堂で吉野JCが桜のシンフォニーとして小椋佳を招いたことがあって、そこで生の小椋さんに会ったが、もう30年以上前のことになろうか?いずれにしろ、73才を迎える小椋さん。胃がんを患って、すごくやせておられたのが遠目にもわかるほどだった。行けるときにいっておかないと、二度といけないかもと思って、一人で行ってきた。
 
歌は往年の「さらば青春」「俺たちの旅」「愛しき日々」ではじまり、最近の歌なども少し織り交ぜながら、「少しは私に愛を下さい」「泣かせて」など、涙が出るほど懐かしい歌が続いた。小椋さんの次男のお嫁さんという琵琶奏者坂田美子さんが琵琶を演奏しながら「花霞そして舞落ち葉」を歌い、またウクライナ出身のバンドゥーラ奏者ナターシャ・グジーが小椋さんの歌をカバーしたアルバム発売の話が紹介され、小椋さんの歌をバンドゥーラの弾き語りで1曲歌たわれた(題名はわすれちゃいました。有名な楽曲です。めまいだったかなあ‥)。
 
そのあと、たぶん小椋さんの最近のコンサートでは常設でやっておられるのであろう、朗読劇/歌綴りが行われた。劇中に何曲か懐かしい小椋さんの歌が入り、最後は「愛燦燦」で朗読劇の幕が閉じられえた。
 
その後、みんなが知っている歌に戻り、「夢芝居」「シクラメンのかほり」「山河」と続いた。ほかにも何曲か披露されたが、覚えられなかったので、セットリストまではあげられない。ともかく朗読劇だけでなく、曲間のおしゃべりが結構長くて、2時間にしては歌われた曲数はあまり多いとは言えないが、往年の曲が多くて、私的にはとても感激したコンサートだった。アンコールは知らない歌の3曲だったが(「次の街へ」「顧みて」「サヨナラ」かな)、とてもいい感じで終わったのでした。
 
まあともかく、一度もスタンディングも手拍子もない、飄々としたコンサートでした。題名のとおり、お客も老猿の世代。私もおだやかな音楽会の時間を堪能しました。
 
全国ツアーなので、このあとも各地を回られるそうですが、小椋佳世代の方にはおすすめです。
 
*曲名は順番も含めて、まちがっていたらごめんなさい。

「守られている力」

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「守られている力」ー田中利典著述集290116

10月末からはじめた金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いたた駄を折に触れて転記していますが、今日は6年前の文章です。

今読み返しても、自分なりに納得が出来る。人には常にそういう見えざる力が働いていると思うし、そう思って生きるところに人間の人間たる尊厳があるのかもしれない。

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「守られている力」

教信徒のみなさまは当然ご存じのように、山伏の修行は一般の人々と行者が一緒に歩く。互いに助け合うことを旨とする菩薩行の真骨頂であるが、はじめて参加した人も、もう何十回と山修行をしている人も同じ道を同じように歩くのだ。

山中にはちょっと油断すれば、命を危うくするような行場や道中が連続するが、考えてみればものすごく怖いことである。どういう素性の人か、どの程度の体力があるのか、全くわからないずぶの素人をそういう危険な場所で共にするのである。

はじめて私が大峯奥駈修行の大先達を仰せつかったとき、それまで奉行として隊のサポート役で参加してきたときとは全く違う責任感の大きさを感じたが、一番の負担となったのは、そういう見ず知らずの人を預かるという、恐怖にも似た不安感であった。

そんなプレッシャーを感じながら何度か大先達を勤めたが、ある時、ふと気づいたことがあった。

なんとなく、こういった危険と裏表の厳しい修行に参加する人というのは、どこかで、守られている人なんだなあという、漫然とした感触である。その守っているのが、その人の先祖霊なのか、守護神なのか、あるいは大峯の御本尊金剛蔵王権現なのか、それはそんなに大した霊能力者でもない私にはわからないが、確かに何かに守られている。

守られているからこそ、たとえ何十メートル滑落するような大事故に遭っても、命を救われたり、すんでの所で落ちずに済んだりするのだ。

そう思いついてからは大先達のプレッシャーからかなり解放されたが、これはもしかすると奥駈修行だけのことではなく、いかなる場所でも、そして誰にでも当てはまることなのかも知れない。

例えば海外旅行に行って、最後の最後、守ってくれるのはツアー会社でもなく日本国でも、まして当該国でもなく、まさに自分自身の聖なる守りの力なのではないだろうか?奇禍に遭うか遭わないか、事故から逃れるか巻き込まれるか、その差があるとするなら、その人の持っている守られている力の差なのではないか、そう私は思うのだ。

さて、そう思うなら、普段から先祖を大切にし、鎮守の神さま、ご縁のあった本尊様と親しくしておくことが大事だとわかるだろう。いや、それをきちんとわかることは危険この上ない人生を生きていく中でとても大切なことなのである。

いかが思われるや…。「南無蔵王一仏哀愍納受悉地成就」

ー「金峯山時報平成22年2月号所収、蔵王清風」より

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*写真は過去に行じた大峯奥駈の行中です。

「金峯山寺五條良知管長さんご登場!」

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「金峯山寺五條良知管長さんご登場!」

明日1月4日は今年最初の地元綾部コミュニティラジオFMいかる「とれたてワイド763」の出演日。正午から2時半までの生放送です。よろしければ、お聞きください。

明日の放送は実は年末に、奈良のならどっとFMで収録した「りてんさんの知人友人探訪」の五條良知金峯山寺管長さん編(奈良は12/9放送)。ご存じのように良知さんは私の実弟。いわゆる、兄弟共演なのですが、お互い遠慮もあってか、かなりちぐはぐな会話となっています。すいません・・・その辺を差し控えて、お聞き下さい。放送は午後1時頃からです。

また午後1時半過ぎからの「りてんさんの今日の1曲」は吉田拓郎さんの「明日に向かって走れ」。拓郎さんがいま一番好きな自分の曲だと言っています。名曲ですね。

インターネットで、ラジオ放送は全国どこでもリアルタイムに聞けます。
→ https://t.co/L4W7W6zSNO

奈良での放送を聞き逃した方も是非!!

なおYouTubeと田中利典公式サイトで、「りてんさんの知人友人探訪」は順次、アップされています。過去11回の放送がありましたが、今はまだ第1回のみです。そのうち、残部がアップされると思いますので・・・乞うご期待。

公式サイト 
→http://tanakariten.com/

*写真は金峯山時報正月号に告知された記事です。

「日本文化の再生」ー田中利典著述集290101

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「日本文化の再生」ー田中利典著述集290101

あけましておめでとうございます。拙稿著述集の今年最初の投稿です。

金峯山寺の機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」で書いた駄文を折に触れて転記していますが、今日は7年前のお正月の文章です。

少しも色あせてはいない感じがかえって、病巣の根深さを自覚させますねえ。

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「日本文化の再生」

新年明けましておめでとうございます。その新年ののっけから、ナンですが…今まさに、日本文化が危機に瀕しているように感じます。

明治維新の欧米化から百四十年。大東亜戦争の敗北から六十数年。哲学者梅原猛氏が指摘するように二度の神殺し(「反時代的密語~神は二度死んだ」)が、日本文化を破壊しつつあります。

梅原氏曰く、一度目の神殺しは明治の神仏分離。それは単に神仏の殺害ではなく、神と仏を共に尊んできた日本の精神文化の基層の部分の崩壊を意味し、そして崩壊させてのちに、新たに構築したのが天皇を神として奉り、国家神道を中心に据えて誕生した近代国家だったのです。

これによって我が国は東アジアで唯一、近代化にいち早く成功を収め、繁栄を享受するところとなりますが、肥大化しすぎた国家はその挙げ句、欧米列強との衝突によって、大東亜戦争に突入し、敢えなく敗戦を迎え、そして進駐軍政策の下、せっかく神仏分離をしてまで作った国家神道はみごとに解体され、天皇は人間宣言をして、二度目の神殺しが行われるところとなった、というのです。

さてここにいう文化とは何なのでしょうか。文化とはカルチャーであり、土地を耕すという原意を持ちます。 つまり文化とは元々は土地であり、風土であり、国土なのです。ドイツ・ワイマール共和国時代に、作家トーマス・マンはそれを、その風土から生まれた宗教だ、とも言っています(『非政治的人間の省察』)。

日本文化の危機は日本の風土の危機であり、日本の宗教の危機ともいえるでしょう。

いま、いろんな場所、いろんな状況下で危機が叫ばれています。世界的にグローバル資本主義が暴れ回る中、経済破綻、自然環境破壊、文明間の衝突、そして内側では、学級崩壊、家庭崩壊、重度の人格崩壊…などなど。それはもしかすれば明治以降の近代化百四十年の中で急速に広まったことであり、しかも単に日本だけの危機ではなく、世界的な文化の危機なのかもしれません。

実に、文明は文化を駆逐するのです。近代というバケモノは高度な物質文明社会、機械文明社会を産み出し、世界各地の文化を壊し続けてきました。文化は風土であり、習俗であり、宗教であるとするなら、世界各地にあったにその土地土地の風土が壊れ、習俗、宗教の消滅を生んだのは、近代文明がもたらした紛れもない災禍でありましょう。

決して飛躍的な考え方ではなく、そういう時代に生まれ合わせていることを、現今の宗教人は自覚しなければいけないのではないかと私は思っています。宗教人こそ、文化の担い手の最終砦なのです。とりわけ明治の神仏分離によって壊滅的な破壊の対象となった日本固有の宗教である修験道に身を置く私にとっては、痛みを持って実感するところであります。

「破壊は再生だ」ともいいます。宗教人はものごとをネガティブに考えず、ポジティブに考えなければなりません。ポジティブに、文化破壊の時代を生きなければならないのです。破壊によって再生がなされるなら、いまこそ再生の時ととらえ、行動すべきなのだと考えています。

ここ十数年、声を枯らして修験道ルネッサンスを提唱し続けた私の原点はまさにこの思いからなのです。文化は宗教なり…この金言を心に銘じて、今年一年もまた頑張り抜きたいと思っています。南無蔵王一仏哀愍納受悉地成就…

ー「金峯山時報2010年1月号所収、蔵王清風」より

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意気込んで書いていた7年前が懐かしい気もします。私なりにこの道を突き進んでいければと願っております。

*写真はイメージです。

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